(Manowar から転送)
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| マノウォー Manowar |
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2009年のNorway Rock Festivalにて
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| 基本情報 | |
| 出身地 | ニューヨーク州オーバーン |
| ジャンル | ヘヴィメタル[1] エピックメタル[2] パワーメタル[1] スピードメタル |
| 活動期間 | 1980年 - |
| レーベル | リバティレコード メガフォース・レコード 10レコード アトランティック・レコード ゲフィン・レコード ニュークリア・ブラスト NEMS エンタープライズ マジック・サークル・ミュージック |
| 共同作業者 | ケン・ケリー オーソン・ウェルズ ニール・ジョンソン |
| 公式サイト | Manowar - The Official Manowar Website |
| メンバー | ジョーイ・ディマイオ (ベース) エリック・アダムス (ボーカル) アンダース・ヨハンソン(ドラムス) E.V.マーテル(ギター) |
| 旧メンバー | ロス・ザ・ボス (ギター) デイヴィッド・シャンケル (ギター) カール・ローガン (ギター) カール・ケネディ (ドラムス)ドニー・ヘムズィク (ドラムス) ライノ (ドラムス) スコット・コロンバス (ドラムス) |
マノウォー(Manowar)は、アメリカのヘヴィメタルウォリアーズである。
1980年、ブラック・サバスのツアーにパイロテクニクス及びベースの技師として同行していたジョーイ・ディマイオと、ツアーのオープニングアクトを務めていたShakin' Streetのロス・ザ・ボスが意気投合して結成された。バンド名の由来は軍艦を意味する"Man of War"から。
真のヘヴィメタルを標榜する彼らは「偽メタルに死を」 (Death to False Metal)を合言葉に掲げ、1982年に『地獄の鎮魂歌』 - Battle Hymnsでデビュー。力強くドラマティックな楽曲にエリック・アダムスのシャウト、ジョーイ・ディマイオの"光速"ベースが特徴。 右拳を握り締め、その手首を左手で掴んで頭上に掲げるポーズは「マノウォー・サイン」あるいは「サイン・オブ・ハンマー」と呼ばれており、彼ら自身やファンの間だけではなく、他のバンド、ミュージシャンもライヴなどでポーズをとる事がある。
母国米国では一般的には殆ど無名に近いが、日本、欧州では根強い人気があり、特にドイツでは熱狂的な支持を誇っている。2002年の『ウォーリアーズ・オブ・ザ・ワールド』[3]、2007年の『ゴッズ・オブ・ウォー』[4]は、いずれもドイツの一般アルバムチャート(GfK Entertainment charts)で最高位2位を記録した。
1980年、ブラック・サバスのヘヴン&ヘルツアーにパイロテクニクス及びベースの技師として同行していたジョーイ・ディマイオと、元Dictatorsのギタリストで、ツアーのオープニングアクトを務めるShakin' Streetに参加していたロス・ザ・ボスが意気投合し、ツアー終了後にジョーイの幼馴染で一緒にバンド活動もしていたエリック・アダムスをボーカルに、ドラマーには後にThe Rods等で活躍するカール・ケネディを加えた4人で結成された。
結成後暫くは小さなライブハウスでカバー曲を披露しながら少しばかりの成功を収めていたが、数カ月後にはオリジナル曲の作成に着手し、1981年には2曲入りのデモテープDemo '81を完成させた。この頃カール・ケネディがバンドを脱退するが、程なくドニー・ヘムズィクを後任に迎え、メンバーはライブ活動を続けながらレコード会社への売り込みを続ける多忙な日々を過ごしていた。
同年、彼らが作成したデモテープがレコード会社の目に止まり、リバティ・レコードとレコーディング契約を締結。翌1982年にはデビュー・アルバムの『バトル・ヒムズ(旧邦題:地獄の鎮魂歌)』を発表した。アルバムに収録されたDark Avengerではハリウッドを代表する映画監督、脚本家、俳優であるオーソン・ウェルズが曲中のナレーションを務めた[2]。
デビュー・アルバムのリリース後、テッド・ニュージェントのサポートアクトとして初のツアーに出るが、その関係も長くは続かなかった。そこで自らがヘッドライナーの小規模ツアーを実施し、アメリカ国内での支持を高めていくとともに、イギリスやドイツといったヨーロッパの国々でも一部のヘヴィメタルファンに注目される存在となった。このツアーを最後にドニー・ヘムズィクがバンドを去ることを決意したため、彼の後任として期待の若手であるスコット・コロンバスを迎えることとなる。
1983年にはアメリカ国内でメガフォース・レコードと、ヨーロッパではミュージック・フォー・ネイションズとそれぞれレコーディング契約を締結するが、その際に血判状の如く自らの血で契約書に署名をした。その様子はヘヴィメタル専門誌ケラング!第47号の巻頭で特集され、同時に「マノウォー・新時代の蛮族」 - MANOWAR the new barbarians の刺激的な副題とともに表紙を飾ることに成功した。
契約を済ませた彼らは早速スタジオに入り、2ndアルバム『イントゥ・グローリー・ライド(旧邦題:地獄の復讐)』を発表した。その後、アルバム未収録曲にオーソン・ウェルズのナレーションを吹き込み『ディフェンダー』として完成させ、同年EP盤として発表した。この頃にはヒロイック・ファンタジーや北欧神話をモチーフにした現在に至るバンドの作風やスタイルが確立し、エピックメタルやヴァイキング・メタルの勃興の一翼を担った。この叙事詩的なスタイルが特にイギリスに於いて大いに受け、バンドは大規模なイギリスツアーを計画するが、結果的にこれは頓挫することとなった。
ツアーの計画が頓挫した彼らは次のアルバムをイギリスのファンに捧げることを決意し、1984年初頭、レコーディングからミキシングまでを僅か6日という短期間で成し遂げ3rdアルバム『ヘイル・トゥ・イングランド』を完成させた。このアルバム発表後にイギリスで大々的なプロモーションツアーが組まれ、当初はマーシフル・フェイトのサポートアクトの扱いだったものが、ツアー中にマノウォーがヘッドライナーに改められるほど熱狂的に迎えられた。
この観客の反応に自信を深めたバンドは、ツアーを終えるとすぐさまレコーディング作業に戻った。新たに10レコードと契約し、前作から僅か10カ月後の同1984年、4thアルバム『サイン・オブ・ザ・ハンマー』を発表した。スローテンポで重厚なMountainsに続けてのスピード感溢れるタイトルトラックSign of the Hammerに代表されるように明確な緩急に溢れる構成とされ、この新作を携えての約2年に渡るワールドツアーは世界中で多くの観衆を集め、バンドに新たな成功をもたらした。
今後の活動方針について10レコードと意見の対立があり、1987年にバンドはアトランティック・レコードに移籍して新作『ファイティング・ザ・ワールド』を発表した。このアルバム以降はレインボーやキッスのジャケットを描いたこともあるケン・ケリーがアートワークを担当し[5]、彼が描き出す剣と魔法の世界がバンドが持つ屈強な戦士のイメージをより広く浸透させることに一役買っている。
1988年、彼らの代表作として最もよく知られる『キングス・オブ・メタル』を発表。タイトルトラックのKings of Metal、そしてHail and Killはライヴの定番曲となり、彼らの作品の中で最も多く売れたアルバムとなった。このアルバムのジャケットにはバンドとバンドのメンバー、そして彼らのファンの全てを象徴する存在として、敢えて顔をはっきりとは描かれていない戦士が登場し、これ以降の彼らの作品の多くに描かれることとなる。バンドは足かけ約3年に渡る世界ツアーを開始、その間ヨーロッパの殆どの国で公演を行った。その最中、ロス・ザ・ボスがバンドを解雇され、彼の後任には約150人の候補者の中からデイヴィッド・シャンケルが選ばれた。ボスは後年、専門誌Guitaristのインタビューで「・・・ジョーイはマノウォーの躍進には別のギタリストが相応しいと感じたようだ」と答えている。またスコット・コロンバスもツアー中にバンドを離れることを決意し、自らの後任としてライノを指名した。この交代時にライノはスコットの使用していたドラムセットを譲り受け、自分が所有していたドラムセットを焼却した。
1992年、新メンバーによる7thアルバム『勝利の鋼鉄』発表。叙事詩イーリアスをモチーフとし、ヘヴィメタルの楽曲としては異例の28分8パートにも及ぶ大作Achilles, Agony and Ecstasy in Eight Partsが収録されていることでも話題となった。アトランティック・レコードとの契約満了後、ゲフィン・レコードに移籍。
1994年、デイヴィッド・シャンケルが突如脱退、自身のバンドDavid Shankle Groupを始動したため、彼の後任としてジョーイのバイク仲間のカール・ローガンが加入した。同年、ライノの後任としてスコット・コロンバスがバンドに復帰した。
1996年、8thアルバム『ラウダー・ザン・ヘル』発表。4年振りの新作は好調なセールスを記録したが、これまでの叙事詩的で大仰なスタイルと比較して随分シンプルな作りであることが、主に従来のファンからは批判された。
1998年、ラウダー・ザン・ヘルツアーの模様を収めた2枚組、バンドとして初のライヴアルバム『ヘル・オン・ウィールズ・ライヴ』を発表。翌1999年、これも2枚組のライヴアルバム『ヘル・オン・ステージ・ライヴ』発表。共にツアー中に収録された膨大な素材の中から、演奏の質や観客の反応など様々な要素を勘案して選ばれたベストテイクの詰め合わせとなっている。
2000年、ニュークリア・ブラストに移籍し、ライヴビデオ『ヘル・オン・アース パートI』発表、翌年DVDで再発表。そして2002年、実に6年振りのスタジオアルバム『ウォリアーズ・オブ・ザ・ワールド』発表。タイトルトラックにしてライヴの定番曲Warriors of the World Unitedをはじめ従来からの力強い楽曲が収録されているが、興味深いのはジャコモ・プッチーニ作曲の歌劇『トゥーランドット』のアリア『誰も寝てはならぬ』を原曲のイタリア語でカヴァーしており、これはミラノにおけるライヴで初披露、イタリアのファンに捧げられた。
新譜発表後、バンドは長きに渡る「ウォリアーズ・オブ・ザ・ワールド・ユナイテッド・ツアー」を開始。その間スタジオでのレコーディング作業が行えないこともあり、2002年から2006年までの間に4枚ものライヴDVDが立て続けに発表された。これらのDVDは全てニール・ジョンソン監督によって編集され、その全てがドイツにおいてゴールドディスクに認定されている。 2005年、ジョーイは「自らのバンドが高い質を保ち、また何よりも質の高い作品をヘヴィメタルファンに届ける為に」マジック・サークル・ミュージックを設立。自ら代表に就任するとともに、マノウォーと彼らに近しいバンドが所属している。2006年のEP盤『ザ・サンズ・オブ・オーディン』以降、バンドはこの新たなレーベルから作品を発表している。
2007年、5年振り10枚目のスタジオアルバム『ゴッズ・オブ・ウォー』発表。ヨーロッパにおいて数多くのショウを行った後、2009年に2枚組のEP盤『サンダー・イン・ザ・スカイ』発表。1枚目は通常盤、2枚目のディスクには1枚目の収録曲Fatherの、日本語を含む15カ国語版を収録し、各国のファンに捧げた内容となっている。
2008年4月、身内の不幸を理由にスコット・コロンバスがツアーから離脱、ドニー・ヘムズィクがツアーのサポートドラマーとして久々にバンドに復帰した。
2010年6月1日、音楽雑誌『クラシック・ロック』がスコット・コロンバスのインタビューを掲載。その中でスコット本人が、彼自身が2008年4月の時点で正式にバンドを脱退しており、また過去に一時的にバンドを離脱した理由とされた1990年の息子の病気、2008年の身内の不幸は共に偽りであり、自分の同意なしに発表されたものだと明かした。この時点でまだマノウォー公式サイトにはスコットがメンバーとしてラインナップされており、10月15日になってようやく、ジョーイがFacebook上で、ドラマーには26年振りにドニー・ヘムズィクが復帰すると公式発表した。
2011年4月5日、マノウォー公式サイトにて、元メンバーのスコット・コロンバスが4月4日に死去したことが発表された。死因は伏せられた。
2011年7月、デビュー・アルバム『バトル・ヒムズ』を現在のメンバーでセルフカバーし『バトル・ヒムズ MMXI』として発表。1982年当時はオーソン・ウェルズが担当したナレーション部分を、自らもヘヴィメタルシンガーとして活動する俳優のクリストファー・リーが務めた。バンドは手始めに16年振りとなるイギリスツアーを催行、『バトル・ヒムズ MMXI』アルバム完全再現ツアーとされた。
2012年、『ザ・ロード・オブ・スティール』発表。まず6月16日にiTunesやバンドの公式サイトで先行発売され、6月26日発売の音楽雑誌Metal Hammerの特別付録として限定発売、同年9月に一般発売された。前作『ゴッズ・オブ・ウォー』が叙事詩的なコンセプトアルバムだったのに対し、本作は率直なスタイルのヘヴィメタルに回帰しており、収録曲El Gringoは2012年公開の同名映画El Gringoのテーマソングとして採用された。
2013年7月、バンドの代表作である『キングス・オブ・メタル』発表25周年となるこの年、現在のメンバーにより当時より進歩したレコーディング技術を用い、収録曲The Warrior's Prayerのナレーションにはオーソン・ウェルズに代えて俳優・声優のブライアン・ブレスドを起用してセルフカヴァーアルバムとして発表すると公表した。
翌2014年2月、『キングス・オブ・メタル MMXIV』発表。そのプロモーションツアーとして、同月のシカゴ公演を皮切りに世界ツアーを開始した。
2016年5月25日、公式サイト等においてバンドの活動終了と、"The Final Battle"と銘打った最後の世界ツアーを2017年11月のドイツ公演から開始することを発表した。
2018年10月、8月にカールが児童ポルノ禁止法違反で逮捕され起訴されており、係争中は活動を自粛することを発表。翌年のツアーには参加出来ないことが明らかにされ、サポートメンバーにE.V.マーテルを起用することが決定した。
2019年春からのツアーにドニーが参加しないことが判明。サポートメンバーにアンダース・ヨハンソンを起用する[6]。
2022年9月、翌年2023年2月からツアーを開催することを発表。サポートギタリストはマイケル・アンジェロを起用する予定。
過去に2度来日し、それぞれ単独公演を行っている。なお、2014年の公演は本来10月18日のLOUD PARKに出演する予定だったものが、ロサンゼルス港の火災[7]の影響で機材の到着が間に合わなくなったためにキャンセルとなり、別日程で単独公演が組まれたものである。[8]
マノウォーの楽曲は、バンドの中心人物にしてメインソングライターであるジョーイ・ディマイオの思想信条に基づく明確なキャラクター付けが特徴であり、多少の演奏スタイルやモチーフの変化はあるにせよ、1980年のバンド結成から一貫しているのは「偽メタルに死を」 (Death to False Metal)の合言葉に対応した「真のヘヴィメタル」 (True Metal)を表現せんとする王道的なヘヴィメタルであり、手法としてのパワーメタル、エピックメタルであり、彼らのファンとの信義則に基づくものである。
1stアルバム『バトル・ヒムズ』にはロックンロール色の強い楽曲も収録されており、まだバンドの持つ音楽的イメージが十分には固まっていなかったが、2ndアルバム『イントゥ・グローリー・ライド』から筋骨隆々とした闘士のイメージを確立。以降モチーフを中世ヨーロッパの闘士、北欧神話、ギリシア神話・インディアンなどに求めた勇壮・雄大で高揚感の溢れる作品作りを中心に行う一方、各アルバムには必ずと言っていいほどバラードも収録され、戦士の孤独や倒れていった者達への哀悼などを哀愁漂う楽曲で表現することで、これら楽曲がアルバムに緩急をもたらすとともに、作品としての深みを持たせることに寄与している。これら叙事詩的なスタイルは主にヨーロッパで人気を博す一方、本国アメリカにおいては欧州ほどの支持は得られていないのが実情である。
他にはバンド自身や世界中のファンのことをモチーフにした楽曲、特にライヴにおける観衆との掛け合いを前提とした曲作りが多いのも特徴である。特筆すべきは『ヘル・オン・ウィールズ・ライヴ』に収録されたWarriors of the World (2002年発表の同名アルバムとは異なる)で、この楽曲はライヴで収録された観客の歓声だけで構成されたチャプターであり、ファンを大切にするバンドの姿勢が顕著に現れている。
彼らのライヴは大音量で知られ、過去に『ギネス世界記録』に登録されたことがある。ライヴのオープニングは「Ladies and Gentlemen, from the United States of America, all hail Manowar!」のナレーションに続けてのManowarの演奏で始まるのがお約束となっており、この決まったナレーションによる開演、そして照明効果やパイロテクニクスを多用する演出は同郷ニューヨーク出身の世界的ロックバンドであるキッスの強い影響がうかがえる。
演奏中はステージを縦横無尽に動きまわりながら感情豊かに歌い上げるエリック・アダムスと、基本的には無表情だが要所要所で歌舞伎役者が見得を切るようにポーズを決めるジョーイ・ディマイオのアクションに特徴がある。演奏や音響に対して妥協がなく、機材に不調があればライヴ中でも演奏を中断して調整を行うことがある。
他にはアンコールの前にジョーイの演説の時間が設けられており、現地語によるスピーチ、他のバンドのTシャツを着たファンを壇上でマノウォーTシャツに着替えさせる、現地の興行主を舞台に上げての乾杯、缶ビールを滝のように注ぎ飲むといったパフォーマンスが行われる。
ライヴの最後はジョーイがエレクトリックベースの弦を一本ずつ引き千切り、今日のライヴが最高のまま終わったことを儀式的に表現して退場した後、The Crown and the Ring (Lament of the Kings)の音源が流れて終演となるのが通例である。
これらの要素に見られるとおり、彼らのライヴは単なる演奏会というより、音響と視覚効果とを綿密に計算しながらの決め台詞・決めポーズなどのお約束と、その上で若干のアドリブを加えた、一種の演劇のようにそれ自体が作品としてステージ上で展開されるところに特徴がある。
メンバー全員が中世の戦士のように屈強な体躯をしており、曲名や歌詞によく現れる「ウォリアー (Warrior)」を体現している。またジョーイが過去のインタビューにおいて、バンドのメンバーになる条件として「大音量での演奏が好きで、女好きで、ビールを飲むことが好き。何より全世界のヘヴィメタルファンを愛していなければならない。」とインタビュアーの問いに答えている。
彼らはファンを非常に大切にすることで知られ、これまで幾多のインタビューや楽曲においてファンに対する敬意を明らかにしてきた。そのエピソードは枚挙に暇がないが、以下はその一例である。
2000年頃まではファンのことをMetal Warriors (ヘヴィメタルの戦士)、Manofans (Manowar + ファンの造語)、又はBrothers (and Sisters) of True Metal (真のヘヴィメタルの兄弟姉妹)などと表現していたが、2012年の楽曲にあるとおり最近はManowarriors (Manowar + Warriorsの造語)と表現することも多い。なお、2014年の来日公演におけるジョーイの日本語による演説によれば「日本のManowarriorsは一人で千人分の力を持っている、マノウォーのTシャツを着ればお前たちは無敵だ」と評して称えた (と同時に、バンドのグッズの宣伝を行った。また、同公演2日目にはこの演説後にマムシ酒を二杯飲むパフォーマンスも行っている)。
1970年代のイギリスに端を発するグラムロックの人気、そして1980年代はその影響を受けたグラム・メタル (別名ヘア・メタル) が一世を風靡した時代であり、1981年にMTVが放送を開始、またモトリー・クルー、ラットなど世界的な人気を博するバンドを輩出するなど特にアメリカにおいてその傾向は顕著であった。
このような時代背景のもと、人気があるジャンルだからデビューしやすいという理由でグラム・メタルを志す若者、或いは成功者としての立場を守るためにこれまで自らが培ってきた音楽性を捨て、宗旨替えをするベテランバンドが数多く現れた。そのグラム・メタル人気の台風の目であるアメリカにおいて1980年、「偽メタルに死を」 (Death to False Metal)をスローガンに掲げマノウォーは結成された。 つまり彼らが掲げた「偽メタルに死を」とは、ある特定のバンドを攻撃するためのものではなく、これら確たる信念もなく音楽を志す者や、ファンを裏切り流行に走る者全てに向けられたものであり、裏を返せば一時の流行に流されることなく信念を貫こうと自らを鼓舞するためのものであり、自分たちは流行に流されてファンの期待と信頼を裏切るような事は決してしないという、ファンに向けたメッセージである。
ライヴで発する音量に関して1984年のドイツ公演で129.5dBを記録し、ザ・フーの1976年の記録を破って『ギネス世界記録』に登録された[10]。なお、2008年のサウンド・チェック時には、それを大幅に上回る139dBを記録したが[10]、ギネスワールドレコーズは既に「聴力障害を促す恐れがあるため」との理由で「世界で最もうるさいバンド」というカテゴリを廃止しており、この時の記録は認定されなかった[11]。
2008年7月、ブルガリアのカヴァルナで開催されたKaliakra Rock Festに於いて、ギターソロやブルガリア国歌を含む全47曲、5時間1分という記録を樹立し「世界一長いヘヴィメタル・コンサート」として『ギネス世界記録』に登録された[12]。
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| マンノウォー | |
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Man O' War, 1920年
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| 欧字表記 | Man O' War |
| 品種 | サラブレッド |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 栗毛 |
| 生誕 | 1917年3月29日 |
| 死没 | 1947年11月1日(30歳没) |
| 父 | Fair Play |
| 母 | Mahubah |
| 母の父 | Rock Sand |
| 生国 | |
| 生産者 | オーガスト・ベルモント2世 |
| 馬主 | サミュエル・ドイル・リドル |
| 調教師 | ルイス・フューステル(アメリカ) |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 21戦20勝 |
| 獲得賞金 | 249,465ドル |
マンノウォー(Man O' War、1917年 - 1947年)は、アメリカ合衆国の競走馬・種牡馬。セクレタリアトと並ぶアメリカを代表する名馬である。「20世紀米国の100名馬(『ブラッド・ホース』誌)」第1位。「20世紀のトップアスリートベスト100(ESPN) 」第84位。全弟にジョッキークラブゴールドカップの勝ち馬のマイプレイがいる。
現在に至るまで「アメリカ競馬史上最高の馬」の座を不動のものとしている馬であり、単に「優れた競走馬」ではなく、ベーブ・ルースなどと共に「時代を代表する英雄」として語られる存在である[1]。
マンノウォーは1917年3月、ニューヨークジョッキークラブ会長のオーガスト・ベルモント2世が所有するナーサリー牧場で生まれた[2]。生後1週間後、後にマンノウォーを管理するルイス・フューステル調教師はかつてナーサリー牧場で働いており、産駒見学をしに久々訪れてマンノウォーの姿を見た時はひょろ長くて体に幅がないと評して印象に残らなかった[2]。同年の秋に乳離れの時期になるや、めきめきと成長し、年が改まる頃にはかつての面影がなくなるほど成長していた[2]。オーガスト・ベルモント2世のナーサリー牧場生産馬はほとんど、妻で元女優のエレノアが命名していた[3][4][注 1]。4月にアメリカが第一次世界大戦参戦を決めると、ベルモントは65歳ながら陸軍に志願し、補給担当官として軍馬購買の任務を帯びてパリに出征した[2][4]。これをうけ、エレノアは「My Man O' War(私の戦争専門家[4]、軍艦[2])」と命名した[4][注 2]。1917年産まれ馬は気に入っていたマンノウォーだけ残して売却するよう言っていた[2]。しかしまもなく、ベルモントは、マンノウォーも売り払うように指示する電報を打った[2]。その話を聞いたフューステルは早速牧場にやってきた。生後と比べ物にならないほど成長し、脚は依然として長めだが骨太で丈夫さと均整のとれたバランスの良い馬体となったマンノウォーの姿を見て驚いて惚れ込み、買うならこの馬だと内心決めた[2]。1918年にサラトガ・スプリングズで開催されたファシグ・ティプトンのスプリングセールに出品されたときには単に「Man O'War」という馬名になっていた[4]。フューステルは サミュエル・ドイル・リドル に熱心に薦めるが、リドルは馬格が障碍向きなことを理由に乗り気ではなかった。しかし、恐妻家のリドルは妻の「馬を調教するのはあなたではなくフューステルなんだから調教師の言う通りにしたらどう!」という言葉を受けて5000ドルで落札し、フューステルに預けた[5]。この落札はのちに「リドルの幸運はベルモントの不運」と称されることになる[5]。同セリで最高価格の15600ドルが付けられたゴールデンブルームという馬を買ったのはリドルの姪で、マンノウォーと1歳秋と2歳春の2回調教レースをする機会があった。1回目の2ハロンレースはマンノウォーの負けだったが、2回目の3ハロンレースは1馬身差で勝ち、ハロンのラップ11秒0というタイムを出し、フューステルは自身の相馬眼に狂いはなかったと満足した[5]。愛称は赤味がかった栗毛の馬体に由来する「Big Red(ビッグレッド)」で、必要な場合をのぞきほとんどこの名前で呼ばれていた。
マンノウォーは1919年6月にベルモント競馬場でデビューし5ハロンをタイム59秒フラットで6馬身差の圧勝をして、8月にかけて6連勝を飾った。
8月13日に7戦目のサンフォードメモリアルステークス(サラトガ競馬場、6ハロン)はマンノウォー以外にゴールデンブルームとアプセットの2頭で3頭立てだった。マンノウォーはスタートで出遅れ、直線コースに入ったところゴールデンブルームが落伍、先頭を走るのはマンノウォーより15ポンド(6.8キロ)軽い斤量のアプセットでその後ろを走り、第4コーナーで大きく外側を通ったあと内側によれ、ゴール前で今度は外側によれるという騎手の不手際があり、半馬身差の2着に敗れた[6]。このレースの優勝馬は番狂わせという意味の馬名を持つアップセットで、のちに「マンノウォーに勝った唯一の馬」として知られるようになった[6]。10日後のレースでアプセットと再戦し、スタートからゴールまでずっと1馬身差を空けてマンノウォーが勝った[6]。さらに2連勝したマンノウォーは10戦9勝でこの年のシーズンを終えた[6]。
1920年、マンノウォーはアメリカクラシック三冠第2戦のプリークネスステークスでレースに復帰した(第1戦のケンタッキーダービーに出走しなかった理由は不明である[注 3][注 4][6]。マンノウォーは同レースを優勝すると11日後にはウィザーズステークスにも優勝した。6月に行われたクラシック第3戦のベルモントステークスは他の出走馬はドンナコーナのみとなったが、勝ちタイムの2分14秒2はダート2200メートルのアメリカレコードを記録し、ドンナコーナに20馬身の着差をつけて優勝した[7]。このレースは当時の新聞によって「ダチョウとガチョウの駆け比べ」と評されるほど一方的なものであった[7]。マンノウォーの生産者だったベルモントは終戦により帰国していたので、このレースを見ており、自分の生産した馬で最良はトレーサリー[注 5]であるという信念を持っていたがこの日を限りに2度と口にしなかった[7]。
ベルモントステークス勝利直後、50万ドルでシンジケートを組む依頼とワゴナーという人物が100万ドル[注 6]という金額を提示して購買申し込みがあったが、リドルは両方共を断っている[8]。
その後は8戦8勝、うち6つのレースでレコードを更新するという非常に優秀な成績を収めた。中でも有名なのが次の2戦である。7月10日、ドワイヤーステークス(9ハロン、アケダクト競馬場)は、マンノウォーとジョンピーグライアーと2頭立てになり、負担重量は前者が126ポンド(57.2キロ)、後者が108ポンド(49キロ)。同時にスタートした2頭はストライドもペースもぴったり同じで、4コーナーから直線コースにさしかかっても2頭の馬が張り付いて走っているようだった。スタンドで見つめる大観衆は静まり、聞こえるのは2頭の蹄が立てる軽い地響きだけとなり異様な雰囲気を醸し出す。そして、ジョンピーグライアーが一歩か一歩半前に出るとスタンドが重く淀んだような嘆声がうずまいた。ゴールまで1ハロンあるか判らない所でカマ―は少しも騒がず、右手に持った鞭で一度マンノウォーの尻を叩き、1馬身差で勝利。敗れたジョンピーグライアーも健闘振りを讃えられた[9]。
9月4日、生涯で最長距離となったローレンスリアライゼーションステークス (1マイル5ハロン、ベルモント競馬場)も2頭立てで開催。マンノウォーは自身より10ポンド(4.5キロ)軽い相手のフッドウィンクをスタートから威容で呑みこんだのか始めの2ハロンで20馬身の差を付け、ゴールでは約100馬身(400メートル)もの着差と、2分40秒8の全米レコードを記録[10]。
10月2日(カナダのケニルワース競馬場、10ハロン)にアメリカ競馬史上初の三冠馬・サーバートンを相手に、賞金75000ドル[注 7]と5000ドルの値打ちの金杯を巡りマッチレースで対戦。一つ年下のマンノウォーは6ポンド(2.7キロ)軽いハンデを課せられた。3万人の観客が見る中、レースは終始リードを保ったマンノウォーが7馬身差の勝利を収めた[11]。この後、競走馬を引退する前に、賞金50000ドルのマッチレースの勧誘や、イギリスから同じ様な条件の申し込みがあったが、種牡馬として供用する予定のマンノウォーに万一の事故があることを心配したリドルに断られて、マンノウォーは種牡馬となった[12]。
獲得賞金は24万9465ドルで、アメリカ史上初めて獲得賞金が20万ドルを超えた競走馬となった[12]。これはイギリスポンドで49839ポンドに相当するがアイシングラスの57455ポンドを下回っており、当時イギリスが賞金面でアメリカを凌駕して名実共に世界の競馬界をリードしていたことを示している[12]。
種牡馬となったマンノウォーはケンタッキー州にある牧場[注 8] で繋養され、初年度の種付け料は2500ドルに設定されたが、初子の活躍により、1925年にはプレミアムがついて実質5000ドルに跳ね上がった[13]。リドルはマンノウォーの年間交配頭数を25頭に制限した[注 9] 。種付け数の制限により、マンノウォーの産駒はもっとも多い年1924年生まれでも23頭しか生まれなかった[13]。さらに、当時アメリカの多くの州で馬券発売競馬の解禁から間もなく、競馬の人気が盛り返して馬資源が不足し、優秀な繁殖牝馬が中々手に入りにくい実情もあった[8]。それでも最初の5年間はリーディングサイアー10位内に名を連ね、1926年にはアメリカのリーディングサイアーを獲得し、その後も4回10位以内に入り、リーディングサイアー10位以内を計10回記録した[13]。産駒数が少なかったことでアメリカ国外の平地レース勝ち馬は見当たらないが、バトルシップがグランドナショナルを勝ち、ブロッケードという馬も障碍レースで活躍し、父を障碍向きと見たリドル評に応じている[13]。
17年間のアメリカのセリでマンノウォー産駒の1歳馬は合計45頭が売却されたが売上金額405365ドル、一頭平均約9000ドルと高値が付いた[14]。しかし、値段の高さに反して45頭の賞金収得総額は196188ドルと半額以下で、1928年のセリにおいてアメリカ史上最高価格の6万ドルで売れたブロードウェイリミテッドは未勝利で賞金0ドルに終わった[14]。
おもな活躍馬にアメリカクラシック三冠馬ウォーアドミラルや後継種牡馬となったウォーレリックなどがいる。日本では直仔の月友は故障で未出走だったが種牡馬として活躍し、さらに直系種牡馬のヴェンチア、リンボーなども活躍を見せた[15]。
ブルードメアサイアーとして約15年間上位にいた。マンノウォーのニックスとしてはロイヤルチャージャーやナスルーラら渡米したファロス系種牡馬との配合が好成績でネヴァーセイダイなどが産まれた[14]。
気性はすこぶる荒かったが、旺盛な食欲と故障知らずで頑丈な体で馬主に迷惑をかけなかったが[16]1943年に心臓衰弱が酷くなり種牡馬を引退。1947年11月1日、激しい疝痛に襲われて心臓機能も低下したため、リドルの指示で薬殺による安楽死処分された[14]。死後の1957年、アメリカ競馬殿堂入りを果たした。
父フェアプレイは種牡馬として 1920年・1924年・1927年 の3回北アメリカリーディングサイアーを獲得し、ハリーオンと並んでマッチェム系を支えた[3]。父母フェアリーゴールド、父父母シンデレラ、4代父オーストラリアンはイギリス産馬[3]。3代父スペンドスリフトの母エアロライトはアメリカンナンバーだったのでジャージー規則に接触していた[3]。母マフバーはナーサリー牧場で生まれた時(1910年)からベルモント夫妻に可愛がられ、馬名の意味はアラビア語で「どうか貴方に良い事がありますように」という祈りの意味[3]。
ベルモントが牝馬を競馬に使い過ぎると繁殖入り後に悪影響が出るという持論により、3歳までに勝ちは初出走時の5ハロンレース1度だけで5戦1勝[3]。
1913年から 1930年まで18年間の内、産んだのは5頭で1921年から空胎が続いた[17]。
初仔マスダは三冠馬アソールトの三代母[17]。マンノウォーは空胎後の2番仔[17]。
翌1918年産まれのプレイフェロー(牡)を巡って一度10万ドルで売却後に裁判沙汰で買い戻される問題があった。成績は特筆することはない[17]。
マイプレイは勝ちを挙げ種牡馬入りした[17]。母父と母母はイギリス産馬。ロックサンドはイギリス三冠馬。
メリートークンはイギリスで4勝してからアメリカに渡りベルモントが繁殖用に購入した[3]。
| Man O' Warの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
| 父系 | フェアプレイ系 |
[§ 2] | ||
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父
Fair Play 1905 栗毛 |
父の父
Hastings1893 黒鹿毛 |
Spendthrift | Australian | |
| Aerolite | ||||
| Cinderella | Tomahawk | |||
| Manna | ||||
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父の母
Fairy Gold1896 栗毛 |
Bend Or | Doncaster | ||
| Rouge Rose | ||||
| Dame Masham | Galliard | |||
| Pauline | ||||
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母
Mahubah 1910 鹿毛 |
Rock Sand 1900 黒鹿毛 |
Sainfoin | Springfield | |
| Sanda | ||||
| Roquebrune | St. Simon | |||
| St.Marguerite | ||||
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母の母
Merry Token1891 鹿毛 |
Merry Hampton | Hampton | ||
| Doll Tearshieet | ||||
| Mizpar | Mangretor | |||
| Underhand Mare | ||||
| 母系(F-No.) | 4号族(FN:4-c) | [§ 3] | ||
| 5代内の近親交配 | Hermit S5×M5=6.25%, Galopin S5×M5=6.25% | [§ 4] | ||
| 出典 | ||||