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IBM 701のオペレーター・コンソール
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| 別名 | 国防計算機 |
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| 開発元 | ナサニエル・ロチェスター; プリンストン大学のIASマシンがベース |
| 製造元 | IBM |
| 発売日 | 1952年 |
| 標準価格 | レンタル料月額12,000ドル/40時間シフトで月額15,000ドル |
| 出荷台数 | 19 |
| メモリ | 各36ビットの2048ワードの合計メモリ (各1024ビットの容量を持つ72本のウィリアムズ管) |
| 次世代ハード | IBM 704 |
IBM 701電子データ処理マシン (IBM 701 Electronic Data Processing Machine)は、1952年4月29日に一般に発表された、IBMにとって初の、科学技術計算用の計算機で[1]、プログラム内蔵方式の大型コンピュータであり、"IBMの最初のメインフレーム" [2]である。開発時のコードネームは、Defense Calculator(国防計算機)であった。設計者はナサニエル・ロチェスターで、プリンストン大学のIASマシンを基に開発された[3]。合計で19台出荷された。
1952年にこの701を製造するまで、IBMの売上の7~8割がパンチカード関連装置(パンチカード穿孔機、カード分類機、タビュレータ(パンチカード集計印字機)など)で、ほかはタイムレコーダーが1割前後、機械式卓上計算機の売上が5パーセントから1割程度、という会社であり、汎用で大型のコンピュータは製造したこともない会社だった。この701の設計・製造に成功したことが、後にIBMが"メインフレーム市場の覇者"になる上で、大きなきっかけ、転換点となったのであり、コンピュータの歴史上、重要なマシンである。
パンチカード関連装置の市場において、IBMは1930年代から1950年代にかけて8割から9割程度の市場占有率(シェア)を誇り、2番目の勢力だったのはレミントンランド社でシェアが15%から20%程度(ほかには数パーセント程度の小さなシェアの会社が2~3社)という状況だった。つまりIBMから見てレミントンランド社はパンチカード関連機器市場におけるライバル会社であった。IBMはパンチカードの規格の互換性などを参入障壁として利用し、ライバル会社のシェア伸長や新規会社の参入を阻んでいた。パンチカード関連装置の主な納入先は、大規模な集計作業を必要とする組織であり、アメリカ政府(米国国政調査庁、米国社会保障庁)のほか、鉄道会社、保険会社、銀行、郵便局、電力会社などであったが、大口の顧客である米国国政調査庁が実施した国勢調査で1940年代後半などにはすでに処理すべきデータが大量になりすぎ従来のパンチカード集計印字機だけでは処理が追いつかない傾向になり、より高速により大量のデータを自動で計算する汎用の機械が必要と考えられるようになっていた。その状況下、1950年、レミントンランド社は、EMCC社(ENIACやEDVACなどの技術に精通し汎用計算機開発の鍵となる技術を持つ会社)の買収に成功、親会社となったレミントンランドからの資金援助などさまざまな助力を得てEMCC社はUNIVAC Iを完成させ1951年3月31日に米国国勢調査庁に納入し、これは「世界初の商用汎用電子計算機」とされるようになった。つまりIBMから見ると、自社より劣位のライバル会社であるレミントンランドに汎用計算機で先を越されてしまい、その状況を放置していては汎用計算機を"足がかり"に使われ、国勢調査関連の他の装置のシェアまで次々とレミントンランド社にうばわれかねない、IBMの売上の7~8割を占め"屋台骨を支える"ビジネスをライバルに奪われかねない、と予感させる危機的な状況に置かれた[注釈 1]。IBMは、レミントンランド社同様に汎用計算機を開発・販売することでライバルの勢力拡大を阻止する必要があった。
第二次世界大戦は1945年に終了したが、戦後、ヨーロッパの戦後処理をめぐってアメリカとソ連の対立が顕在化、ソ連が東ヨーロッパ諸国を支配しアメリカ中心の西側諸国と対立、アメリカとソビエト連邦の間に相互不信が芽生え、アメリカが1947年のトルーマン・ドクトリン発表でギリシアとトルコへの援助を宣言すると米ソの対立が表面化し、両国は冷戦状態になった。そのような状況下で、アメリカ政府やアメリカ空軍は、軍事力強化のために科学技術計算の能力強化を求めた。これに応じる形でIBMは「Devense Calculator(防衛計算機)」というコードネームで開発を開始した。
701の設計は1951年初頭に始まり[4][注釈 2]、150人を超える技術者チームが参加し、最初はポキプシーの倉庫が、次に廃業したスーパーマーケットの建物が701開発の第2の拠点となり、そこで設計作業が行われた[4]。IBMは通常、予算管理やスケジュールを重視する会社であった(そしてスケジュールがIBM社員の足を引っ張ったものだった)が、このプロジェクトに関してはアメリカ政府や競合他社からのプレッシャーがかかっていたので何よりスピードが重視されて、予算やスケジュールは度外視され、その結果、驚くほど速く仕事が進んだ[4]。
仕事が速く進んだおかげで設計開始から約1年後の1952年4月にはワトソン会長[注釈 3]が株主に向けてこの新型マシンを発表[4]。
当時のプレスリリースには、完成したIBM 701は11台の小型で接続されたユニットと3種類の電子記憶装置を備えている、と書かれていた[4]。"3種類の電子記憶装置"とは、ウィリアムス管と呼ばれる静電記憶装置、磁気ドラム、磁気テープ装置である。これが当時の他の"データ処理機"に比べて著しい記憶量の進歩をもたらし[4]、静電記憶装置(ウィリアムス管)は2万桁分のデータを、磁気ドラムは最大82,920桁のデータを、磁気テープは1巻あたり800万桁ものデータを記憶可能にし、その結果701は1秒間に1万6000回以上の加減算、2000回以上の乗除算を実行できるようになり、非常に複雑な計算もわずか数分で実行可能となった[4]。
プレスリリースの翌月にはアメリカ政府や防衛関係の10機関から受注し、さらに数か月後には受注数は20件近くに達した[4]。 生産が始まる前に、ワトソンは潜在的な顧客である20社を訪問したのだった。株主総会での彼の発言は、「5台の受注を予想していた旅の結果、18台の受注を持って帰ってきた。」だった[5]。つまりIBM会長が予想していたよりも、コンピュータの市場は大きかったのである。
最初の701は、1952年12月にニューヨーク州にあるIBMのワールドヘッドクオーター(本社)に納入された。(そもそもIBM 701は、アメリカ政府や米国空軍が軍事力強化のためや兵器開発のために計算能力を高めたいとする要望に応えて開発されたマシンであり、当初の開発目的通り)その納入先の9割ほどは兵器開発関連企業・組織である。#納入先
8台は航空機製造会社(軍用機製造会社)に納入された。核兵器開発にも使われ、ローレンス・リバモア国立研究所に納入されたIBM 701は科学者が核爆発の計算をより速く実行するのに使われた。
IBMはそれまでパンチカード関連装置をレンタルで提供する形でたくみなビジネスを行い、そのおかげで莫大な利益をあげていたので、この汎用計算機も同じビジネス手法を使い、売り切るのではなく、レンタル形式で顧客に納入した。
1953年5月11日付のAviation Weekによると、701のレンタル料は月額約12,000ドルで、American Aviationは1953年11月9日付で「40時間のシフトで月に15,000ドル。2回目の40時間シフトの場合、レンタル料は月額20,000ドルに引き上げる。」と書いている。政府や軍を主要顧客とし、ソフトウェアの豊富さや高額でのリースで、IBMが巨大企業に成長する一つの要因となった。
IBM 701は、レミントンランド社のUNIVAC I(世界初の商用の汎用計算機。1954年までに46台出荷されたマシン)に対する対抗策として 開発・製造した"世界で2番目の商用コンピュータ"ともされるが、基本的に"国防計算機"として設計され、一般商業用途を広く対象としたものではなかった。用途限定の設計がされたので、民間の一般の企業では採用が進まず、UNIVAC I(46台販売)のようには売れなかった。
さらに、レミントンランド社が(701発表の1952年4月の約10ヶ月後の)1953年2月にUNIVAC 1103を発表し、それが701の新たなるライバル機となった。
1954年初頭、合同数値気象予測プロジェクトに使用するために計算機も、当初考慮していたIBM 701に加えてUNIVAC 1103も候補にあがり、米国統合参謀本部の臨時委員会は、IBM 701とUNIVAC 1103を比較するように要請した。その結果、“The ERA 1103 and the IBM 701”という報告書では、2つのマシンの計算速度はほぼ互角とされたが、パンチカードの入出力速度は701のほうが優れているとし、701のほうを推薦する内容だったので、それが決定的要因となり臨時委員会は701を選び、導入されることになった[6]。この件ではかろうじて、701が採用された。
IBM1955年5月に機能を強化[注釈 4]したIBM 704の出荷を開始し、これを「701の後継機」とし、701の製造は年内を止めた。
結局、IBM 701の出荷は19台だけで終了することになった[7]。
"3種類の電子記憶装置"、すなわちウィリアムス管と呼ばれる静電記憶装置、磁気ドラム、磁気テープ装置が、当時の他の"データ処理機"に比べて著しい記憶量の進歩をもたらしており[4]、静電記憶装置(ウィリアムス管)は2万桁分のデータを、磁気ドラムは最大82,920桁のデータを、磁気テープは1巻あたり800万桁ものデータを記憶可能にし、その結果701は1秒間に1万6000回以上の加減算、2000回以上の乗除算を実行できる[4]。
IBM 701システムは、以下のユニットで構成されていた[8]。
総重量 (構成によって異なる)は約20,516ポンド (10.3ショートトン;9.3トン) だった。[9]
このシステムには真空管論理回路と静電記憶装置が使われており、72本のウィリアムズ管 (各1024ビット) で構成され、合計2048ワード、各36ビットのメモリを提供した。72本のウィリアムズ管はそれぞれ直径3インチである。メモリは、72本のウィリアムズ管を2セット目に追加するか、(後で)メモリ全体を磁気コアメモリに置き換えることで、最大36ビットの4096ワードまで拡張することができた。ウィリアムズ管メモリとそれ以降のコアメモリは、それぞれ12マイクロ秒のメモリサイクルタイムを持っていた。ウィリアムズ管メモリは定期的なリフレッシュが必要で、701のタイミングにリフレッシュサイクルを挿入する必要があった。加算演算には5回の12マイクロ秒サイクルが必要で、そのうち2回はリフレッシュサイクルであり、乗算や除算には38サイクル (456マイクロ秒)が必要であった。また、2次記憶としては、磁気ドラムと磁気テープが採用された[10]。
数値は36ビットか18ビット長で、符号付きの大きさの固定小数点であった。ワード全体は、約10進数で約10桁の精度を持っている。10進数の桁はまたは3.322ビットに相当する。
IBM 701には、プログラマがアクセス可能なレジスタが2つしかなかった。
磁気ドラムリーダー/レコーダーは、高速I/Oの必要性を減らすことができるというジョン・フォン・ノイマンの勧告で追加された[11][12][13]。
最初の磁気テープドライブはテープ・プロセシング・マシン (TPM) で使用され、その後701に搭載された[14]。
701は、アーサー・サミュエルのチェッカー・プレイング・プログラムで人工知能の可能性を示した最初のコンピュータであると主張される[15]。
カリフォルニア大学リバモア放射線研究所では、701のためにKOMPILERと呼ばれる言語コンパイルとランタイムシステムを開発した。FortranコンパイラはIBM 704までIBMからリリースされなかった。
1954年、IBM 701は世界初の自動翻訳(ロシア語から英語)を行った。
IBM 701の納入先の組織名、所在地、納入時期
後継機はIBM 704であり、そのコンピュータの姉妹機は、ビジネス用のIBM 702と低コストの汎用IBM 650である。
701の後継機は、701の4年後に導入されたインデックスレジスタを搭載したIBM 704であった。ただし、704は追加機能をサポートするために命令サイズを18ビットから36ビットに増やしたため、701との互換性はなかった。704の特徴として磁気コアメモリへの移行もある。この系統は、さらにIBM 7090へと受け継がれていった。