読み方:えふ
1 英語のアルファベットの第6字。
2 音楽用語。
㋑〈f〉《(イタリア)forte》強弱標語の一つ、フォルテの記号。
3 〈F〉《firm》鉛筆の芯(しん)の硬度(黒さ)を表す記号の一。HとHBの中間。→H →B
6
㋐〈F〉《focal》レンズの明るさや絞りの大きさを表す記号。→F値1
㋑〈f〉《focus》レンズの焦点距離を表す記号。f=55mmのように示す。
7 〈F〉《(ドイツ)Fahrenheit》カ氏温度を表す記号。
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| FOCUS | |
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| ジャンル | 写真週刊誌 |
| 刊行頻度 | 週刊 |
| 発売国 | |
| 言語 | 日本語 |
| 出版社 | 新潮社 |
| 刊行期間 | 1981年10月23日 - 2001年8月7日 |
『FOCUS』(フォーカス)は、1981年10月23日[1]に新潮社から創刊された写真週刊誌の草分け。2001年8月休刊。
取締役の編集者斉藤十一が、創刊に多く関係した。
写真週刊誌の草分けで、記事だけではなく写真を前面に押し出し、新しいジャーナリズムのスタイルを確立した。
「新潮ジャーナリズム」と呼ばれる丹念な取材と張り込み取材を展開した。有名人やタレントの密会写真掲載などで話題を作ったり、政治的な事件や災害、事故などのスクープも多い。また、従来の新聞、テレビなどが報道しなかった、複雑な事件やニュースの裏側に迫る写真も数多く掲載した。
ロッキード事件公判で、被告だった田中角栄元首相を法廷撮影したり(1982年4月9日号)[2]、1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人「少年A」の顔写真(1997年7月9日号)[3]や、著名人の葬儀に際し棺に納められた遺体の顔[注 1]を掲載したりと、法に抵触しかねない取材活動をして問題となったこともある(敢えて行った面もある)。「少年A」顔写真を掲載した際は、法務省が少年法に抵触するとして写真掲載を見合わすよう要請し、一部の書店が自主的にFOCUSの販売を差し控えるなどの騒ぎになった。また、フライデー襲撃事件などのあおりを受け、その取材方法に社会的批判を浴びるようにもなった[4]。
だが、その一方では桶川ストーカー殺人事件で、同誌の清水潔が、埼玉県警察より先に犯人を捕捉し、捜査を放置した警察の不祥事まで暴くという調査報道も成功させてもいる(1999年12月29日・00年1月5日号[5]。テレビ朝日『ザ・スクープ』が後を追った)。1983年には、高部知子の一服写真を掲載した(1983年6月24日号[6]。ニャンニャン事件)。
最終ページは、マッド・アマノが世相を広告風に作ったパロディ写真(オマージュ)『狂告の時代』が連載されていた。
創刊当初は、有名写真家を使った芸術性の高い雑誌を目指したものの、低迷した。その後、張り込みや突撃取材を行う週刊誌へと変貌を遂げ、成功を収めた。販売部数はピーク時に毎週200万部を突破し、印刷が追いつかず東京と大阪の2箇所の印刷所で同時に印刷したほどであった。「フォーカスされる」などの流行語まで作られ、一大ブームとなった。
しかし、他雑誌やテレビに真似されるようになって、次第に読者から飽きられるようにもなると共に、1990年代後半から急速に部数を減らし、累積赤字が増大した。3代目編集長の山本伊吾[注 2]のとき、2001年8月7日発売の2001年8月15・22日号[7]で休刊し、通巻で1001号[8]が発行された。その後、2002年から2004年まで年1回、「週刊新潮」の増刊という形で発行された。そして2011年4月、東日本大震災を題材に、1回だけの限定で復刊した。
2001年10月に、フォーカス編集部編『フォーカススクープの裏側』を刊行した。
創刊号から休刊号までの累計発行部数は7億1886万5685部[8]。
出典[8]
同様のスタイルの写真週刊誌は他の出版社も模倣して創刊しており、1986年後半には「FRIDAY」(講談社)、「FLASH」(光文社)、「TOUCH」[注 3] (小学館) 、「Emma」(文藝春秋)など他4誌が並存しており、「3FET戦争」と呼ばれた[11]。
しかしこれら4誌は、「FOCUS」と形態こそ似ているものの、水着やヌードグラビア、グルメなどの軟派な記事が多く、内容は「FOCUS」とはかなりの相違があった。「Emma」は、1986年12月のフライデー襲撃事件の余波もあり、早々と1987年に、「TOUCH」もその2年後の1989年に廃刊となり、「FOCUS」の2001年休刊以降は「FLASH」と「FRIDAY」の2誌が刊行中である。
また、同時期に「痛快フォーカス SEXY LOOK」(サン出版)という、あきらかに本誌を真似た写真中心のポルノ雑誌が存在した。構成も全く同じで、最後のページに連載されていた『狂告の時代』ですらポルノ風に真似られていた。
(Focus から転送)
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選択と集中(せんたくとしゅうちゅう、英: Focus)とは経営学用語の一つで、限られた資源・予算を最も競争優位性の高い事業領域へ重点的に配分し、それ以外の領域を切り捨てることで、組織全体の収益性と競争力を最大化することを目指す戦略である[1]。対義語は、多角化。
ジャック・ウェルチによるゼネラル・エレクトリック(GE)の改革時に用いた言葉、「Focus(フォーカス)」が日本語に「選択と集中」と翻訳され広まった[2]。主に経営戦略論における経営手法として適用されている[3][4]。
政策立案、科学技術政策の分野にも適用されているが、一方で不透明な評価制度に基づく過度な資源集中が多くの問題を引き起こしており、特に科学技術政策においては日本国内での研究力の低下や国際競争力への影響の原因となっていると批判されている[5]。
ピーター・ドラッカーは、著書『現代の経営』や『乱気流時代の経営』において、資源集中の重要性を説いている。ドラッカーによれば、組織とは社会という身体における「器官」であり、その役割は成果を上げることにある[6]。資源が分散している状態は成果を阻害する要因であり、「資源は集中して初めて生産的になる。断片化は結果を抑制する」というのが彼の基本原則であった[7]。
1994年、ドラッカーが発表した「The Theory of the Business」(企業永続の理論)という論文において、組織の根幹を成す概念として「外部環境についての前提」「組織の使命についての前提」「自社の強みについての前提」の3つを提唱している。ドラッカーは、この3つの前提をもとに、事業の理論が一度完成してしまうと、組織が膠着化してしまうリスクが有るので、定期的に計画的廃棄(Systematic Abandonment)を行い、古くなった事業の理論を改める必要があると主張している[6]。この「機会に餌を与え、問題には飢えさせよ」という計画的廃棄ルールが、後の「選択と集中」の論理的基盤となった[7]。
1980年、ハーバード大学ビジネス・スクールのマイケル・ポーターは、『競争の戦略』(Competitive Strategy)を発表。その中で「基本戦略」の一つである「集中戦略」は、特定の顧客層、製品ライン、または地域市場にターゲットを絞り、その狭い領域で圧倒的な効率性や差別化を実現すると定義している[8]。ポーターは、コスト・リーダーシップと差別化を同時に追求する際、中途半端な状態に陥るリスクを警告し、純粋な戦略の選択を推奨した[9]。
1981年、ゼネラル・エレクトリック(GE)の最高経営責任者(CEO)に就任したジャック・ウェルチは、ドラッカーの理論を実行に移した。当時、GEは多角化しすぎた官僚的組織として停滞しており、日本やドイツといった国と激しい競争の中であった。
1981年、ウェルチは、照明器具や機関車などの中核製造部門、技術集約型事業、そしてサービスという3つの戦略サークル(3つの円とも呼ばれる)に事業を集中させ、それぞれの事業が世界市場でトップまたは2位の地位を築くと宣言しました[10]。この経営指針は、後に日本において「選択と集中」という言葉で定着し、多くの日本企業へ浸透した[11][2][1]。
この指針は、単なるスローガンではなく、以下の「Fix, Sell, Close(修復、売却、閉鎖)」という具体的な行動プロセスと直結していた[11]。
この戦略の背後には、市場シェアが1位または2位でなければ、不況期に十分な利益を確保できず、価格決定権も持てないという現実的な市場洞察があった[12]。競争優位性がないことは、そのビジネスから撤退すべき明確なシグナルであるとウェルチは説いた[12]。
この厳格な規律に基づき、ウェルチは最初の10年間で200以上の不採算事業や非中核事業を切り離した[11]。これには、空調、家電、炭鉱、消費者向けエレクトロニクスといった、かつてのGEを象徴する事業も含まれていた[11]。一方で、ウェルチは「統合された多様性」を掲げ、高成長が見込まれるサービス、ハイテク、金融(GEキャピタル)へと大胆に舵を切った[11]。
ウェルチの改革は、事業ポートフォリオの入れ替えだけではなく、組織文化の変革においても徹底していた。彼は官僚主義的な計画立案システムを廃止し、組織を9層からなる階層構造から、よりフラットで迅速な意思決定が可能な構造へと簡素化した[11]。
1980年代後半、ウェルチはワークアウトプログラムを導入した[11]。これは、現場の従業員が部門の改善策を議論し、マネジャーがその場で即決を行う仕組みであり、1992年までに20万人以上の従業員が参加した[11]。このプログラムの真の目的は、従業員のエンパワーメントを通じて、ボーダレスな組織(を実現することにあった[11]。1996年からは、モトローラが開発した品質管理手法である、シックスシグマを全社的に導入した[11]。これにより、製造プロセスから金融サービスに至るまで、あらゆる業務における欠陥を統計的に排除し、コスト削減と顧客満足度の向上を実現した[11]。
また、ウェルチは同時期、バイタリティ・カーブ制度を導入した[13]。これは、従業員をパフォーマンスに基づいて、上位20%(Aプレイヤー)、中位70%(Bプレイヤー)、下位10%(Cプレイヤー)に強制的に分類し、下位10%を解雇するという極めて厳しい制度であった[14]。この制度は「ランク&ヤンク」と呼ばれていた。なお、ウェルチが同社を去って以来、下位10%の削減は重視されなくなり、チームビルディングに重点が置かれるようになり、この制度は廃止されている[15]。
ウェルチがCEOを務めた1981年から2001年の20年間で、GEは驚異的な成長を遂げた[16][17]。売上高は約5.0倍(約1,259億ドル)、純利益は約9.4倍(約141億ドル)へと拡大し、特に時価総額においては当初の約30〜45倍となる最大6,000億ドル規模にまで達した[16][17]。この驚異的な成長は、売上高が250億ドルから1,300億ドルへと約5倍に増加したことによって裏打ちされている[17]。この結果により、ウェルチが行った改革は、説得力を持つようになった。
重要な事実は、ジャック・ウェルチが用いた言葉は「Focus(フォーカス)」であり、「選択と集中」ではなかったことである[2]。「勝てる市場に焦点を合わせろ」とは言ったが、新しい挑戦を拒絶せよではなかった[2]。
日本において「選択と集中」という四字熟語的な表現が定着したのは、1980年代から2001年にかけてウェルチの経営手法が紹介される過程で、日本のメディアや翻訳家が彼の「ナンバーワン、ナンバーツー戦略」をドラッカーの「集中」という概念と結びつけて意訳した結果であるという説がある[2]。
日本において「選択と集中」が経営の合言葉となったのは、1990年代のバブル崩壊後の「失われた10年」を経てのことである。1998年の金融危機を境に、銀行融資に頼った多角化モデルは限界を迎え、資本市場の論理による収益性重視の経営への転換を余儀なくされた[18]。日本企業が過剰な事業を整理する必要に迫られた際、「選択と集中」は「リストラ」や「減量経営」を正当化する強力なスローガンとして受け入れられた[2]。さらに、1999年、小渕政権下の経済戦略会議の答申や、その後の経済白書等において「選択と集中」という言葉が登場している[19]。例えば、1999年に成立した産業活力再生特別措置法の成立時の国会答弁では、「選択と集中を進め、経営資源を生産性の高い分野に重点的に投入することを円滑化する」という文が登場している[20]。また、2005年の経済年次財政報告にもこの言葉は登場している[21]。以下は日本企業での導入例である。
ウリケ・シェーデは、1998年から2006年の期間を日本企業の戦略的転換点と位置づけている[18]。この時期、日本企業は従来の「総合電機」のような百貨店方式の事業展開から、自社の強みが際立つ特定のコア事業への集中へと舵を切った。「選択と集中」の結果、日本の電子産業は構造変化を遂げた。かつてのような総合電機メーカーというモデルは新興国企業の台頭により競争力を失った[18]。これに対し、成功した日本企業は、LCDディスプレイ用の高機能フィルムや電子部品、半導体材料といった、サプライチェーンの最上流に位置する特定分野のグローバルリーダーへと変化した[18]。このような戦略は「アグリゲート・ニッチ戦略」と呼ばれる[22]。
ウェルチの「Focus」が日本で「選択と集中」と訳されたことで、幾つかの誤解が生じたことも事実である。ウェルチ時代のGEは、実際には極めて多角化された企業であり、20年間で約1,000の事業を買収し、撤退したのはわずか70程度であったとされる[2]。つまり、ウェルチの「Focus」は「成長のための入れ替え」であり、単なる「縮小」ではなかったのである。しかし、多くの日本企業は「選択と集中」を「不採算部門の切り捨て」「設備投資の抑制」といった、コスト削減と混同した[2]。この結果、平成の30年間で日本企業の収益性は改善したものの、売上高は伸び悩み、将来の成長に向けた「新しい事業の創造」がおろそかになったという批判がある[2]。
また、ウェルチの最大の成功の一つであったGEキャピタル(金融部門)の拡大は、後にGEの崩壊を招く最大の要因となった。金融部門は一時期、GEの利益の60%を稼ぎ出したが、製造業としてのGEのルーツを希薄化させ、2008年の金融危機において巨大なリスクを露呈させた[13]。後継者のジェフ・イメルトは、金融危機や9.11テロ、ITバブル崩壊といった外部要因に加え、ウェルチが築き上げた巨大で複雑すぎるコングロマリット構造の維持に苦しみ、株価は低迷を続けた[13]。2021年、GEが航空、ヘルスケア、エネルギーの3社に分割されることが発表された事実は、ウェルチが完成させた「巨大なコングロマリット」という形態が、変化の激しい現代においてはもはや最適解ではないことを示唆している[13][23]。しかし、どの時代においても、リーダーが直面する現実に真摯に向き合い、勝てる領域を定義してそこに資源を投入するという「戦略の本質」は、ウェルチが体現したその峻烈な意志の中に今も息づいている。
「選択と集中」は収益性を高める一方で、極端に推し進めることによる弊害も指摘されている。急速に変化する市場環境においては、過度の集中が組織の適応力を奪う可能性がある[24]。
最も直接的なデメリットは、ポートフォリオのリスク増大である。特定の事業に集中する戦略は、市場が好調な時は高いリターンをもたらすが、市場が崩壊した際に組織全体が致命的な打撃を受ける[24]。多角化された企業が持つ、ある部門の損失を他の部門の利益で補うバッファが失われるためである[24]。投資家は利益の成長だけでなくボラティリティの低さを重視する傾向があり、極端に集中した企業はリスク管理が不十分であると見なされ、市場価値を損なう可能性がある[25]。
ドロシー・レオナルド=バートンは、「コア能力の硬直化」という概念を用い、批判している。企業の競争優位の源泉である「コア能力」が、特定の事業領域に過度に適応し、深く定着してしまうと、逆に新しいイノベーションを阻害する「硬直化」へと反転する可能性を提示している[26][27]。
クレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』は、優良企業が失敗する理由として「資源依存」の論理を挙げている[要ページ番号]。既存のハイエンド顧客向けの改良(持続的イノベーション)に資源を集中しすぎる企業は、市場の底辺から現れる「破壊的イノベーション」を見落とす傾向がある[28][29]。破壊的技術が創造する未来の市場は予測不能であり、計画性を重視する「選択と集中」とは相容れないのが根本原因である[28]。
リストラや事業売却などの変革は、従業員の信頼と士気に悪影響を及ぼす。単なるコスト削減を目的とした変革は、従業員の会社に対する信頼を損ない、コミットメントを低下させる[30]。特定事業の外部化を準備するだけでも、残された従業員の士気が低下する問題が生じることが指摘されている[30]。
「選択と集中」のデメリットを克服するアプローチとして、マイケル・タッシュマンとチャールズ・オライリーが提唱する「両利きの経営(英語:Organizational Ambidexterity)」が注目されている。これは、既存事業の効率化を追求する「深化」と、新しい可能性を探索する「探索」を同時に成立させる経営手法である[31]。
深化を担うユニットと探索を担うユニットを物理的・組織的に分離し、それぞれに異なる構造を持たせる「構造的な両利き」により、既存の強みを維持しながら未来を切り拓くことが可能になる[32]。探索分野では、METIが提唱する知的資産経営のように、知的資産を「再構成」し続ける動的能力が求められる[33]。
2000年代初頭、日本の科学技術政策においても「選択と集中」の方針が取り入れられた。2004年から2006年にかけて、小泉純一郎内閣の下で総合科学技術会議の議員を務めた岸本忠三が、この方針を強力に推進した[34][35][36]。同会議の議員には、竹中平蔵、二階俊博、日本学術会議会長の黒川清らが含まれていた。
この提言が行われた2004年当時、国立大学における任期付き研究者は全体の約5%であったが、10年後の2014年には44%にまで増加した[37]。
選択と集中による国から国立大学に配分される運営費交付金は2004年以降2015年度まで一律に1%ずつ削減されていく。2020年度からは横ばいだが、すでに20年前に比べて予算が13%減少[38]。さらに物価上昇に伴い実質予算は減少、光熱費の支払いすらままならない状況に陥っている[39][40]。
一方で限られた研究機関への予算配分が増額されるようになる。その代表例といえるのが、世界トップレベル研究拠点プログラムなどの研究機関への大型予算とiPS研究への投資である。
「選択と集中」の方針の下、ライフサイエンス分野、特に岸本が専門とする免疫学分野への大規模な投資が行われた。その成果の一つが、2007年に開始された「世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)」である[41][42][43]。このプログラムでは、これまで広く分配されていた科学研究費を「選ばれた」研究拠点に集中配分し、1拠点あたり年間5~20億円が支給された。
岸本忠三が所属する大阪大学免疫学フロンティア研究センターは、プログラム発足当初の2007年から支援を受け続けており[44]、2024年現在85歳の岸本は同センターで教授として活動している[45]。
「選択と集中」の方針は、iPS細胞研究にも大きな影響を与えた。2006年、山中伸弥がiPS細胞の作製に成功し、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞[46]、新薬開発や再生医療の実現に大きな期待がうみだされた。2013年下村博文文部科学相(当時)はiPS細胞研究を中心に再生医療研究に10年間で1100億円の支援を行うと表明した[47]。
このように科学研究を担う大学の研究環境・雇用状況が大きく変化されたが、その後の研究開発は期待された成果を十分に上げられていないどころか、日本の国際研究力は無惨なまでに弱体化した。この結果、特定の分野への過度な資源集中がリスクを伴うことや、研究資金の配分バランスの重要性が再認識されるようになった[48]。
この15年間で日本の学術論文の発表数や影響力が低下しており、国際的な研究アウトプットのランキングで日本の順位が後退している。日本の論文数が他国に比べて減少し、国別ランキングで13位となり、イランよりも下位に位置するようになる[49]。
過度の「選択と集中」が日本の研究力の地盤沈下につながったと考える研究者も多い[50][51]。ノーベル生理学・医学賞受賞者の大隅良典は、「選択と集中」が新しい研究の芽を摘み、日本の研究力を弱体化させたと指摘している[52]。
「選択と集中」政策の一環として、任期制研究者の増加が進み、研究者の雇用問題が浮上した。特に「10年ルール」による雇い止め問題が顕在化し、研究者のキャリアや生活の不安定化が指摘されている[53]。ここで一番大きな打撃を受けた世代がいわゆる「氷河期世代」とされる研究者たちである[54]。若手および氷河期世代研究者の待遇を改善することが、国の研究力強化につながるという意見もある[55]。
一方で選択と集中により投資が行われた研究機関では、岸本忠三に代表されるように大阪大学や東京大学などを中心に70代以上の教授が現職に留まる傾向が見られるようになった[56][57][58][59][60][61][62][63][64]。退職後も長く職に留まるシニア教授たちの存在が日本の研究力にどのような影響を及ぼしてきたかの解明が必要である。
2019年、日本学術会議は「第6期科学技術基本計画に向けての提言」を行い、過度の「選択と集中」を反省するとともに、日本の学術の持続可能な発展を確保するためには、バランスのとれた資金配分が必要であると指摘した[5]。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 17:31 UTC 版)
「神戸連続児童殺傷事件」の記事における「FOCUS」の解説
犯人である少年の顔写真が掲載されたFOCUSを手に入れた人は1割にも満たなかった。しかし、コピーを含めると約4割が見たことがあるという。 顔写真を見た印象としては、「普通の子と変わらない」という意見が最も多かった。次に多かった順に、「恐い」「陰湿な印象」といった意見だった。 FOCUSに顔写真を載せたことに関しては、6割以上が賛成といった意見だった。
※この「FOCUS」の解説は、「神戸連続児童殺傷事件」の解説の一部です。
「FOCUS」を含む「神戸連続児童殺傷事件」の記事については、「神戸連続児童殺傷事件」の概要を参照ください。
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