(Baron から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/22 06:46 UTC 版)
男爵(だんしゃく、英: baron)は、爵位の一つである。近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する[1]。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。なお、イギリスには男爵の下位に準男爵という世襲称号があるが、準男爵は貴族ではなく平民である[2]。
旧暦明治2年6月17日(1869年7月25日)の行政官達542号において公家と武家の最上層である大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した[3]。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、当初より等級付けを求める意見があった。様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が新暦1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された[4]。
1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ[5]、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり[6]、同年7月7日に発せられた華族令により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された[7]。
男爵は華族の最下位の爵位であり、叙爵内規では男爵の叙爵基準について「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定められている[8]。男爵家の数は制度発足時の1884年時には74家(華族家総数509家)であり、76家の伯爵家や324家の子爵家より数が少なかった[9]。しかし日清戦争直後に戦功のあった軍人への大規模な叙爵があり、それによって最初の男爵急増現象が発生し、1896年までに194家(華族家総数689家)に達した[10]。ついで男爵軍人急増への反動で、日清戦争後から日露戦争前の間に官僚、財界人、華族の分家、旧大藩家老家など非軍人男爵の急増現象が発生しており、これにより1902年時に男爵家の数は290家(華族家総数789家)に達していた[11]。ついで日露戦争後に同戦争で戦功をあげた軍人への叙爵が大規模に行われ、再び男爵軍人が急増し、1907年時には376家(華族家総数903家)に達した。この年に男爵家と子爵家の数は並び、1912年以降は男爵家の数が最も多くなった[12]。この後は急増現象は見られず、男爵家の数は1920年時の409家(華族家総数947家)をピークとして1947年時には378家(同889家)に減っていた[9]。
1886年(明治19年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、1909年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎず、特に男爵は少なく7%しか設定しなかった[13]。
1907年(明治40年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった[14]。
1912年(明治45年)には旧堂上華族保護資金令(皇室令第3号)が制定され、男爵華族恵恤資金恩賜内則により、家計上保護を必要とする男爵に年間300円の援助が行われるようになった[15]。主に奈良華族がこれを受けた[16]。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより男爵位を含めた華族制度は廃止された。
1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)[17]。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった[18]。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった[19]。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった[20]。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった[21]。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる[22]。
伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており[23]、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人案)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)に伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出され、最終的には男爵議員の議席数は64議席だった[24]。
貴族院内には爵位ごとに会派が形成されていた。男爵議員は子爵議員たちが中心となって形成していた最大会派「研究会」に対抗して1919年に「公正会」を結成した[25]。
衆議院議員選挙法に基づき男爵含む有爵者は衆議院議員になることはできなかった[15]。
叙爵内規は男爵の叙爵基準として「一新後華族ニ列セラレタル者 国家ニ勲功アル者」と定めており、以下のような人々に男爵位が与えられた。
明治以降に華族から分家した家が叙爵される場合は「一新後華族ニ列セラレタル者」の内規に基づき基本的に男爵位が与えられた。ただしごく一部は子爵になっており、また玉里島津家と徳川慶喜家については特例的に公爵に叙された。本家の方で華族の体面を汚さない程度の財産を用意してやれることが分家が華族に列せられる条件だったので裕福ではない旧公家華族や旧小大名華族には分家華族を作るのは難しかった[26]。華族に叙されなかった場合の明治以降の華族の分家は平民となる[14](士族ではない。士族は江戸時代に武家等だった家に与えられる身分であるため、華族の分家であろうと明治以降に創設された家は平民になる)。つまり華族の次男以下は当初は華族の戸籍に入っている無爵華族であるが(爵位を持つのは戸主のみ)[27]、分家して独立した戸主になる際、華族の体面を汚さない財産を確保できれば分家華族として男爵に叙され、確保できず爵位が認められなければ平民ということである[26][14]。以下の家が明治以降に創設された分家華族として男爵位を与えられた家である。
※上記「明治以降の華族の分家」のうち、家名改称・再興等を伴う家。
基本的に地下家は士族になっていたが、
江戸時代に交代寄合だった家のうち以下の6家は、1868年(慶応4年・明治元年)6月20日から11月20日の間に戊辰戦争で官軍に協力した功績で加増されたり、「高直し」で石高が万石以上になったことを政府に申告して認めてもらったことなどにより大名として立藩して華族に列していた[29][注釈 1]。しかし彼らは江戸時代から大名だった家とは区別されて「一新後華族ニ列セラレタル者」として男爵位を与えられた。数字は江戸時代の交代寄合としての家禄と立藩した後の藩名と家禄である。
江戸時代を通じて付家老たちは独立諸侯として認められない立場に不満を持ち続け、その独立意識は旺盛で主家をないがしろにする行動が多かった。幕末の王政復古は彼らにとって独立諸侯となる千載一遇のチャンスであり、また権力基盤が不安定だった新政府にとっても彼らを味方に付ける意味は大きく、利害が一致して慶応4年1月24日に彼らは政府により独立諸侯と認められた(維新立藩。なお、本多副元家(福井藩付家老)は維新立藩されず、遅れて明治12年に華族。)[31]。吉川家は付家老ではないが、江戸時代を通じて正式な大名としては扱われず、長州藩主毛利家の家臣として扱われてきたが、王政復古に際して勲功があったので慶応4年3月13日に独立諸侯と認められたという似た経緯があった。ただしこれら旧陪臣系諸侯は旧交代寄合系諸侯と同様、江戸時代から諸侯だった家とは区別されて「一新後華族ニ列セラレタル者」として男爵位を与えられた(吉川家(長州藩一門→岩国藩)と成瀬家(尾張藩付家老→犬山藩)については維新の功績により1891年に子爵に陞爵)[32]。
旧大名家の家臣は維新後士族に編入されていたが、『叙爵内規』の前の案である『華族令』案の内規(明治11年・12年ごろ作成)や『授爵規則』(明治12年以降16年ごろ作成)(『爵位発行順序』所収)では旧万石以上陪臣家が男爵に含まれており、旧万石以上陪臣を男爵にする案は華族令制定前からあったことが分かるが、最終的な『叙爵内規』では対象外となったため、華族令制定後も明治後期まで彼らは士族のままだった[33]。しかし明治30年代から旧万石以上陪臣家の叙爵が開始される[34]。彼らの叙爵は概ね日清戦争後から日露戦争前の間に行われた[11]。ただし旧万石以上陪臣家は内規上に規定されているわけではないので全家が叙されたわけではない。華族の体面を汚さない財産、具体的には年間500円以上を生じる財本を所持していることが条件に付されていた[33]。この条件をクリアできず叙爵されなかった旧万石以上陪臣家が13家(※石川家(陸奥)(仙台藩・2万3000石余)、 久野家(紀州藩・1万石)、 神代家(佐賀藩・1万石)、 志水家(尾張藩・1万石)、 伊達家(登米)(仙台藩・2万1000石)、 鍋島家(須古)(佐賀藩・1万1000石)、 本多家(図書)(加賀藩・1万石)、 茂庭家(仙台藩・1万3000石余)、 村田家(佐賀藩・1万770石)、 山野辺家(水戸藩・1万石)、 横山家(蔵人)(加賀藩・1万石)、 留守家(仙台藩・1万6000石)、 亘理家(仙台藩・2万3853石)の13家)が存在する[34]。
以下に、旧陪臣家・藩主一門で叙爵された家を挙げる。
※上記「旧大藩の藩主一門および家老家」で挙げた叙爵家のうち、旧万石未満の陪臣家・藩主一門で叙爵された家。
南朝の功臣の子孫にあたる菊池家(交代寄合)、五条家(柳川藩士)、名和家(柳川藩士)、南部家(盛岡藩家老)、新田家(交代寄合)の5家が先祖の功により「国家ニ勲功アル者」として男爵位が与えられた。このうち南部家は旧万石以上の陪臣でもあったが、叙爵の性格としては南朝功臣の後裔たる忠臣華族としての側面がより重視されている。後醍醐天皇の忠臣の中でも武勲第一だった楠木正成(大楠公)を出した楠木家は嫡流子孫がはっきりしなかったため華族とはならなかった[35]。なお、北畠家(久我(清華家)侯爵家分家)は、建武の元勲である北畠親房の後裔としての再興という性格も持つ。
戊辰戦争に際して旧幕府方として転戦した結果、旧藩主家が改易となり、華族編成時には大名華族に列せられなかった家のうち、のちに特旨により男爵として再興された例がある。 上総国請西藩主林家では、藩主林忠崇が旧幕府方として出兵したため領地を没収され改易となったが、明治26年(1893年)、養子林忠弘が旧請西藩主家として男爵を授けられている。
由緒ある神社の神職のうち古い家柄の社家と浄土真宗10派の総本山たる門跡寺院・准門跡寺院の住職を世襲している僧家が先祖の功により「国家ニ勲功アル者」として男爵位を与えられた(東西本願寺の両大谷家は伯爵)。浄土真宗の門跡寺院では門主の地位が世襲で継承されていたため[注釈 2]、他の門跡寺院と異なり還俗せずに華族に列している。華族とは世襲身分であり、一つの家系として世襲されることは必須だった[36]。また英彦山神宮・英彦山権現の宮司・座主であった高千穂家も法体の当主が世襲していたが、明治に至って当主高千穂通綱が還俗し、華族となっている。
なお、西高辻家は菅原氏嫡流の高辻家の傍流にあたり、明治元年に立家したのち太宰府天満宮の宮司職を世襲した社家であり、社家由来の男爵家として本節に掲げられた諸家と同様の性格を有する。
実業家への叙爵は、資本主義の育成と産業振興を国家目標としていた明治政府が、国家財政や経済発展に多大な貢献をした民間人を「経済界における国家の藩屏」として公認したものである。当初は新政府の軍資金や財政を支えた旧家や政商(三井・三菱など)が中心であったが、次第に近代産業を興した新興財閥や、その経営を担った専門経営者も対象となった[37]。
参考: 渋沢家(渋沢財閥)は明治33年(1900年)に男爵に叙せられたのち、大正9年(1920年)に子爵に陞爵している。
明治維新以降、軍事や経済の枠組みを超えて、近代国家としての「法・制度・知」の基盤を構築した層である。行政、司法、外交の官僚機構のみならず、医学、工学、法学といった学術分野において、国家の近代化に直結する業績を挙げた人物が広く含まれる。
明治期のこの層は、旧来の門閥社会を打破し、欧米の先進的な制度や技術を日本へ移植・適応させた「制度の創設者」たちである。旧藩の出自を背景にしつつも、藩閥人脈と実務・専門能力を結合させ、内政、外交、教育、科学技術の各分野で近代国家としての骨格を設計した。特に、元は下級士族や幕臣、あるいは医師・学者といった層から、国家への功労によって「一代の貴族」へと登り詰めた新興エリートとしての性格が強い。
大正・昭和期の叙爵層は、近代化の「完成期」において、既存制度の高度な運用や改革を担ったプロフェッショナルたちである。議会政治の定着、官僚機構の成熟、国際外交の複雑化といった背景のもと、首相、外相、法相などの政治的中枢や、帝国大学総長に代表される学術界の権威、国際的な科学者などが対象となった。明治初期のような藩閥人脈のみならず、高等教育と官吏登用試験を経て築かれた、実力主義に基づく「専門職階級としての最高到達点」を象徴する層である。
近代日本における軍人華族(いわゆる軍功華族)は、日清戦争・日露戦争などの戦役において顕著な功績を挙げた将校に対し、授爵・昇爵が行われることで形成された層である。世襲制である公家・大名出身の「家柄華族」が当初から特権的な地位を占めていた門閥社会において、下級士族や平民出身者が軍事的な専門性と戦功を背景に準支配階層へと参入した、近代特有の**「職業軍人による功労華族」**としての性格を持つ。
明治期の軍人男爵家は、帝国陸海軍の創設期から日露戦争までの大規模戦役を指導した将官・佐官級が中心である。藩閥(特に薩長土肥)出身者が中枢を占めるという「軍内門閥」の構造を強く有しつつも、一方で有坂成章(砲開発)や村田経芳(銃開発)のような軍事技術家、あるいは軍医といった**高度な技術的知見を持つ専門職**に対しても、国家への貢献度に応じて爵位が授与された。
大正・昭和期の軍人華族は、明治期の戦功による叙爵が一巡した後の層であり、シベリア出兵や第一次世界大戦における軍事外交、あるいは第一次上海事変など大陸政策の現場で実力を行使した将軍らが対象となった。この時期になると、単なる戦地での武勲だけでなく、軍令・軍政の両面で国家運営の舵取りを担った**「軍事官僚」としての功績**が叙爵の重要な判断基準となった。
1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により、華族制度に準じた朝鮮貴族制度が創設された。朝鮮貴族には公・侯・伯・子・男の五爵が設けられたが、公爵に叙された者は存在せず、最上位の爵位は侯爵であった。朝鮮貴族の爵位は制度上、華族における同爵位と同格とされたものの、貴族院議員となる特権を持たない点で華族とは区別されていた[15][38]。
朝鮮貴族の爵位は、家柄ではなく日韓併合に際しての勲功などに対して与えられたものだった[15]。叙爵対象は大臣級の政治家・軍人経験者に偏りやすく、結果として朝鮮王朝の上層支配層(両班)出身者が多くを占めた[39]。
朝鮮貴族に叙された者は76名であり、そのうち男爵は45名である[38]。下位爵では、併合への反発から受爵を拒む者や、後に爵位を返上して独立運動に身を投じる者も現れた[40]。また、上位の爵位に比べて生活が困窮する家系も多く、昭和期には経済的破綻が社会問題となった例もある[15]。
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、五つある爵の最下級に位置づけている[41]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている[42]。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している[42]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[43]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[44]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[45]。貝塚茂樹は『春秋左氏伝』を検討し、五等爵は春秋時代末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている[46]。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「男」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、男の爵位が復活した。食邑は四百戸、四十里四方の土地が与えられることとなっている[47]。その後西晋および東晋でも爵位は存続している[48]。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[49]。
昭公13年には晋による平丘の会が開かれ、鄭の君主も招かれた。鄭の君主は本来は「伯」であったが、本来下位にある許と同列の「男」を称して覇者に対する貢納の負担を免れようとした[46]。
男爵と訳される貴族称号を英語ではバロン(baron)という。バロンの女性形はバロネス(baroness)で、イギリスの制度では男爵の妻(男爵夫人)や男爵の爵位をもつ女性(女男爵)に用いる。
イングランドでは13世紀頃までbaronという言葉は、貴族称号ではなく直属受封者(国王から直接に封土を受ける臣下)を意味する言葉だった。そのためその数は非常に多かったが、13世紀から14世紀にかけて大baronのみを貴族とし、小baronは騎士層として区別するようになりはじめ、baronという言葉も国王から議会招集令状を受けてイングランド議会に出席し、それによって貴族領と認められた所領を所有する貴族を意味するようになっていった[50][51]。
さらにヨーロッパ大陸から輸入された公爵(duke)、侯爵(marquess)、子爵(viscount)が貴族領の有無・大小と関わりなく国王勅許状(letters patent)によって与えられる貴族称号として登場してくると、baronも所領保有の有無にかかわらず勅許状によって与えられる最下位の貴族称号(「男爵」と訳される性質のもの)へと変化した[52][51]。勅許状による称号としての男爵(baron)位を最初に受けたのは1387年にキッダーミンスター男爵(Baron of Kidderminster)に叙されたジョン・ド・ビーチャムである[52]。
スコットランド貴族では、ロード・オブ・パーラメント(議会の卿)がイングランドにおける男爵位に相当する。スコットランドにおいてはbaronという言葉はずっと直属受封者の意味であり続け、国王から貴族称号をもらっていない地主を含んだ[53]。ジェームズ1世の治世下の1428年に小baronはスコットランド議会に招集されなくなり、同じ頃から裕福なbaronがロード・オブ・パーラメントに叙されて議席を持つようになったのがその始まりである[54]。
1958年の一代貴族法によって制定された一代貴族は、全員が男爵位である。ただしその男爵位は世襲できない[55]。
イギリスでは男爵を通常「Baron ○○(○○男爵)」とは呼ばず、「Lord ○○(○○卿)」と呼ぶが(子爵、伯爵、侯爵も同様に称することができるが、男爵はそれ以上に多くそう呼ばれる)、これはbaronがもともと直接受封者を意味する言葉だったことによる[52]。その「○○」は家名(姓・名字)ではなく爵位名である。例えばアシュバートン男爵の現当主は第8代アシュバートン男爵マーク・ベアリングであるが、家名はベアリング家なのである。ただしロスチャイルド男爵ロスチャイルド家のように、爵位名と家名が同一である例も少なくはない。
また、日本の華族と違い、欧州貴族は同一人が複数の爵位を持つ場合が多い。その場合、所持する爵位のうち最高位のものを名乗り、他は「従属爵位」とされる。男爵の場合当てはまらないが、嫡男(法定推定相続人)が従属爵位のうち一つを儀礼称号として名乗る。
男爵の妻はLady(レディ)を冠して呼ばれる。女男爵はBaroness(バロネス)あるいはLadyを冠して呼ばれる。女男爵の夫には何も敬称は冠せられない。男爵の息子および娘はThe Honourable のあとにファーストネーム+ラストネームをつけて呼ばれる[56]。
なお、貴族には当たらないが男爵より下位の世襲の称号として準男爵位が設けられている。
この一覧は未完成です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
ヴィアー男爵(セント・オールバンズ公)、キャリクファーガス男爵(ケンブリッジ公)、グリニッジ男爵(エディンバラ公)、サドバリー男爵(グラフトン公)、アッシュのシーモア男爵(サマセット公)、ウォームレイトンのスペンサー男爵(マールバラ公)、チェルムスフォード男爵(チェルムスフォード子爵)、サンドリッジのチャーチル男爵(マールバラ公)、ギルスランドのデイカー男爵(カーライル伯)、トーボルトン卿(リッチモンド公)、ブラボーン男爵(ビルマのマウントバッテン伯爵)、バーモント男爵(ノーフォーク公)、バーリー男爵(エクセター侯)、グロソップのハワード男爵(ノーフォーク公)、フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵(ノーフォーク公)、ヘッディントン男爵(セント・オールバンズ公)、ホウランド男爵(ベッドフォード公)、マルトレイヴァース男爵(ノーフォーク公)、フリーランドのラスヴェン卿(カーライル伯)、ラッセル男爵(ベッドフォード公)、ビーヴァーのルース男爵(ラトランド公)
この一覧は未完成です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
アゼンリー男爵、アームストロング男爵、アンソン男爵、イスメイ男爵、エイドリアン男爵、ガードナー男爵、カーリングフォード男爵、グイディル男爵、グラッドウィン男爵、クレアモント男爵、ケインズ男爵、ケルヴィン男爵、サイゾンビー男爵、スードリーのシーモア男爵、ブラックミーアのストレンジ男爵、ノーマン男爵、バーデット=クーツ男爵、ファーニヴァル男爵、ブレイニー男爵、ボルティモア男爵、マコーリー男爵、メルチェット男爵、ライエル男爵、リスター男爵、レイトン男爵、ローリー男爵、グリーンヒル男爵
王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、男爵は第5位である[57][58]。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない[57]。男爵位にはグランデの格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる[58]。
貴族称号は放棄が可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない[58]。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる[58]。爵位の継承には所定の料金がかかる[58]。
歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり[59]、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた[60]。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した[60]。
1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが[61]、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ[58][62]、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった[58]。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
スペイン貴族には現在169個の男爵位が存在し、うち2個がグランデの格式を有する。
ヨーロッパのその他の国はロシアを含めて、ほとんどがバロン系統の称号を男爵の爵位に用いているが、ドイツのみ男爵に相当する爵位はフライヘア (Freiherr)という。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:07 UTC 版)
自由民を表す言葉で後に領主一般を指す言葉となり、最終的にViscount以上の爵位を持たない領主の爵位(男爵)となった。ドイツ語圏やスコットランドでは男爵に相当するものにFreiherrやLord of parliamentが使われ、Baronはそれより低い称号になっている。スコットランド語でBaronyは荘園を意味し、荘園領主・小規模領主にBaronが用いられた。
※この「Baron」の解説は、「爵位」の解説の一部です。
「Baron」を含む「爵位」の記事については、「爵位」の概要を参照ください。