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Altair 8800(アルテア 8800)は、アメリカのMicro Instrumentation and Telemetry Systems (MITS) がIntel 8080 CPUをベースに開発し、1974年12月19日に発売されたコンピュータである[1]。マイクロプロセッサをCPUに使い価格を個人が購入できる程度まで抑えたコンピュータの中で、商業的に成功した[注釈 1]最初のものなので「世界初のパーソナルコンピューター」とされる[2]。
Altair 8800には画面出力はなく、基本的には、当時の一般的なコンピュータ同様に入出力にシリアル端末やテレタイプを接続して使うことを想定しており、それにはシリアルインターフェースカードをインストールする必要があった。[注釈 2] ただし最低構成でインタフェースカードや端末無しでも、前面のスイッチを使ってプログラムすることは一応できた。
Altair 8800の登場と販売の成功には『ポピュラーエレクトロニクス』誌が1枚かんでいる。 『ポピュラーエレクトロニクス』の1975年1月号の表紙に登場してホビイストの注目の的となり、『ポピュラーエレクトロニクス』『ラジオ・エレクトロニクス』その他、ホビイスト向け雑誌の広告を通じて通信販売(郵送販売)された。
Altair 8800でCP/Mも使えた。BASIC言語も移植され1975年10月からAltair BASICとしてオプションで販売されるようになった。
Altair8800が登場した1970年代のコンピュータはメインフレームやミニコンピュータが主流で、メインフレームは研究所や企業などの一室を占拠するほど巨大で、高額であった[注釈 3]。ミニコンピュータでもシステム一式のラックが壁面を占めるほどに巨大で、やはり高価[注釈 4] このためコンピュータを個人が占有することは困難だった。
1970年代初頭に開発されて最初期の製品が出荷されるようになっていたマイクロプロセッサは、スペックは低いがコンピュータの機能を有しており、同時期に開発進捗中のLSIを使い周辺回路と装置を用意すれば、コンピュータを個人が所有することが可能だと理解されていた。[注釈 5]
このような状況で個人向けに開発されたコンピューターキットのうちの1つが、Altair8800 であり、最初に商業的に成功したものだった。マイクロプロセッサを利用したコンピュータキットは、Altair8800のほんの少し前、同1974年にThe Scelbi-8H(1974年)や ジョナサン・タイタスが設計しラジオ・エレクトロニクスで紹介されたMark-8(1974年)が一応存在してはいた(どちらもIntel 8008をCPUに使ったもの)。ただしそれらは商業的に成功しておらず、最初に商業的に成功したのはAltair 8800なので、「Altair 8800が最初のパーソナルコンピュータ」とされることが一般的なのである。
1974年、ポピュラーエレクトロニクス誌(Popular Electronics)の編集長にアート・サルズバーグが就任した。サルズバーグは、エレクトロニクス関連の企画記事を掲載して競合誌に対する優位性を取り戻すことを目標に掲げた。彼は、競合誌である『ラジオ・エレクトロニクス』誌(Radio Electronics)(以下 "R誌"と略すことも)の1973年9月号に掲載されたドン・ランカスターによる記事「TV Typewriter」に感銘を受け、ポピュラーエレクトロニクス誌でもコンピューター関連のプロジェクトを掲載したいと考えた。ドン・ランカスターはまず1974年4月号にASCIIキーボードの記事を掲載した。1974年7月号のR誌にジョナサン・タイタスによる8008ベースのコンピュータ「Mark-8」の記事が掲載されたのを見て、ポピュラーエレクトロニクス誌の編集者らも、自分たちの雑誌に掲載できるコンピューターシステムを探し始めた。
編集者の一人であるレス・ソロモンは、MITS社がインテル8080ベースのコンピューターのプロジェクトを進めていることを知っており、同社なら人気の1月号(新年号)にふさわしいプロジェクトを提供できると考えた。MITS社の経営者エド・ロバーツは、経営危機に陥っていたMITS社を救うための最後の手段として、ホビー用のパーソナルコンピュータキットを作ることを決心した。これは当時不可能だと思われていたことだった。
R誌1973年9月号の「TV Typewriter」や 1974年7月号のMark-8コンピュータープロジェクトでは、詳細な計画書とプリント基板がセットになっていたもののホビイストは回路その他の部品を自分で調達する必要があった。ポピュラーエレクトロニクス誌の編集者らは、そのようなものではなく、プロらしい筐体に入った完全なコンピュータキットを求めていた。
MITS社のエド・ロバーツ(Ed Roberts)と主任エンジニアのビル・イェイツは、1974年10月に最初のプロトタイプを完成させ、鉄道便でニューヨークのポピュラーエレクトロニクス誌編集部に送ったが、配送会社のストライキのせいでプロトタイプは届かなかった。幸いなことにレス・ソロモンはそのコンピュータの写真を数枚持っており、記事はその写真を元に作成された。ロバーツは、記事のために代用品を作る作業に取り掛かった。雑誌の表紙に載ったコンピュータは、前面パネルにスイッチとLEDが並んだ"空の箱"であり、雑誌に掲載されたプロトタイプと完成したAltairコンピュータは回路基板のレイアウトが全く異なっていた。Altair 8800が掲載された1975年1月号は1974年11月29日に登録され、1974年12月19日に新聞スタンドに登場した。
形式上はAltair 8800は雑誌発売直前に"発売"となってはいたが、世の中の人々はそれを知らず、Altair 8800が実際に売れ始めたのはポピュラーエレクトロニクス誌の1975年1月号が販売され人々がその記事を読んでからである。
開発元であるMITS社のエド・ロバーツは、「商業モデルに匹敵しうる世界初のミニコンピュータキット」と紹介した。
Altairという名前は、当時『ポピュラーエレクトロニクス』誌のテクニカルディレクターだったレスリー・ソロモン(Leslie Solomon)[注釈 6]の娘ローレン(Lauren。当時12歳)の発案による。MITSの社長エド・ロバーツが新しいコンピュータの名前をどうするか相談するためにソロモン家に行ったところ、そこの娘ローレンは『スタートレック』のファンで、たまたまその夜放送予定だった[注釈 7]『スタートレック』のエピソードでエンタープライズ号が赴く目的地 "Altair VI"(アルタイル星系の第6惑星)の"Altair"という名が気に入り、それを提案したのだった。[注釈 8]
販売価格は、最初の広告では組み立てキット397ドル、組立済み498ドルと設定していたが、発売直後の3月に組み立てキット439ドル、組立済み621ドルへ値上げした。当時はIntel 8080単体が350ドルで、Alitairの設定価格が低すぎたのだった。
発売後最初の2〜3週間で4,000台を超える注文が殺到した。
当時のミニコンピュータとは数桁も異なる破格の安さであり、BIT誌上でも絶賛され、「personal computer」と呼ばれた。
しかし、後述する生産体制等の問題により、初年の1975年に実際に販売できたのは2,000台程度と言われている。
Altair8800は、組み立てキットだけではなく完成品もカタログに掲載されており、完成品の注文も多かった。だがMITS社は完成品を注文された台数すべて生産する能力はなかった。おまけに当初、完成品のほとんどに何らかの不良がありクレーム対応に追われた。納期遅れも購入者からのクレームを生んだ。1000ドルを先払いして購入した製品が納期遅れで客に届いた時は実勢価格が600ドルに下落していたという例もあり、訴訟沙汰になり差額の返金を要求された。
販売はキット品の割合が多かったが、電子工作の経験が無い人々が完成させられず、その問い合わせやクレームへの対応も大きな負担になった。
MITSが経営に失敗した理由は、この生産効率の悪さとクレームの対処のまずさにあったと言われている。キットではなく完成品が欲しい人々のニーズにMITSが満足に応えることができず、加えてオプション部品も供給できずにいることに気づいた他社がそこに勝機を見出してAltair互換機の完成品やオプション部品の製造販売ビジネスに乗り出し、結果としてMITSは "パイ" を奪われてゆくことになった。
なお、1977年にエド・ロバーツはMITS社をPertecに売却したが、その時点までに約 40,000台のAltair 8800を販売した、と証言している[3]。
マイクロプロセッサのIntel 8080A (2MHz)
標準構成では、わずか256バイト。 最大64キロバイトまで拡張可能。オプションで4KBの拡張メモリボードがあり、拡張スロットに挿す。
入出力は、基本的には端末(テレタイプ等)を使う。
Altair bus(S-100バス)搭載。(100ピン) これがデファクトスタンダード化してゆくことになった。#S-100バスで解説
フロントパネルにトグルスイッチとビットの状態を表示するためのランプが並んだスタイルは、当時のミニコンピュータのCPUユニットの前面パネルを踏襲している。基本的には端末で入出力を行うので、前面パネルのスイッチは使わない。
最小構成では端末が使えないので、プログラムの書込みは、以下のような手順で行う。
メモリを増設すれば、Altair BASICが使用可能で、BASICによるプログラミングも可能。このAltair BASICは、ポール・アレンとビル・ゲイツが本機のために開発したBASICインタプリタである。MITS社のソフトウェア部長にポール・アレンが就任した直後に開発が開始された。このAltair BASICの売上が創業まもないマイクロソフト(当時はMicrosoftではなく「Micro Soft」社)の大きな収益源となった。Altair BASIC は紙テープ($ 350)で供給され、売れ残ったメモリボードと組み合わせて廉価販売する手法も取られた。
S-100バスとは、Altairに搭載された拡張バス規格の名称であり、後に互換機市場において名付けられた。StandardのS、バスのピン数(100ピン構成)が名称の由来である。
MITSではAltairの拡張バスをAltair busと呼称しており、当初から機能の拡張が主目的であった訳ではなく、Altairの機能を複数のカードに分散して開発する目的で仕様規定された。
Altair busは、当初はi8080 CPUの動作タイミングに完全に依存した2MHzの非同期バスとして開発され、後にAltair680を発表する際に、M6800バスのような同期バスCPUにも流用出来るように改版された。8ビットバスであり、8ビット幅のデータバスと16ビット幅のアドレスバスを持つ。
当時は、最大で20数本ものスロットに5Vおよび12Vの電圧を安定して供給可能、かつ数アンペアもの電力消費に追従可能で安価なレギュレータは存在せず、バス上では電源として8Vおよび18Vを供給し、各カード上のローカルレギュレータで12Vと5Vを作り出していた。筐体容積の1/3近い体積を占める巨大なトランスとコンデンサを電源として搭載していることも、Altairおよびその互換機の特徴といえる。
S-100バスの名は、正しくはこのAltair busの互換バスとして、サードパーティが互換製品を出す際に名乗ったものである。互換機ビジネスは現在ではサードパーティビジネスとして成立しているが、当時は日本語で「コバンザメ商法」とも呼ばれ、MITSではS-100バスはAltairBUSではないとして、これらの互換メーカーを非難した。
より高品質な互換製品が市場に流通するようになってもMITSは自社製品の改良を行えず、経営危機に陥ったMITSは自社製品の正当性と保護を主張し、(現在で言うところの)「知的所有権の侵害」に当たるとして、販売店にIMSAIや他社の互換製品を排除させようとした。しかしこれにはユーザーや販売店側の反発があり、皮肉にもMITS自身がこの市場から放逐される事になってしまう。
デファクトスタンダード(事実上の標準)となったS-100バスは、のちに正式にIEEE-696として標準化されることにより、MITSやAltair消滅後もS-100バス互換機および互換市場は存続してゆく。AT互換機における、IBMによる標準規格PC(IBM-PC/AT)バスに対する、互換機メーカー主導による標準化バス名称ISAバスと同様の構図であった。
日本でもAltair8800の発売後まもなく、『ポピュラーエレクトロニクス』誌1975年1月号に部品リストや回路図が掲載され、コンピュータを組み立てることを同誌が読者に提案する企画として扱われた。しかし実際にはポピュラーエレクトロニクス誌宛に送られた完動品のAltair8800は輸送途中で行方不明となり、ポピュラーエレクトロニクスの表紙には代わりに急遽作成された中身のない筐体にランプをつけただけのダミーの写真が掲載された。
Altairのラインナップには、CPUにi8080を使用したAltair8800以外に、モトローラのMC6800を採用したAltair680がある。
Altair8800は更に初期型 (Altair8800)、中期型 (Altair8800a) と後期型 (Altair8800b) が存在し、さらにパネルスイッチによるブートストラップを必要とはせず、電源を入れるだけでフロッピーディスクから起動する、TURN-Key(Altair8800bT)という派生モデルも存在した。TURN-Keyモデルは、CP/M上のデータベースソフトなどのビジネスアプリを走らせて事務処理をしたい非電子技術者系ユーザーのニーズに応えるための製品であり、フロントパネルからメモリ操作用のトグルスイッチなどは省かれている。
なお、ここで言うブートストラップとは、コンピュータの起動時にOS等のソフトウェアをブートさせる最初のプログラムを読み込み実行させる仕組みであり、現在のAT互換機で例えるならBIOSの機能の一部に相当する。Altairは、標準ではBIOSやIPLなどもROMとして搭載していなかったため、最小構成では起動やリセットのたびに手作業で数十バイトのプログラムを二進数で入力する「儀式」が必要であった。
Altairの最小機能モデルは現在のCPU評価キット程度の機能しか持たず、それ単体では具体的な業務に従事させることは困難であった。しかしながらAltairBUS(S-100バス)で各種基板を接続する方式をとっていたため、拡張ボードで機能をグレードアップすることが可能であった。
このような用途にパーツを供給したり、互換機を発売するメーカーも現れ、「S-100バス互換機」市場が形成された。
ユーザーにとって、Altairは具体的にはS-100バスによって自在な拡張を可能とする「自作コンピュータ」の中核コンポーネントとして存在していた。これは、現在のPC-AT互換機に例えるなら、本体(筐体)とマザーボード、CPUのみの状態に近い。
ユーザーはこれにメモリやシリアルカード(音響カプラやプリンタ以外にも、シリアルコンソールを接続して対話的に操作する)の他、ST-506等の各種インタフェースを増設、フロッピーディスクドライブやハードディスクドライブ等を接続し、CP/MやBASICなどを利用して実務や開発などを行っていた。
また、AltairのCPUやメモリも単にS-100バス上のカードとして実装されているため、CPUをより高速・高機能なZ80に交換したり、メモリを64KBまでフル増設する等して、自在に拡張することができた。
上述のように、Altair8800は多数の互換機(クローン)が作られ、S-100バス互換機として、現在のPC/AT互換機のような互換機市場を形成していた。これらは単純にAltairをコピーした粗悪なものから、基板や回路の品質、筐体や電源の品質などでAltairを上回る高級品や、性能や機能を拡張したもの、各種の拡張カード類をあらかじめ内蔵(増設)してスイッチONでCP/Mが起動するものなど、コアとなるAltairの至らない部分を補完・拡張する形で存在していた。
米クロメンコ社が1976年に販売したS-100バス互換機で、S-100バスマシンとしては満艦飾仕様とも言える「全部入り」のハイエンド仕様として、当時は高級品の一角を占めていた。
4MHzのZ80A CPUと64KBのメインRAMを搭載し、2基の5インチ2Dフロッピーディスクドライブを搭載したものがSystem I、FDD1基に5メガバイトの5インチHDDを搭載したものがSystem IIである。
8インチFDDを2基搭載し、CP/Mのマルチユーザー環境MP/Mシステムに対応した、Cromemco System IIIも存在する。
米IMSアソシエイツ(IMSAI)の組立てキットで完成品もあったコンピュータで、Altairの完全互換機。CPUはAltairと同じ2MHz駆動の8080でありながら、基板の設計や筐体の組み付け、デザインはより洗練され、電源の容量にも余裕があり、フロントパネルのスイッチ類にもAltairより視認しやすく信頼性の高いものが使われている。
また、内部のS-100バススロットも最大で22基搭載しており、メモリカード(当時のメモリは高価であり、ホビイストや学生などの経済的に余裕のない個人ユーザーは、8KBや16KB単位で増設することが多かった)やSIO(シリアルポート)、PIO(パラレルポート)、FDD、CMT(テープ)、ビデオカード等の増設にも耐えたこと、またこれらのペリフェラル類が最初からオプションとして揃っていることなど、CP/M環境を組み立てるコアとしてはAltairよりも評価が高く、Altairの欠点を潰した「Altairの本来あるべき姿」といった評価もあった。
米ノーススター・コンピューターズ社の2FDD内蔵のフレームタイプコンピュータである。なお、当時の取り扱い代理店であった工人舎は、後にソーテックと社名変更しPC事業を続けた(現在はオンキヨーに吸収合併)。
米プロセッサ・テクノロジー製で、S-100バス互換機でありながらキーボード一体型の製品。スロット数は4本で横置き。最初期のS-100カードに比べて集積率が上がったコンボカードや、メモリ容量が格段に増えたメモリカード等が市場に登場したことにより、スロット数が少なくても実用に足る製品構成が可能になったために登場した製品である。Sol-20自体がAltairの互換製品であるが、このSol-20用のZ80プロセッサアップグレードキット「ZOL」がさらにサードパーティによって発売されていた。日本ではムーンベース(南新宿に存在したマイコン専門店)から745,000円で販売された。
2014年に技術少年出版[4]から発売された。CP/M互換OSを搭載している[5]。スイッチやLEDは特注品で当時は無かったUSBやMIDIを標準装備している[6]。
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「計算機の歴史 (1960年代以降)」の記事における「Altair 8800」の解説
詳細は「Altair 8800」を参照 シングルチップのマイクロプロセッサの開発は、安価で使いやすく真にパーソナルなコンピュータの普及にとって大きな役割を果たした。1975年1月号のポピュラーエレクトロニクス誌で Altair 8800 が紹介され、新たなコンピュータの市場が生まれた。これに似たような性能の IMSAI 8080 が続いた。AltairもIMSAIもミニコンピュータをスケールダウンしたものであり、単体ではシステムとして不完全である。キーボードやテレタイプ端末を接続する必要があり、本体に比べると相対的に高価だった。またどちらも本体前面パネルにスイッチとライトが並んでいて、二進法で操作者とやりとりすることができる。ブートストラップ・ローダーをスイッチ操作で(二進数で)入力すると、間違いがなければ紙テープリーダーから紙テープに格納されたBASICインタプリタをロードする。前面パネルからのプログラム入力は8個のスイッチで1バイトの値を指定して、ロードボタンを押すことでメモリに入力するということを繰り返す。一般に100バイトぶん以上それを繰り返す必要があった。インタプリタをロードすると、やっとBASICプログラムを実行できるようになる。 Altair 8800 は Intel 8080 マイクロプロセッサを使った世界で初めて商業的成功を収めたマイコンキットであり、世界初の量産されたマイコンキットである。1万台が出荷された。また、これに触発されたポール・アレンとビル・ゲイツがBASICインタプリタ「Altair BASIC」を開発し、後にマイクロソフトを創業することになった。 Altair 8800 はマイクロコンピュータの市場を生み出した。Altair 8800のバス規格「S-100バス」はデファクトスタンダードとなり、多くの小企業がS-100コンピュータを販売した。さらにインテルやザイログが後継マイクロプロセッサ(Z80や8085)を開発することになる。デジタルリサーチを創業したゲイリー・キルドールはそのためのオペレーティングシステム CP/M-80 を開発。CP/M-80は人気となり、多くのハードウェアベンダーが採用し、その上で動作する WordStar や dBase II といった様々なソフトウェア製品も登場した。 1970年代中ごろのホビーストたちは自前のシステムを設計し、時には集まって開発を行った。そんな中でホームブリュー・コンピュータ・クラブが生まれ、ホビーストたちの情報交換の場となった。多くのホビーストは公開された設計に基づいてコンピュータを自作した。例えば、1980年代前半の例として Galaksija がある。
※この「Altair 8800」の解説は、「計算機の歴史 (1960年代以降)」の解説の一部です。
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