昨日、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日韓戦を観ました。テーブルの上にはピザハットのピザとチキン、それにフライドポテト。冷えたビールを脇に置き、とろけるチーズを引き伸ばしながらスライスをつかみます。テレビの画面では試合が始まってます。わざわざ外に出なくても、こうして好きなものを手元に並べながら大一番を迎えられます。自宅観戦の贅沢さを感じる夜でした。

ただ、今回は少し勝手が違いました。今大会のWBCは、Netflixによる完全独占配信です。放映権料の高騰により地上波テレビ局は購入を断念し、民放でもNHKでも試合映像は一切流れません。WBCをテレビで観るには、Netflixに加入するしかないという、これまでになかった状況です。実際に画面を観て、まず気づいたのは映像の演出がこれまでの地上波中継とまるで異なるということでした。カメラワークに映画的な緊張感があり、選手の表情や球場の空気を切り取る編集がドラマチックです。スポーツ中継というより、スポーツを題材にした作品を観ているような感覚がありました。
一方で、映像の「なめらかさ」については、正直なところ地上波に軍配が上がると感じました。これは理由があります。地上波テレビは1秒間に60フィールドのインターレース映像で放送されており、動きの速い場面でも残像感が少なく滑らかに見えます。対してNetflixなどのストリーミングは主に24〜30フレームのプログレッシブ映像で配信されるため、映画的な美しさがある反面、ボールの軌道や素早いプレーの場面でわずかにカクつく印象が生まれます。さらにストリーミングは回線の帯域に映像品質が左右されるため、電波放送に比べて遅延や品質の揺らぎが出やすいのが欠点です。演出の豊かさと引き換えに、野球という競技の瞬発的なスピード感との相性においては、地上波に一日の長があると感じました。
それでも、こうして自宅のテレビでNetflixを通じてWBCを観ているという事実は、時代の変化を強く実感させます。かつてWBCの視聴率は40%を超えることもありました。そのお祭りが今や、月額課金のサブスクリプションサービスへと移行しつつあります。地上波という「広場」からサブスクという「個室」へ。それが良いことかどうかはわかりませんが、時代の流れは確かにそちらへ向いているようです。
ところで、日韓戦というのは不思議な試合です。他のどの国同士の対戦とも異なる、独特の空気があります。応援の声量も、画面越しに伝わる緊張感も、明らかに別格です。両国の長い歴史と、スポーツを通じて積み重ねてきたライバル関係が、グラウンドの上に凝縮されているような感覚があります。
WBCにおける日韓戦の歴史は積み重なったドラマの連続です。2006年の第1回大会では、イチローが「向こう30年、日本に手を出せないと思わせるような勝ちをしたい」と発言し、それが韓国側に挑発として受け取られたことで両国の緊張感は一気に高まりました。そして2009年の第2回大会では、同じ大会の中で実に5度も対戦するという異例の展開に。決勝戦、延長10回、2死二・三塁の場面で絶不調だったイチローが放った決勝タイムリーは、今も語り継がれる名場面です。「谷しかなかった。最後に山に登ることができた。神が降りてきた」というイチロー自身の言葉が、あの瞬間の重さをよく物語っています。
試合は序盤から激しい展開になりました。韓国は連打を重ね、日本は鈴木誠也、大谷翔平、吉田正尚と、次々にホームランが飛び出す応酬です。見ていて面白いことは面白いのですが、正直なところ、少し強引さを感じました。どちらのチーム(特に日本は)も、とにかく一発で仕留めようとしているように見える。まるで腕相撲のように力と力をぶつけ合う、ある種の泥臭い豪快さです。野球の醍醐味といえばそれまでですが、知略よりも筋力が先に立っているような印象を受けました。
ところが中盤に差し掛かると、試合の色がガラリと変わりました。両チームとも「野球脳」とでも呼ぶべき判断力が前面に出てきたのです。走塁のタイミング、バントの選択、継投の妙。一球一球に意図が宿り、画面から目が離せなくなりました。
大接戦でした。どちらが勝ってもおかしくない展開が続き、最後は日本が辛くも勝利をものにしました。
試合を振り返りながら、ふと思ったことがあります。序盤のホームラン合戦に感じた「強引さ」は、勝つ目的のためにためらわずに力を使うという意味で、ある種の合理性です。そしてその強引さを思ったとき、頭をよぎったのがランサムウェアでした。
ランサムウェア攻撃は、まさに強引です。忍び込む段階こそ巧妙ですが、一旦侵入を果たしたら、あとはためらわずにファイルを暗号化し、即座に金銭を要求してくる。長期的な工作などせず、とにかく早く確実に金をつかみにいく。その性質は、まるでホームランの応酬となった日韓戦のような力技です。
もちろん野球とサイバー犯罪を同列に語ることはできません。ただ、「強引さ」という言葉が、グラウンドとデジタルの世界を思わぬ形でつないでくれた一夜でした。テレビ画面の前で、そんなことをぼんやりと考えていました。