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ひとり情シスは、できないと言う仕事だ

中小企業のひとり情シス担当者がセキュリティ対策に取り組む物語です

「健太、これ何とかならないの?」

画面の前で、営業の裕子が振り返った。マウスカーソルは止まったままだ。

「また固まったんだけど…」

健太は席を立ち、裕子のパソコンを覗き込む。

起動しているアプリは、Outlook、Edge、Excel、PowerPoint、売上管理システム。

メモリ使用率は95%。

健太は裕子の隣に立つ。

「少し待ってもらえますか?」

それ以上、言えなかった。

パソコンの再起動、起動音。でも、また重くなる。

健太には分かっていた。どうにもならない。

ここは従業員30名の建材卸売会社。

情シスは健太ひとりだけ。

健太がこの会社に入ったのは、三年前だった。

前職は大手の某SES企業。システムエンジニアリングサービスという名目で、客先に常駐して働く日々だった。

朝から晩まで他社のシステム保守。現場が変わるたび、また一から人間関係を作り直す。終電、休日出勤、突然の障害対応。気づけば、自分がどこの会社の人間なのかも分からなくなっていた。

いつしか心身病んでしまい、辞めた。

次は、もう少し穏やかに働きたかった。一つの会社で、仲間と呼べる人たちと、腰を据えて働きたかった。

自宅療養しながら求人サイトを眺めていたとき、この会社の募集を見つけた。

大手企業や派遣ではなく、直接雇用だ。規模も小さい。アットホームという言葉に惹かれた。それは、健太が求めていた環境だった。

応募すると、すぐに面接の連絡が来た。いきなり、社長面談だ。

「うちは小さい会社だから、なによりも働く人を第一に考えてるんだ」

面接で社長はそう言った。

「パソコンに詳しい人がいなくて困ってたんだ。田中健太くんみたいな人が来てくれると助かるよ」

その言葉が、嬉しかった。

頼られている。必要とされている。ここにいていい、と言われた気がした。

入社初日、先輩となる営業の山本裕子が挨拶に来た。

「田中健太さんですね。よろしくお願いします」

明るい笑顔だった。

健太は、この会社で頑張ろうと思った。

「正直に言うと、パソコンの性能が限界です」

健太は、穏やかに言った。裕子に嫌われたくなかった。

「セキュリティソフトも、会社として外せないので…」

裕子は少し黙り、それから、こう言った。

「前は、もうちょっと動いてたよね!?」

責める口調ではなかった。だからこそ、きつかった。

役に立ちたかった。頼られたかった。でも、できない。

裕子は営業として毎日、取引先からの見積依頼に追われている。Excelで在庫ファイルを開き、価格表と照合し、PDFを作成する。その作業を、このパソコンでやらなければならない。

隣の席から、別の声が飛んできた。

「結局さ、パソコンがボロいから、情シスに言ってもどうしようもないよね〜」

裕子は何も言わず、ただ困ったように笑った。

その笑顔が、健太の胸を締めつける。

入社当初、「田中健太に聞けば何とかなる」そう思われていた。

裕子が初めてトラブルを相談してきたとき、健太はすぐに解決した。プリンターが動かない。ネットワークドライブに繋がらない。そういうトラブルなら、健太にも対応できた。

「すごい、ありがとう!」

その笑顔を、もう一度見たかった。

あの頃は、毎日が充実していた。「助かったよ!」と声をかけられるたび、この会社に来て良かったと思った。

裕子との会話も多かった。昼休み、たまたま隣の席になると、仕事の話や休日の過ごし方を話した。

でも今は違う。

「どうせ無理だよ」
「またダメって言われる」

期待が失望に変わった瞬間。健太ははっきり感じた。

裕子の目に映る自分は、もう「頼れる人」ではなかった。

パソコンのスペックを上げたくても予算がない。

社長は「まだ使えるだろう」と言う。

セキュリティを外す権限もない。

半年前、取引先の大手ゼネコンから通知が来た。


取引先のセキュリティ対策状況に関するお願い


拝啓

平素より大変お世話になっております。


近年、サプライチェーン全体を狙ったサイバー攻撃の事例が増加しており、取引先企業のシステムを経由して、不正アクセスや情報漏洩に至るケースが報告されています。


このような状況を踏まえ、弊社では情報セキュリティ対策の強化を進めており、その一環として、お取引先様におかれましても、一定の情報セキュリティ対策の実施状況について確認をさせていただきたく存じます。


つきましては、今後の安全な取引関係を維持するため、貴社のセキュリティ対策状況について、可能な範囲でのご共有・ご協力を賜りますようお願い申し上げます。


何かご不明な点等がございましたら、お気軽にお申し付けください。

今後とも、変わらぬお取引を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

敬具

社長に健太はその資料を見せられた。

「うちみたいな小さい会社が狙われるわけないだろうけどね…」

社長はそう言ったが、最後にこう付け加えた。

「まあ、取引先に迷惑かけるわけにはいかないからな。セキュリティはちゃんとやってくれ」

それ以来、健太はセキュリティの設定を緩めることができなくなった。

取引先の個人情報、発注データ、見積情報。それらが漏れれば、この会社は終わる。この会社が踏み台にされて、取引先が被害を受ければ、責任を問われる。

最近、健太は少し変わった。

無理に「何とかします」と言うのを辞めた。期待を持たせる言葉は使わなくなった。

「これ以上の改善は、パソコンのリプレイスが必要です」

それだけを、淡々と伝える。

裕子との距離が、少しずつ遠くなっていく。

倉庫から戻ってきた営業が、パソコンの前で溜息をつく。「またフリーズした」「見積が間に合わない」。その度に健太は呼ばれるが、できることは何もない。

同僚の視線が冷たくなることもある。「役に立たない」と思われているんだろう。

情報セキュリティの基準を緩和すれば、もっとスムーズに動くかもしれない。でも、健太はセキュリティ設定を緩めなかった。

この会社をサイバー攻撃の危険にさらすわけにはいかなかった。

裕子が取引先とやりとりしているデータを、守らなければならなかった。

ある日、裕子が給湯室で誰かと話しているのが聞こえた。

「健太って、なんか冷たくなったよね」
「忙しいんじゃない?」
「そうかな?」

健太は、そっと立ち去った。

「うちは小さい会社だから、なによりも働く人を第一に考えてるんだ」

社長のあの言葉は、本当だろうか?

健太にできたのは、トラブルを解決することではなく、なるべくトラブルが起きないように守ることだけだ。

失望されても、理解されなくても、会社は今日も動いてる。機密情報は守られている。取引先のデータも、裕子が扱う見積情報も、守られている。

健太は、その事実だけを、心の拠り所にした。

ひとり情シスは、「できない」と言う役目を引き受ける仕事だ。期待に応えられなくても、失望されても、好かれなくても、情報を守るという結果だけは、必ず残る。

裕子のパソコンは、今日もゆっくりと起動する。

人に呼ばれ、健太は、また席を立つ。

ひとり情シスの一日がはじまる。




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