2025年3月某日 セコい卑怯さを憎めない
やっぱり太宰を読んでいる。「畜犬談」。エッセイ風私小説、または私小説風エッセイ。犬を嫌いな作家が、つい犬を拾ってしまって、捨てるに捨てられない、というだけの話なんだけど、やっぱり面白い。文章を読む快感が詰まってる。こういうのは、最初の一文からバッチリ来るものだ。(※以下、太字部分が引用です)
私は、犬については自信がある。いつの日か、かならず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。
どうですかこの愛嬌。ただ「犬が怖い」と書けば済むところを、わざわざ滑稽な口調で伝えてしまう。この、持って回ったような言い方が、単なるウケ狙いであればいい文章とは言えないんだろうけど、でもこの作品の場合、「身に染みついて、やめようと思ってもやめられないサービス精神」こそがキモなんであって、それが一文目から伝わってくる。
僕は、「犬」を「文学」のメタファーだと思いながら読んだ。犬というものは元来狂暴なものだ、人は犬を手なずけたつもりでいるが、そんなものは勘違いだ、犬を刺激しないよう下手に出ていたら犬になつかれた、それでも犬は怖い、怖いだけで好きなわけではない、いっそ捨ててしまいたいが、結局捨てられない、という話。これ、「犬」の部分に「文学」を代入してみれば、文学へのツンデレ・ラブレターになるじゃないか。「対象物への卑屈な繊細さ、ピエロ的行動」と、「それを描写する文体」が切っても切れない関係になるじゃないか。
まあ、「犬=文学」と読ませる意図はおそらくないと思うんだけど、個別の事柄を仔細に描くことで、実は普遍的なことが伝わってしまう、みたいなことはよくある。ここでは、「犬」についての話が、「犬」でなくとも当てはまるように思えてくる、というか。「文学」ではなく、「世間」とか、「女」とか、「自己愛」について語ってると読みながら想像するのも面白い。
好きだった部分を引用させて。
「連れていったって、いいのに」家内は、やはりポチをあまり問題にしていない。どちらでもいいのである。
「だめだ。僕は、可愛いから養っているんじゃないんだよ。犬に復讐されるのが、こわいから、しかたなくそっとしておいてやっているのだ。わからんかね」
(中略)
いまこそ絶好の機会であると思っていた。この犬をこのまま忘れたふりして、ここへ置いて、さっさと汽車に乗って東京へ行ってしまえば、まさか犬も、笹子峠を越えて三鷹村まで追いかけてくることはなかろう。私たちは、ポチを捨てたのではない。まったくうっかりして連れてゆくことを忘れたのである。罪にはならない。またポチに恨まれる筋合もない。復讐されるわけはない。
これは、一度拾ってしまった犬を、引っ越しに便乗して捨てていこうと計画する夫婦の会話の場面。「捨てる」のではなく、あくまで「うっかり忘れた」と思いたい、という心情。セコい卑怯さと、それを認める正直さがあって、なんとも憎めない描写じゃないですか。これは、結局捨てることなんてできないという結末が、もう途中でバレちゃうような愛嬌がある。捨てたくても捨てられないものへの思い。太宰の饒舌さが、芯を食いまくった作品だ。
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