2025年3月某日 太宰治ブームが終わらない
引き続き太宰治ブームは続いていて。読みました、「富嶽百景」。師匠(なのかな)の井伏鱒二を慕って、峠の茶屋に"缶詰”になった3カ月のことを書いた随筆っぽい小説。部屋から見える富士山の見事さを、ベタすぎて好きじゃないとうそぶいてみたものの、滞在中いろいろあるから、その度に富士は表情を変えるのであった、というような話。
これはね、安心して読める。太宰なのに、「安心して読める」っていうと面白くなさそうな気もするな。でも、安心して。太宰のいろんな魅力がベストバランスで詰まってる。自虐と自己愛。繊細さとユーモア。自暴自棄と楽天性。それぞれの味付けが絶妙というか、音量のバランスがいい。文を読む快感が連続して、それが途切れない。
1つ引用させて。(太字部分が引用です)
星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽かに生きてゐる喜びで、さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ。くるしいのである。
この感じ。「星が大きい。」というこの上なくシンプルな1文。実際に見える星が大きいことはあまりなささそうだから、何らかの比喩なんだろうけど、その比喩を補足説明せずに言い切るので、読んでるこちらとしては直感で受け取るしかない。そして、何となくわかる。孤独を真に受けてしまった感じか。
その次の文は長い。読点でつなげながら、「苦笑するのだ」まで続く。多動症的というか、情景と行動と内面の描写が混ざった、軽やかなステップのような(落ち着かないとも言える)フレーズ。この、抑制の利いていないようなリズムが、いかにも人間の心らしいので、「くるしいのである。」にスッと着地すると、その逃げられなさに、つい気持ちがシンクロしてしまう。
心情は明るくないけど、その語り口が軽妙な感じ。この、静と動の組み合わせがなんとも愛くるしくて、憎めない。
(↑青空文庫のリンクです)
続いて、「葉桜と魔笛」だって読んじゃう。
病弱で若くして死を間近にした妹と、看病する姉。お互いを思った「やさしいウソ」の応酬が泣ける、みたいなやつ。これは、どうですか。さすがに、甘ったるいですか。ちょっと、「物語のための物語」「抒情のための抒情」というか、読み手に媚びるような味が濃いような気もする。でも、僕は結びの1文で、だいぶ好き寄りになったけど。
私は、そう信じて安心しておりたいのでございますけれども、どうも、年とって来ると、物慾が起り、信仰も薄らいでまいって、いけないと存じます。
これは、語り手である姉が、思春期を回想して、その話を切り上げる時のひと言なんだけど。「物慾が起り」という言い方、面白い。まるで、「年を重ねるということは、物慾が増すということだ」という格言が世の中にあるかのような、あっさりとした決めつけ方。
「煩悩」があるおかげで、「痛み」「悲しみ」を薄めて、生きてくることができた。そのことが恥ずかしい。でも、そんなことを言ったら、亡くなった妹に申し訳がない。そんなような、枯れた苦さを後味にして、短編が終わるのが、なんとも見事だなあ、と。
(↑青空文庫のリンクです)
さらに続いて、「斜陽」。これはヤバい。冒頭から描写が美しすぎる。瑞々しく、生々しく、生と死の臭いが一番酔える割合でブレンドされてるでしょ。映画を見てるみたい(エリック・ロメールとか?)。文章を読んでる気がしないのよ。写実的でありながら絵画的、というか。
かず子の母へのまなざしのシンプルな甘さ。舌にのせるとすぐ溶けるアイスクリームでしょ。憧れ、諦め、後ろめたさ、いろんな感情のニュアンスはありつつも、重さや深みを強調しない極上のくちどけ。ゆっくり味わいたいのに、甘さを確かめたくて、どんどん食べてしまう感じ。とにかく小説がうますぎる。
序盤が鮮やかすぎて、直治が帰ってきた中盤以降は失速感があったかも。ただ描写だけ永遠に読んでいたかったからなのかもしれない。
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