2025年3月某日 僕の家族には近寄らないでほしい
さて。それにしても、「人間失格」(太宰治)。なんなんだ。どうして「お金持ちの子どもが、人生にピンと来ないまま育ち、女にモテる話」をわざわざありがたがって読まなくちゃならんのだ。働かずに食べていける奴の喜怒哀楽なんて、読んでらんないよ(読んだんだけど)。
今の時代の僕らはしょうがない。「名作だと認められた作品をよく知って、教養を高めたい」という不純な動機があるからね。でもさ。おい、当時の奴ら。なんでありがたがって読むんだよ。例えば、こんな文章。(太字部分が引用です)
めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。
こんなこと言うやつ、ヤバくないですか? 感情移入できないでしょ。でも、それなのに。どうしても葉蔵のことを嫌いになれないのが、面白いんだよなあ。
「いけ好かない自意識野郎の自分語り」なんだけど、絶妙に憎めなくて。綱渡りのようにギリギリのバランスで葉蔵ワールドに引き込んでいく鮮やかさには、舌を巻いてしまう。音楽で、「不安定な和音で緊張させて、それが安定する和音に移行すると気持ちいい」みたいな作曲の手法があるとして。太宰の文章の展開って、コード展開の意外性でいつまでも続きを読み進めてしまう感じがある。
「第一の手記」の冒頭。(※以下、太字部分が引用です)
恥の多い生涯を送って来ました。
何やらこの男は告白めいたものを語ろうとしてることが読者に伝わる。生涯と言うからには、幼い頃からの話をするんだろう、「恥の多い」ってどういうことかと、読み始めるんだけど。その続きがクソ面白い。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。
なんだよそれ。何を語ろうとしてるのか。どんな種類の「恥」なのか、ちょっと想像がつきにくい。ひょっとして、こいつの言う「恥」ってのは、僕の思う「恥」とは種類が違うものかもしれないぞ、と薄々思わせてからの、
自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。
この意外性。「停車場にあるブリッジが、見た目の演出としてシャレたものだと思ってたら、あれ、役に立ってるのかよ。なんだ、つまんねえ」っていう発想の時点でたまらなくユニーク。「この男は、子どもの頃の可愛らしい勘違いを覚えているような繊細な感受性があるな」と思わせつつ、「恥を告白する導入からの変人自慢かよ」とツッコまずにはいられない流れ。この時点で、葉蔵のことをちょっと好き(嫌い)になってしまう。「こいつの良さ(ダメさ)を理解できるのは俺だけ」って思わせる魅力がある。
そこから滑らかに続く自虐と自己愛。「不安定なコード」での緊張が続くんよ。「安定なコード」に移行して、「なるほど、こういうことか」と早く腑に落ちたいんだけど、いつまで経ってもそうならないのが気持ち悪い(気持ちいい)。ひょっとしたら、根が正直だから、自分のついた嘘をあれだけたくさん覚えてるのかもしれない。とにかく、惹きつけられたよ。実際あんな人物が身近にいたら、好きになってしまうと思う。僕の家族には近寄らないでほしい。
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