2025年3月某日 無限ループで演じ直される物語みたいな
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」、読みました。これはやはり、冒頭の場面(「一、午后の授業」)が最高なんじゃないか、と。
いきなり準備もなしに物語世界に引き込まれる感じが少し怖い。どこの国の、いつの時代の話なのか分からない。誰が、誰に対して、どんな気持ちを語ってるのか、なんだかよく分からない。読者と物語の関係が、ジョバンニと銀河鉄道の関係と相似形に思える。「経緯は覚えてないんだけど、気づいたら、銀河鉄道に乗っていた」という体験が、もう始まってる感じ。(↓太字部分引用です)
「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
冒頭のこのセリフ。先生が生徒たちに話していて、天の川についての授業で、舞台は教室らしい。でも、それが事前に説明されずにいきなりセリフで始まるから、このセリフを、読者はどう受け止めたらいいかわからない状態で読むことになる。
この物語をどう読めばいいのか、一瞬の戸惑いがある。それで、先生の質問を真に受けてしまうジョバンニに、僕らはシンクロしてしまうんじゃないか。「空に浮かぶ天の川は、星の光の集まりなんだと知ってたつもりなんだけど、でも、本当にそうなんだろうか」みたいな、そういうぼんやりと頭にモヤがかかったような精神状態。
宇宙の広さを想像して気が遠くなるような、死を想ってその寒さに身を震わせるような、「少年らしい世界へのたじろぎ方」を僕らは追体験してしまう。こんなピュアすぎる精神状態だからこそ、ジョバンニは「ほんとうのさいわい」なんてものを考えてしまうわけで、それを探す旅は、最初の一文から始まっているのだ。
読み直してみて思ったんだけど、冒頭の授業のシーンで、ジョバンニはすでに物語の結末を予感してるんじゃないかと思った。ジョバンニは、これから起きるカムパネルラの悲劇をすでに知っていて、そして、なぜか「自分のせいだ」と申し訳なく思っている。
僕らが「銀河鉄道の夜」を何度も読み直すように、ジョバンニとカムパネルラも、物語を無限ループで演じ直してる感じがある。この永劫回帰っぽさが、作品の通底音なんじゃないか。とことん寂しいリリシズム。夜を、真空を、生と死の間を駆ける銀河鉄道に、僕らは既に乗っている。そのことを、何度も忘れて、何度も思い出す。星の光が、弱々しくて、でもまぶしくて、懐かしい。
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