2025年2月某日 「原作よりも、あらすじマンガの方が面白く感じてしまう」問題
ところで、相変わらずKindle Unlimitedでマンガを読んでるんだけど、その中で「まんがで読破」というシリーズがある。「過去の名作を親しみやすくマンガで紹介」みたいなもので、「旧約聖書」から「失われた時を求めて」から「純粋理性批判」から「おくのほそ道」まで、古今東西の名著が入ってるんだけど。
「バカにされたくないバカが、コソコソ読むもの」みたくバカにする気持ちも、正直言ってかなりあったんだけど、少しずつ読んでる。だって、楽して賢くなりたいじゃないか。背に腹は代えられない。
そして、意外なことに、結構面白いんである。「名著も悪くないじゃないか」という気分にお手軽になれる、というか。「阿Q正伝」とか傑作だよ。背景として魯迅の半生をマンガ化して、その前提で読むとあの落語のようなユーモアがなかなか辛辣な毒を含んでることが分かる。坂口安吾の「堕落論・白痴」もよかったな。堕落論って、すごいエッセイだよ。終戦直後に特攻隊とか天皇制とかを辛辣にディスってる。というか、それを支える武士道的な美しい日本人の精神性を退けて、図々しく醜く生きろと呼びかけてるわけであって、なかなかポジティブな旨みがある。マンガの構成も面白くて、「堕落論」の間に「白痴」を挟むんだけど。「堕落論」の旨味をベースにして読むと、「白痴」の虚無感が味わいやすいし、「白痴」の虚無感をベースにして読むと、「堕落論」の求める「あっけらかんとした強さ」も覚悟が伝わってくる、というか。
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それで、気づいたんだけど。僕は何かの作品に触れる前に、「解説」とか「あらすじ」とかの前提知識をチェックすることを、「邪道」だと思って「食わず嫌い」してきた気がする… 「先入観なしに作品に触れるべき」みたいなことに、知らず知らずのうちに縛られてきたような…
でも、「解説の先読み」、ひょっとしてなかなか悪くないかもしれない。だって、作品が発表された当時の文化背景とか、作品の立ち位置とかを知らないで読めば、それだって「どうせスンナリは理解できなくない?」という一種の先入観があるまま読み始めることになるじゃないか。だったら「解説の先読み」を入れることで、むしろニュートラルなテンションで読み始められるような気もしてきた。
そしてもう1つ恐ろしいことにも気づいた。僕は「名著」の原作のうちいくつかを青空文庫で読んだんだけど。ひょっとして、マンガの方が面白いじゃないか、と。まさか、そんなことがあるはずがない。だって、「名作」だよ。「人類の宝」でしょ。まさかマンガなんていう、低俗なものの方が面白いなんて、そんなことあるわけないじゃないか。いや、でも、正直に心に問いかけてみる。マンガの方が面白かったじゃないか。
これは、由々しき問題だ。要するに、僕の文学ファンとしての「舌」が「バカ舌」になっていて、単純な味しか分からなくなってるということなんだろう。YouTubeをHIPHOP解説を1.75倍速で見て、AbemaTVでMリーグを1.7倍速で見てることの弊害な気がする。そのテンポで情報が入ってくるものじゃないと、脳が「面白い」と判別しない。「分かりやすい味で出されたものを雑に味わう」という体験に慣れ過ぎて、「ただの文学」を読めなくなってる。描かれた情景が浮かばなかったり、あるいは単に読めない漢字が出てきたりするだけで、頭がフリーズしてしまう。由々しすぎるでしょ。
この「原作よりも、あらすじマンガの方が面白く感じてしまう」問題、気づけてよかったよ。この由々しき問題を自分で認めることができたのは、芥川龍之介の「羅生門」のおかげだった。「羅生門」は、マンガよりも原作小説が圧倒的に面白かった。
芥川、シンプルに文章がうますぎる。デッサン力がありすぎる。情景描写のリズム感が正確で、下人の心理描写がスリリングで、グルーヴが逃げていかない。これは、めちゃくちゃ面白いな、と思って。そのおかげで、昨日までの「バカ舌」を自覚したんだった。
「バカ舌」に気づいてどうするか。どうしようもできない気もする。もう、YouTubeのない時代には戻れない。
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