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所見をAIで書くことの、その先にある問い

年度末が近づくと、指導要録や通知表の所見に追われる時期がやってくる。この作業の負担感は、現場の教員であれば誰もが共感するところだろう。

そこに生成AIを活用しようという動きが出てくるのは、ごく自然な流れである。

使えるものをきちんと利用するのは工夫である。

使うこと自体は問題ではない

自分の立場としては、校内のルールや自治体のガイドラインに反していないのであれば、AIを活用して所見の文言を作成すること自体に問題はないと考えている。

そもそも、指導要録の所見の文言作成は、世の中の流れとしても省力化の方向に進んでいる。文科省も指導要録の簡素化を打ち出しているし、通知表についても形式や分量を見直す学校が増えてきた。所見の文言を一から手書きで練り上げることに、かつてほどの重みを置く時代ではなくなりつつあるのだろう。

AIに子どもの特徴や活動の記録を入力し、文例のたたき台を生成してもらう。それを教員が確認・修正して仕上げる。

このワークフローに大きな問題があるとは思わない。むしろ、深夜まで所見を書き続けるような働き方をこそ問い直すべきなのである。

ただし、立ち止まって考えたいこと

ただ、考えたいことはAIを使うかどうかではなく、省力化したその先にある。

これまで教員は、所見を書くという行為を通じて、実はさまざまな力を鍛えてきたようにも思う。

子どもの日々の様子を丁寧に見取り、その子に固有のエピソードを思い出し、保護者に伝わるような表現を選び取って、一人ひとり異なる文面を考える。

この思考のプロセスそのものが、教員の「見取りの力」を育てる訓練になっていた側面は否定できないように思う。

文章を書くこと自体を目的化する必要はない。しかし、省力化した結果、これまでその作業を通じて副次的に身につけていた能力を、どこで補完し習得すべきかは考えておきたい。

問いを持ち続ける

「誰かに伝わるように書く」という営みの中で培われてきた、教員としての専門的なスキルとは何だったのか。

それは書くことでしか身につかないものなのか、それとも別の方法でも習得可能なものなのか。

この問いに対する答えを、自分はまだ持っていない。

ただ、AIの活用を進めること自体には賛成しつつも、「便利になったね」で思考を止めてしまうのは少しもったいないと思う。

省力化によって生まれた時間を、子どもを見取る別の実践に充てられるなら、それは単なる効率化を超えた意味を持つ。

逆に、ただ楽になっただけで終わるなら、長い目で見て何かを失っている可能性もある。

道具が変わるとき、その道具で磨いていた技術のことも、改めて俯瞰的に考えておきたいところだ。




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