行きたくないライブは初めてだった
2009年12月28日。自分は幕張メッセにいた。
毎年年末は幕張メッセで開催される、カウントダウンジャパンという音楽フェスに参加していた。4日間開催されるイベントで、暇な学生だった自分は4日間毎日参加していた。毎年楽しみにしているイベントなのだが、この年はあまり乗り気ではなかった。
2009年12月24日にフジファブリックの志村正彦が急逝したからだ。
自分にとってフジファブリックはとても大切なバンド。首都圏で行われるライブはほぼ毎回行っているほどに大好きなバンドだった。
志村がいなくなってから、心にぽっかり穴が空いたような感覚で、何もする気が起きなかった。
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フェスのチケットは買っていたものの、この日も幕張メッセに行かず家で寝てようかとも思っていた。好きなアーティストがたくさん出演する。それでもライブで音楽を聴くテンションにもなれなかった。でも大学の先輩もいっしょに行くことになっていたので、しぶしぶ行った。
重い空気
当時のフジファブリックは、既に邦楽ロックを聴く人で存在を知らない人はいないほどの人気はあった。他にいないような個性があり、フジファブリックにしか作れない音楽を作って独自のポジションを確立していた。
カウントダウンジャパンも毎年出演していて、メインステージに立っていたほどの人気。この年も30日のメインステージのトップバッターで出演するはずだった。
フェスのお客さんにもフジファブリックは愛されていた。ライブを楽しみにしていたお客さんも多かったはずだ。
そして、志村の急逝に悲しんでいた人もたくさんいたと思う。
幕張メッセは前年と比べると重い雰囲気になっていた。志村正彦が29歳で遠くへ行ってしまったことは日本のロックシーンにおいて大きな衝撃だった。フジファブリックのファン以外にもショックを与えていたようだ。
カウントダウンジャパンにおいてもフジファブリックの存在感や貢献度は大きかった。イベント全体で追悼をしているかのような雰囲気があった。
自分と同じように、心にぽっかりと穴が開いたまま会場に来たフジファブリックのファンも多かったのかもしれない。そして、他のアーティストのファンも「普通にいつも通り楽しんでいいのかな?」という迷っているような雰囲気も感じた。
いっしょに行った先輩はフジファブリックのファンではなかったけど、いつもライブに行くときとはテンションも低かったし、色々と思うところもあったようだ。
信じられないし信じたくない
ライブ中もずっと心にぽっかりと穴が空いたような感覚でアーティストのライブを観ていた。
ステージから煽られれば腕を上げてみたりはしたけど、どうしても別のことを考えてしまい集中できない。他のアーティストやバンドはこうしてステージに立っている姿を観て奏でる音を聴けるのに、本当に志村の声も、ギターの音も、噛みまくりのMCも2度と聴けないのかと。
信じられなかったし信じたくなかった。
志村が居ないことを現実に思えかった。ニュースで知って驚きや悲しみや後悔など様々な感情で涙は出てきたけど、まだ志村が普通にフジファブリックの出演日の出演時間に出てきそうな気がしていた。
奥田民生ひとり股旅
この日は奥田民生が出演していた。この日は弾き語りのスタイルでの出演。
奥田民生は志村正彦のルーツともいえるミュージシャンだ。志村が中学の頃に音楽に目覚め、ミュージシャンを目指したきっかけは奥田民生だった。奥田民生のライブを観たことでミュージシャンを志すことを決めたのだ。音楽的にも影響を大きく受けている。
奥田民生も志村が自身に影響を受けたことを知っている。後輩としてかわいがっているようだった。
ライブで共演したこともある。雑誌で対談もしていた。フジファブリックの作品も聴いているようだったし、プライベートで会うこともあったようだ。
奥田民生の弾き語りは、いつも通りの民生だった。ゆるくてマイペースにMCをしてギターを弾いて歌う。
民生の歌声もギターの音色も心地よかった。でもどうしても志村のことを考えてしまう。志村が尊敬していた民生も普通にステージで歌っているのに、本当に志村はステージに2度と立てないのかと。
茜色の夕日
40分の持ち時間。次が最後の曲だと民生が伝える。
ギターを2、3回ストロークして音を確認した後に歌いだした。その曲は奥田民生の曲でもユニコーンの曲でもなかった。カバー曲だった。
フジファブリックの代表曲の1つである『茜色の夕日』だ。
茜色の夕日
フジファブリック
2005/09/07 ¥250
タイトルをクリックでダウンロード
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民生が歌い始めた時、お客さんから歓声が上がった。
「待ってました!」とか「うれしい」という意味での歓声とは違ったと思う。様々な想いが詰まっていて、とても複雑な意味もこもっていた歓声だと思う。
自分も民生が歌いだしたときに、声を上げてしまった。
「どうして民生がフジファブリックを歌うの?」という意味で。
『茜色の夕日』は志村正彦がミュージシャンを目指して上京し、初めて作った曲だ。
フジファブリックが志村の地元の山梨の富士五湖文化センターでライブを行った際、アンコールで『茜色の夕日』を歌う前のMCでは「この曲を歌うために僕は頑張ってきたんだと思います」と語っていた。
この曲はファンにとって大切な曲であることはもちろん、フジファブリックや志村本人にとっても大切な曲だ。
そんな大切な曲を奥田民生が丁寧に、魂を込めて歌っている。
奥田民生がライブの最後に『茜色の夕日』を歌う意味を考えたときに、自然と涙が出てきた。周囲のお客さんも泣いていたりタオルで顔を押さえる人がたくさんいた。すすり泣く声も聞こえる。
本当に志村はいなくなってしまったんだということを実感した。
本当に志村がいなくなってしまったから、民生は『茜色の夕日』を歌ってくれているんだと思った。自分のライブの大切な最後の曲に自分の曲ではなくフジファブリックの曲を選んでくれた。
曲の終盤、民生の声がだんだん震えてきた。最後のサビでは涙声になり、声を詰まらせた。
こんな民生の姿は見たことがなかった。ステージやファンの前では自分のスタイルを決して崩さなかった民生。泣いている姿は見たことなかった。
歌えなくなった民生にお客さん達も涙声で「民生!」と叫ぶ。そして、お客さんが涙声や震える声で民生の代わりに歌う。自分も号泣してしまって声が全然でなかったけど、必死で叫んだ。みんなで泣きながら叫んで歌った。 民生も声を震わせながらまた歌った。震える声で最後まで歌い切った。
演奏を終えて民生は「フジファブリック!」と叫んでステージを去っていった。フロアからは「ありがとう!」と多くの人が叫んでいた。
民生が志村のために歌ってくれたよ。
民生が志村のために泣いてくれたよ。
たくさんのお客さんが志村のために叫んだよ。
たくさんのお客さんが志村のために泣いたよ。
あなたの憧れている凄い人や、沢山のファンに愛される曲を志村は作ったんだよ。
あなたの憧れている凄い人や、沢山のファンに愛されるミュージシャンに志村はなれていたんだよ。
山梨公演のMCで、憧れていたミュージシャンになれたけども、ミュージシャンをやっていて嬉しい瞬間は「何かを成し遂げた一瞬だけ」と話していたけど、毎日ファンを感動させているんだよ。
毎日どこかで志村正彦の作った音楽を聴いている人がいる。今でもいる。
毎日成し遂げてるんだよ。
民生の歌声とファンの歌声を聴いて、全てを受け入れなければと思った。
忘れることはできないな。そんなことを思っていたんだ
2010年、残ったメンバーはフジファブリックを続けることを表明してくれた。
とても悩んだ上での表明だと思う。でも、本当に続けてくれて良かったと思っている。今のフジファブリックも素晴らしい曲を作っているし、最高のライブを行っている。志村が作った曲も演奏を続けてくれている。
フジファブリックがメジャーデビューしてからの時間は志村がいない時代の方が長くなってしまった。2000年結成のフジファブリックの歴史からしても、すでに8年は志村がいないフジファブリックとして歴史を刻んでいる。
今のフジファブリックも好きだけど、どうしても12月24日になると、志村正彦という天才がいたことを思い出してしまう。普段忘れているわけではないけどね。自分にとってはこれからもずっと、クリスマスイブは志村を思い出してしまう日になると思う。
クリスマスソングよりもフジファブリックの曲を聴くと思う。変わってて面白い曲や、不気味なのにかっこいい曲や、変な声なのに切なくなる曲を聴き続けると思う。2009年のことを思い出して、たまに悲しくなったり切なくなったりはするけどね。
もしかしたら今のフジファブリックのファンは、志村正彦がいる時代を知らないファンもいるかもしれない。フジファブリックのことを知っていても、志村正彦の存在を知らない音楽好きもいるかもしれない。
でも、CDを聴けばそこに志村の声はあるし、DVDを観れば志村はそこでギターを弾いて歌っている。志村の作った音楽に触れることは簡単にできる。音楽は永遠に死なない。
本当に知ってほしい。志村正彦という凄いロックミュージシャンをいたことを。こんなに早く伝説になるべきではなかった天才がいたことを。志村、かっこよかったし、良い曲たくさん作るし、心に突き刺さる声なんだよ。歌は下手だったけどね。
どうかこれからも志村正彦が作った音楽やフジファブリックの音楽が、多くの人に届きますように。最高なんだよ。凄いんだよ。本当に。
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