記憶より記録。まずは残すことを意識して行動する。
僕ね、めちゃくちゃ物忘れが激しいのです。嫁ちゃんと会話してても「え?そんなことあった?」と思うことあるし、「その話何回目よ?」なんて言われることもある。
自分が喋ってる途中で、「あ、この話は前にもしたね!」と思い出すこともある。
それに記憶の思い違いっていうのもあるね。ずっとAだと思っていたのに実はBだったり。
記憶に頼るとそういった間違いも起こるし、そもそも単に記憶として残しておくのが苦手なのかもしれない。そういう面があるのでライフログとして日々の記録をテキストや写真で残してたりするわけなんだけど、それですら記録忘れが多々あるんだよね。本当まいっちまう。
ただそういう時に気を付けているのは「あー、また忘れた。自分はダメなやつなんだ」と自暴自棄にならないこと。忘れてしまったものは仕方ない、とりあえず今からでもメモをするとか、別の取り組みをしてみる。
自分がブログを書き続ける意味としては「自分が生きた記録を残したい」というのをずっとずっと言い続けている。別になにか大きなことをやり遂げたわけではないし、誰かの役にたつことを日々書き続けているわけでもない。家族なり友達に「あぁ、こういうやつがいたな」くらいに残ればいいと思っている。
ブログ自体気がつけば10年以上続けているが、過去の記録を読み直すのは面白い。こんなことをやっていたな、こんな考え方をしていたなと、思い出すと恥ずかしいこともある。
ブログを書くさらにその前にはチャット系のSNSに日記みたいのを載せてたんだけど、今でこそそれらの記録は残っていないが、多感な時期に書いてたそれらの文章は今思えば残しておきたかったと思える。いや、実際には「消してしまいたい」と思うのだろうが、その時期にしか書けない文章っていうのがあるわけで、それはそれで面白い過去の記録になっただろうと思う。
そう考えると今こうして書いている文章も、数年もすれば「あの頃は・・・」と思うような文章なのだろう。こういった日記的なブログは他人にとっては面白くもなんともないものだろうが、自分のための記録として書き残す意味ってあると思うんだよね。あの頃より精神的に成長しているなと感じるだろうし、何年も前から全然成長してないなって気づくかもしれないし、それはそれで過去の自分との対話でもある。
自分だけじゃない、家族との関わりなども覚えているようで記憶としてはどんどん忘れていったり記憶の塗り重ねで本当のことを忘れてしまう可能性だってある。子供が産まれてから写真やビデオなどを撮る機会はふえたが、子供とどんな話をしてただろう、どんな話し方をしてただろう、公園のでの写真はあるけど公園まではどのようにして行ったんだろう・・・覚えているようで細かな記憶は残ってない。
それらの記憶を全部覚えていたなら頭がパンクしてしまうが、写真やビデオだけじゃない、もっと日常で感じたことや話したことなどが残っていたらよかったなと思うことがある。だからそれらの記録を残すのは今しかない。
自分の母親とあとどれくらい会えるのだろう。あとどれくらい会話できるのだろうと思うことがある。月に数回しか会う機会はないが、会うたびに写真をこっそり撮ったりする。普段見慣れている時には「あたりまえ」で気づかないこともたくさんある。
父がまだ生きている時は父がいることが当たり前だった。でも父がなくなり数年たち、自分のパソコンに入っている写真を見ると「これっぽちしか残ってない?」くらいだったりする。色んなことを話し、いろいろと教えてもらったことはもちろん記憶に残ってはいるけれど、もっともっと教えられたことがあったはずだと思う。
今は子供も大きくなり、学校でどんなことがあったとか友達とこんなことをしたとか普段聞き流してしまう会話もある。嫁ちゃんとの会話だってそう。たまにケンカしたり、ふざけあったり、何かの映画で感動したり、そういうこと多々繰り返しで日々が過ぎていくだろうけれど、記憶だけに頼っていたら自分はきっと忘れていってしまうだろう。
忘れることの怖さは「それが無いことと同等」だってことなんだよね。でも人間の機能として「忘れる」ことは重要な部分でもある。嫌なこと、辛いことをいつまでも忘れることができないのは精神を痛めてしまう。だから嫌なことをわざわざ残す必要はないかもしれないけれど、日々を思い出すためのキッカケとして、トリガーとして記憶を呼び覚ますためにも「記録」を続けていきたいし、もっと習慣化していきたい。