
節分の豆まきは、元々は、
一年の締め括りの「大晦日」の日の夜に
宮中で行われた、疫鬼を追い払う
「追儺」(ついな) という儀式でした。
「なやらい」「鬼やらい」とも言いました。
大儺(たいな)
「追儺」(ついな) は、古代Chinaで
「大儺」(たいな) と呼ばれた儀式が伝わって
始まったものです。
古代中国の「大儺」(たいな) は、
陰陽の調和が喪失すると、
鬼が活動して人々に害を及ぼすので、
「方相氏」により災厄(鬼)鬼の駆逐して
陰陽のバランスを回復するというもの。
「方相氏」の歴史は、今から3000年前、
周の時代に遡ると言われています。
『周礼』には、「方相氏は熊の皮を被り、
黄金四つ目の面をつけ、赤黒の衣装に
盾と鉾を持ち、数多くの役人を従えて
悪い鬼を追い払った」あります。
8世紀の記録である『続日本紀』によると、
文武天皇の慶雲3(706)年の大晦日に、
諸国に疫病が流行したので、
牛の土偶「土牛」(どぎゅう) を作って
大内裏の周囲、十二の門に配置し、
大寒前夜から節分当夜まで、
「大儺」(おおやらい) をしたとあり、
これが最初の「追儺」(ついな) とされています。
転訛の諸国に疫疾ありて、百姓多く死ぬ。
始めて土牛を作りて大きに儺す。
なお「土牛」(どぎゅう) は、方位によって
青・赤・白・黒・黄に色分けしたそうです。
日本でも当初は、
「大儺」(たいな) と呼ばれていました。
平安初期の「追儺」(ついな)
平安前期の弘仁12(821)年に成立した
『内裏式』に式次第が記されています。
中務省 (なかつかさしょう) の官人が、
手に桃の弓と葦の矢を持った
侍従・内舎人・大舎人達を引き連れてきます。
続いて「陰陽師」が祭具を持った斎郎 (神官) と
「方相氏」(ほうそうし) を1人、引き連れてきます。
その後ろには20人の「侲子」(しんし) と呼ばれる
子供達が続きます。
「陰陽師」がひざまずいて呪文を唱えて
儀式が始まります。
「疫病の鬼」に扮した舎人 (とねり) を、
鬼を追う「方相氏」(ほうそうし) が
四つ目の恐ろしい面を着けて、盾を持ち、
矛を打ち鳴らして大きな声を上げます。
更に桃の弓と葦の矢を持った役人達が従い、
桃の弓と葦の矢を放ち、
鬼が嫌う桃の杖を地面に打ちつけて援護し、
姿の見えない鬼を門外に出ると
追い払った合図に太鼓を叩くという
流れでした。
一方、斎郎 (さいろう) は、
五色の薄絁 (うすあしぎぬ)・飯・酒・ (ほじし)・
醢 (ししびしほ)・堅魚 (かつお)・鰒 (あわび)・
乾魚・海藻・塩・柏・瓢 (ひさご)・缶 (ほとぎ)・陶鉢を庭中に陳列します。
方相氏(ほうそうし)
儀式の主役「方相氏」(ほうそうし) は、
大舎人の中から背が高く身体が大きい者が
選ばれました。
『延喜式』(大舎人)には、
「方相氏」の衣装について詳しく説明して
います。
「方相氏」は黄金の四つ目の仮面を着け、
黒い衣に朱の裳を着用し、
右手に矛を執り、左手には盾を持ちました。
盾は長さ五尺(約151㎝)、幅一尺五寸(約45㎝)で
矛は長さ九尺(約272㎝)で緋の幡がつきました。
その後ろの「侲子」(しんし) は
紺の布衣を着て
朱の「抹額」(はちまき) をしました。
平安中期以降の「追儺」
これまで、正義の味方として鬼を追っていた
「方相氏」(ほうそうし) ですが、
平安中期頃になると、
儀式内容に大逆転が生じます。
恐ろしい姿をしていた「方相氏」を
逆に「鬼」に見立てて、
公卿・殿上人達が桃の弓と蒲の茎の矢で
鬼を攻撃して追い出すという
形式に変わったのです。
その後、この儀式は廃れましたが、
今も京都の「平安神宮」では、毎年節分に
平安時代の儀式を再現して行われています。
豆撒き
次第に宮中だけでなく、社寺・民間にも広まり、
宮中では毎年、大晦日の夜に行われましたが、
民間では二月の節分に行われてきました。
民間では、専ら節分の「豆撒き」が
普遍化していますが、
社寺の行事としては、
裃姿の年男が豆を撒くだけのものと、
古式に則り鬼を追うものとがあります。
また節分に行う場合が多いのですが、
大晦日に行う例もあります。
また「豆撒き」も、
単に鬼を追い払うだけでなく
神への散供(供物)の意味もありますから、
悪霊を抑える存在の「善鬼」としての面も
あるようです。
