
江戸時代、2月の初めての午の日
「初午」(はつうま) の日は、
子供が「寺子屋」に入門をする日でした。
この日、親に伴われて、
先生であるお師匠さんに挨拶に行きました。
この伝統が明治の学制に引き継がれて、
学校の入学式は「春の行事」になりました。
なぜ「初午」の日に入門?

稲荷神が学問・芸能上達の守護神に
「稲荷神」は元来、五穀豊穣の神様ですが、
時代が下って江戸時代にもなると
商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・
学問・芸能上達の守護神としても
広く信仰されるようになりました。
この「学問・芸能上達の守護神」という点が
強調されるようになり、
「初午」の日から「寺子屋」に通うと
読み書きが上達すると言われるようにと
言われるようになりました。
それがその後、「初午」の日は
「習い事や稽古事を始めるのに最適の日」
として定着するようになりました。
寺子屋への入門
「寺子屋」への入門は、
年齢も時期も任意でしたが、
通常は7、8歳、遅くとも9歳となった
「初午」の日に入門するのが一般的でした。
ただ5歳からという子がいるかと思うと
10代に入ってからというケースもあります。
更には大人も通えたそうです。
なお「寺子屋」に入ることを、
山登りになぞらえて「初山踏」(ういやまぶみ) とも
「初登山」(しょとうざん) とも言いました。
入門の日に必要なもの
「寺子屋」への入門の日には、一般的に
師匠に、入門料である「束脩」(そくしゅう)と
授業料である「謝儀」を納めました。
経済状況に応じて、金納もあれば、
農作物の物納もありました。
ただ「無報酬」で面倒をみることも多く、
農村・山村では庄屋などの村方役人による
「無報酬」の割合が高かったようです。
「初午」の入門の日、子供達(寺子)は、
羽織袴の親に連れられ、師匠宅を訪れました。
「寺子屋」の先輩達に菓子や赤飯を持参したり、
「慶事」として、隣近所にも菓子や赤飯を
配ったりもしました。
なお母親の実家では「入学祝」として、
「天神机・筆・墨・ 双紙」を贈る風習があって
これらも「寺子屋」に持参しました。
寺子屋

庶民のための施設教育機関
江戸時代の武士は、
文武の教養を積むべきと考えられていたため、
武士の子弟の教育機関として
「藩校」が設けられていました。
一方庶民も、
日常生活に必要な教養を求められたために、
徒弟奉公や女中奉公などの奉公生活、
または若者組などの集団生活、
更には、心学講舎や二宮尊徳の報徳教などの
教諭所も庶民教育の上に大きな役割を
果たしました。
江戸時代も中期になると
江戸は勿論、全国の町や農山漁村にも
庶民の子供達に読み・書き・そろばんを教える
私設の教育機関「寺子屋」が発達し、
次第に一般化して、
重要な位置を占めることとなりました。
天保期 (1830-1844) には著しく増加し、
幕末になると全国で15,000以上もの
「寺子屋」が存在していたと言われています。
この「寺子屋」が、人々の高い識字率を支え、
更には明治に入った後、短期間の内に、
全国に小学校を開設することが出来た
所以ではないでしょうか。
なお「寺子屋」(てらこや) は上方の呼び方で、
江戸では「手習い」(てならい) とか
「筆法指南」「手習い指南所」と言いました。
「寺子屋」の師匠

「寺子屋」の教師は「師匠」と呼ばれ、
「寺子屋」の経営も行いました。
なお「寺子屋」という名称から
「師匠」は僧侶が多いと考えられがちですが、
その身分について全国的に見ると、
「平民」が最も多く、
「武士」「僧侶」がこれに次ぎ、
その他、「神官」「医者」などが経営する
「寺子屋」もありました。
なお、江戸市中の1200以上の「寺子屋」の
3人に一人が女性の師匠であったそうです。
生徒達は「寺子」

生徒達のことは「寺子」(てらこ) と言いました。
庶民の日常生活に必要な実用的な
「読み (手習)」 「書き (読物)」 「そろばん (算用)」
の他に「礼儀作法」も学びました。
入門の翌日より「寺子達」は
「寺子屋」に通いました。
「寺子屋」の始業は午前8時 (冬期は9時) 頃で、
終業は午後3時 (冬期は午後2時)頃でした。
「寺子屋」の修業年限は
別に定められてはおらず、
長くて7、8年、短くて1、2年でした。
自分の習得レベルや学びたい内容によって
バラバラの教科書を使い、
文字を練習したり、そろばんを弾いたり、
礼儀作法の本を読むなど、各自で勉強しました。
それを1人の師匠が指導しました。
全国的に見れば、「寺子屋」に通ったのは
女子よりも男子が多いものの、
江戸の神田・日本橋・浅草などでは、
男女の割合がほぼ同数だったそうです。
女子が「寺子屋」に通うようになったのは、
商業活動の活発化によって
女子の労働力も必要となったこと、
庶民の経済活動にゆとりが出来て
女子にも教養を与えようという
欲求が生まれたことが背景にあります。
また親達が、娘に商家や武家へ奉公が出来る
教養や行儀作法を身につけさせることを
期待したこともありました。
武家奉公をしたという女子のキャリアは、
結婚のための箔をつけるだけではなく、
将来「寺子屋」の師匠として
自立して生きるためにも役立つものだった
からでした。
手習(てならい)・読物(よみもの)
「寺子屋」の学習の大部分は
「手習」(てならい) で、
次いで「読物」(よみもの)でした。
初めは師匠が書いて与えた「手本」を見ながら
「いろは」や「数字」などから書き習い、
初歩の「手習」が終わると、
次は、日常生活に必要な基本的な語彙や
知識・技能・道徳など必要な知識を
「往来物」(おうらいもの) で学びました。
往来物(おうらいもの)
数字・名頭・村名・郡名・国名や
日常的単語や単文を書簡文体に編んだ
教科書のこと。
更に「読書」には、
『御成敗式目』『百人一首』『今川状』、
寺子屋によっては、『女大学』『唐詩選』
『大和俗訓』なども用いられ、
こうして何年も寺子屋へ通った者の中には、『四書五経』を素読する者もあったそうです。
算用(さんよう)=そろばん
江戸時代には町人の経済生活と関連して、
「算用」(さんよう) すなわち「そろばん」が
「手習」(てならい) とともに重要な位置を
占めていました。
そろばんの教科書として利用されたのが
江戸時代の初期に作られたのが
『塵劫記』(じんこうぎ) です。
その後、「何々塵劫記」と題した
多数のそろばん書が作られました。
こうして庶民の計算能力が培われ、
近代において筆算が導入される際にも、
その基礎が作られていた点において、
大きな意義がありました。