東京北区の「王子稲荷神社」では、
2月の「午」の日に
江戸時代から続く名物行事「凧市」が開催され、
「火防凧」を求める参詣者で賑わいます。
王子稲荷神社の「凧市」
王子稲荷神社

東京北区の「王子稲荷神社」は
関東の稲荷総社の格式を持つ神社です。
大晦日の夜には、
関東八ヶ国の稲荷のお使いである狐が
お参りするという言い伝えがあります。
凧市
毎年2月の「午の日」(うまのひ) には、
「凧市」が開催されます。
令和8(2026)年は、
「初午」(はつうま) の2月1日(日)と
「二の午」(にのうま) の2月13日(金)の
2回行われます。
「火防の凧」(ひぶせのたこ)
「凧市」は江戸時代からの行事で、
熱風が大火に繋がることから、
風を切って揚がる「奴凧」を
「火防の凧」(ひぶせのたこ) として
火事除けのお守りにしたと言われています。
現在も、「火防の凧」を祀ると火難を免れ、
無病息災・商売繁盛に御利益があるとして、
この凧を受けるために、2月の「午」の日には、
多くの人が「王子稲荷神社」を訪れます。
明暦の大火

江戸最大の火事

「火事と喧嘩は江戸の華」と言われましたが、
季節的に、空気は乾燥し風も強かったことから
特に「初午」の頃は例年火事が集中しました。
江戸最大の火事は、
明暦3年1月18日 (旧暦) の未の刻 (午後2時) に
発生した「明暦の大火」です。
まず、本郷5丁目 (現:文京区本郷) の
本妙寺から出火すると、
あっという間に神田・京橋・隅田川界隈を
焼き尽くしました。
夜になって火災は収まったかに見えましたが、
翌日には小石川の鷹匠町と麹町で再び出火。
これによって飯田橋や九段、新橋など、
外堀の内側の江戸市中は
ほぼ全域が焼失してしまいました。
湯島天神や神田明神、
歌舞伎の中村座や市村座、
遊郭の吉原もみな燃え、死者10万人以上、
江戸城天守閣もこの火事で焼け落ちました。「ローマ大火」「ロンドン大火」と並んで
「世界三大大火」とされます。
なおこれ以降、江戸城の天守閣は
再建されていません。
振袖火事
「明暦の大火」は、
いわくつきの「振袖」を燃やしたことに
端を発したことから、
別名「振袖火事」とも呼ばれています。
このいわゆる「振袖火事」には、
たくさんの逸話が残されているだけでなく、
振袖の持ち主とされる主人公の名前も
実に様々です。
ただ、大火前は80日以上も雨が降らず、
当日は北西の強風が吹いていたという
記録が残っており、こういった気候が
大規模火災を引き起こしたことは
間違いなさそうです。
切り放ち

江戸時代、獄舎が火災などの非常の際に、
囚人を放って逃がすことを
「切り放ち」と言います。
「明暦の大火」の際、
火が伝馬町牢屋敷に迫ったという報せを聞いた
牢屋奉行の石出帯刀 (いしでたてわき) は、
「3日後、浅草の善慶寺に必ず集まること」を
申し伝えた上で、
120~130名全ての罪人を解放する
「切り放ち」を独断で行いました。
もし1人でも逃げたら石出の切腹は免れません。
しかし3日後、全ての罪人が戻って来ました。
これを見た石出は老中に減刑を嘆願し、
幕府も収監者全員の減刑を実行しました。
そして石出の「切り放ち」は慣例化し、
更には明治時代の「監獄法」や
現在の「刑事収容施設法」にまで
受け継がれています。
幕府の救済活動
災害後の幕府の対応は迅速でした。
翌日には各地の大名に「江戸城は焼失したが、
将軍は無事であり問題はない」とお触れを出し
大名の動揺を防ぎました。
また老中・松平信綱は、
陸奥磐城平藩主・内藤忠興ら4名に
毎日1千俵 (約52.5t) の
食糧支援を命ずると同時に、
時価の倍で米を購入すると発表して、
全国から江戸に大量の米を集めました。
こうして被災者に
大量の食糧を供給すると同時に、
米価の高騰を防ぎました。
幕府による大火後の復興作業
幕府は江戸の実測図を作成し、
災害に備えた町づくりにも着手しました。
まず城内の親藩・御三家の藩邸や
周辺の武家屋敷や寺院を分散させ、
跡地を空き地として
江戸城周囲に防火帯を設けました。
一般の町地でも、
道路や川幅の拡張、火除けの空き地の設置、
町屋の茅葺きや藁葺きの禁止など、
徹底した防火対策が行われました。

また赤坂溜池の一部や海の埋め立て、
隅田川には複数の橋を架設、
更には本所・深川の開発など、
市街地を東側へ拡大するなどの
都市改造が行われました。