
「三筆」の一人としても讃えられる
第52代 嵯峨天皇は、桜を愛でる宴を開いた
日本最古の「桜のお花見」の主催者とされて
います。
花宴の節(かえんのせち)
第52代 嵯峨天皇は、
弘仁3(812)年、京都の神泉苑で
「花宴の節」(かえんのせち) を催し、
ここで桜を観賞し、文人と詩宴を催しました。
以後、それまでの主流だった「梅」の花見から
「桜」の花見へと変化するきっかけを作った
歴史的イベントとなりました。
「神泉苑」(しんせんえん) は、
元々は平安京大内裏に接して造営された
禁苑(天皇や皇帝が専用に所有・利用する庭園)
です。
古代から中世にかけては
東寺が管掌する雨乞いの道場となり、
江戸時代に真言宗の寺院となりました。
「左近の梅」から
「左近の桜」へ
京都御所の紫宸殿の南庭 (だんてい) には
「左近の桜」という有名な桜があります。
実は平安京遷都の際に
最初に植えられたのは「梅」の木で、
南殿にあったのは
「左近の梅」「右近の橘」でした。
梅は遣唐使などにより、
始めに白梅、後に紅梅が日本にもたらされた
と言われており、「歳寒の三友」と呼ばれ、
『万葉集』の時代には「花」と言えば
「梅」のことを言いました。
ですから平安遷都の際に、
御所に植えられたのも「梅」でした。
なお嵯峨天皇ゆかりの「大覚寺」の
重要文化財「宸殿」の前庭には、
平安時代の古式に則り、「左近の梅」が
植えられています。
ところがこの「左近の梅」は、
承和年間(834-848)に枯れてしまったため、
嵯峨天皇の第二皇子で、
天長10(833)年に即位した
第54代 仁明天皇の命により
替わりに桜の木が植えられたと伝えられて
います。
最後の「遣唐使」が派遣されたのは、
やはり仁明天皇の御代の承和5(838)年のこと。
あの小野篁が乗船を拒否して隠岐に流された、
あの話の時です。
当時まだ、文書は全て漢文が使用され、
和歌も万葉仮名が使われていましたが、
その後まもなく平仮名が生まれ、
更にもう少し時間はかかりますが、
日本が唐風から脱皮して日本の古典文学も
花開き出します。
つまり「左近の桜」の誕生は、
日本人自身が「日本」を意識し始める兆しと
言えるのではないでしょうか。
そして「梅」に圧倒されていた「桜」は
「梅」に替って国風文化隆盛の象徴となり、
「花」と言えば「桜」のことを意味するまでに
なりました。
そして内裏は何度も消失しましたが
その度に新たな桜が植えられてきました。
今日まで、「左近の桜」が他の花に
替えられることは一度もありませんでした。
現在の「左近の桜」は、
安政2(1855)年に紫宸殿が造営されてから
3代目の桜を平成10(1998)年に移植したもの
です。
先々代の天然記念物に指定されていた
「左近の桜」から株分けによって増やされた
個体であることが判っています。
今の「左近の桜」の後継樹を維持するために、
クローン増殖が進められているそうです。
平安貴族の花見
「左近の桜」以後、宮中や貴族の邸宅には
「桜」が植えられていきました。
『源氏物語』の中の桜の宴
『源氏物語』の8帖「花宴」(はなのえん) には、
南殿での桜の宴の様子が書かれています。
宴は夜まで続き、光源氏らは漢詩を披露し、
舞を舞われました。
因みに『源氏物語』の「光源氏」のモデルの
有力候補として名高い、源融 (みなもとのとおる) は
嵯峨天皇の第12皇子で、
源 (嵯峨源氏) の姓を賜って臣籍に下りました。
染殿花亭(そめどのかてい/はなてい)
染殿花亭は、
皇族以外で初めて「摂政」に就任した
藤原良房の邸宅「染殿」にあった庭園、
または宴の場です 。
藤原良房は嵯峨天皇の信望が大きく、
天皇は皇女・潔姫 (きよひめ) を降嫁しています。
仁明天皇の御代には急激に昇進。
「承和の変」を通じて、
皇太子の外伯父となると共に、大納言に昇進し、
朝廷での影響力を一挙に強めました。
仁明天皇の死後、仁寿元(851)年、
良房は自らの邸宅である「染殿」(そめどの) で
天皇のための追悼法会を行いました。
その際に良房は
「仁明天皇は私の家の桜を見たがっていた。
しかし、突然亡くなってしまったので
見ていただくことができなかった」と
悲しんだと伝えられています
(『日本文徳天皇実録』)。
この出来事から、「染殿の桜」は
仁明天皇の遺愛の桜であると広まり、
屋敷は桜の名所として知られるようになり、
観桜の歌宴も度々催されました。
文徳・清和両天皇も
「染殿」へ桜を見物するために頻繁に行幸し、
宴や詩歌を楽しんだそうです。
宴では、飲食・漢詩・雅楽・競射などを
盛大に楽しみ、
付き従った人々にも褒美の品を与えるなど
一大行事でした。
渚の院(なぎさのいん)
「渚の院」(なぎさのいん) は、
惟喬親王 (これたかしんのう) の別荘で、
平安時代から『伊勢物語』にも登場する
桜の名所として知られた場所です。
現在は、大阪府枚方市渚元町に
「渚院跡」として鐘楼や石碑が残っています。
惟喬親王は、仁明天皇の第一皇子の
第55代 文徳天皇の第一皇子として生まれ、
幼少より聡明でしたが、母の身分が低く、
藤原氏の権力争いにより
弟の惟仁親王(清和天皇)に皇位を奪われた
「悲運の皇子」です。
大宰帥・弾正尹・常陸太守・
上野太守などを歴任した後、
貞観14(872)年、病を理由に出家し、
山城国愛宕郷小野に隠棲しました。
和歌を愛した風流人であり、
在原業平や遍昭、伯父紀有常ら歌人と交流し、度々詩歌の宴を催しました。
『伊勢物語』の八十二段に、渚の院で、
失意の惟喬親王を励ますために催された
宴会の模様が描かれています。
貴族達は、交野の地で一日中狩猟をし、
花見をして、酒を飲んでいましたが、
ちょうど桜の満開の時期であったことから、
身分の上下になく、皆で歌を詠み合いました。
ここで在原業平のあの有名な歌が詠まれました。
世の中に たえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
春の心はのどけからまし
この世の中に全く桜がなかったならば、
春の人の心はのどかだったろうに
春の人の心はのどかだったろうに
これに対して、次のように詠んでいます。
散ればこそいとど桜はめでたけれ
憂き世に何か久しかるべき
憂き世に何か久しかるべき
散るからこそ、一層桜は素晴らしいのだ。
辛く儚い世の中で何が永久であるだろうか、いや永久なものはない。
辛く儚い世の中で何が永久であるだろうか、いや永久なものはない。
桜町大神宮
桜町大神宮は、平安時代末期の治承2(1178)年、
「桜町中納言」と呼ばれた
藤原成範 (ふじわら の しげのり) が建立した
神社です。
藤原成範は桜花の命が短いことを惜しみ、
篤く信仰していた天照大神に、
もっと長く咲き続けられるよう祈願しました。
するとその願いは受け止められて、
桜花の寿命を37日も延ばされたのです!
その御神徳に感激した藤原成範が
神社建立の志を立てると、
夢の中に白羽の矢を持った神童が現れて
「白羽の矢を置いた深草郷を探し
そこで宮造りをせよ」と告げました。
そこでこのお告げに従い、
大勢の家臣を連れて白羽の矢を大捜索し、
ようやく探し当てたこの地に
「桜町大神宮」を創建し、
数株の桜を植えて御神木とされました。
時代は下って、文禄3(1554)年、
太閤秀吉が伏見城築城の際に、
城郭内の「佐田彦神社」をここに移して
合祀されました。
秀吉はこの地の花期の長さを愛し、
春には度々桜を愛でるために
武運祈願の参拝を兼ね盛大な雅宴を催しました。
今も、佐田彦大神の徳「縁結び」「交通安全」の神として尊崇されています。