
天武天皇の第3皇子・大津皇子は、
天武天皇の没後、皇位継承を巡って
謀反の疑いで捕らえられて自害しました。
ところで大津皇子は自害の直前に、
磐余 (いはれ) にあった自邸で
次のような辞世の歌を詠んでいます。
大津皇子の死を被りし時に、
磐余 (いはれ) の池の陂 (つつみ) にして
涕 (なみだ) を流して作りませる御歌一首
磐余 (いはれ) の池の陂 (つつみ) にして
涕 (なみだ) を流して作りませる御歌一首
(『万葉集』巻三 −四一六)
磐余の池で、ああ鴨が嗚いた。
じっと見ると、物陰に鴨はいる。
ぽっつりと浮かんで、
これを見納めとして、
私は死んでいかねばならぬのか。
貴い天皇の子である私が。
この和歌の中に見える「磐余池」とは、
『日本書紀』や『万葉集』に
その名がしばしば登場するにも拘わらず、
長らく所在地が不明で「幻の池」とも言われた
「磐余市磯池」(いちしのいけ) のことです。
平成23(2011)年に、奈良県橿原市と
桜井市にまたがる「東池尻・池之内遺跡」で
堤の可能性のある遺構が発見されました。
「磐余池」(いわれのいけ) は、
5世紀、第17代 履中天皇が造らせた人工池で、
「磐余市磯池」(いわれいちしのいけ) とも
言います。
『日本書紀・巻12 履中紀』には、
履中天皇3(402)年冬の11月に、
履中天皇がこの「磐余池」に船を浮かべて、
皇后や妃とともに酒宴を楽しんでいたところ
季節外れの冬に咲いた桜の花びらが
盃に舞い落ちたことから
宮名を「磐余稚桜宮」(いわれわかざくらのみや) と
名付けたと記されています。
そしてこれが、花見に関する最古の記録
という説があります。
仁徳天皇の皇子・大兄去来穂別尊 は、
履中天皇元(400)年2月に
(後の)「磐余稚桜宮」で即位し、
第17代 履中天皇となりました。
履中天皇は、各地に国司や国史を置き、
諸国に意向を広く伝えるとともに、
諸国の記録を残すようにするなど、
国の仕組みを整えて
国家を安定させようとしたと
記されています。
即位の翌年に磐余に遷都し、
「磐余池」を造り、
翌3(402)年11月、両枝船 (ふたまたぶね) を
磐余市磯池 (いちしのいけ) に泛 (うか) べて、
皇妃の黒媛と分乗して遊宴しました。
膳臣余磯 (かしはでのおみあれし) が
酒を献じたところ、
桜の花びらが天皇の盞 (さかづき) に入りました。
季節外れの桜の花びらだったので、
天皇は不思議に思い、
物部長真胆 (もののべのながまい) を呼び寄せ、
何処から飛来した花なのか調べさせました。
「(11月だから桜の時期ではないのに)
この花が来た。
これは何処の花か、探して来なさい」
そこで長真胆 (ながまい) は一人、花を求めて、
掖上室山 (わきのかみのむらのやま) で桜を見つけて、
その桜の枝を天皇に献じました。
「掖上室山」は現在の奈良県御所市室辺り
喜んだ履中天皇は、それに因んで
宮名を「磐余稚桜宮」(いわれわかざくらのみや) と
名付けたと言われています。
更にこの宮の名前の由来となった桜樹を
等弥郷 (とみごう) という所にあった
清水の湧き出る泉の畔に植えたという
伝説があり、これが「桜の井戸」であり、
つまり奈良県「桜井」の地名の起こりにも
なっています。