『春よ来い』のアンサーソングのような
タイトルの♪ 唱歌『春が来た』は、
明治43(1910)年に
「尋常小学読本唱歌」第三学年用に掲載された
日本の代表的な唱歌です。
季節の変化に対する感受性を養う歌として、
長く親しまれていて、
文化庁が選定した「日本の歌百選」にも
選ばれている名曲のひとつです。
なぜ「春」を題材とした
唱歌や童謡が多いのか?

『春が来た』と同様に
春の自然や季節感を歌った唱歌・童謡は、
『春の小川』『さくらさくら』『朧月夜』など
多数あります。
なぜ春を題材とした唱歌や童謡が
こんなにも多いのでしょうか?
春は、桜、鶯、春の小川、霞など、
春特有の美しい景色やモチーフが豊富で、
言葉に乗せやすく、
情景を鮮明にイメージ出来るからでしょう。
年中行事が数多くあり、
これらの年中行事に合わせて歌うことで、
季節の移ろいを感じ、
子供達に日本の文化を伝承するために
制作されたといったこともあります。
卒業、入学、就職など、
春は出会いや別れといった
人生の大きな節目となる季節なので、
この感情的な変化や感傷が
歌のテーマとして非常に適していることも
挙げられます。
そうして生まれた春を題材とした唱歌・童謡は
自然の美しさや温かさを歌ったものが多く、
また、シンプルで明るいメロディなので、
世代を超えて親しまれ、
長い間歌い継がれています。
唱歌『春が来た』
1.春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た
2.花が咲く 花が咲く どこに咲く
山に咲く 里に咲く、野にも咲く
3.鳥が鳴く 鳥が鳴く どこで鳴く
山で鳴く 里で鳴く、野でも鳴く
多くの人が、幼稚園・保育園・小学校などで
習った曲ではないでしょうか。
シンプルで親しみやすいメロディが特徴で、
春の暖かさと喜びを感じさせてくれる
曲として多くの子供達に親しまれ、
長い間広く歌い継がれている名曲です。
作詞作曲は、『故郷』『春の小川』『朧月夜』
『紅葉』などで知られる
作詞 高野辰之 (たかのたつゆき)、
作曲 岡野貞一 (おかのたいいち) のコンビによって
制作されました。
歌詞の内容
「春が来た」の歌詞は、
春の訪れを喜ぶ心情を歌った美しい楽曲です。
「春が来た」「花がさく」「鳥がなく」
という短いフレーズで、
日本の春の情景を表現しています。
『春が来た』は、
高野辰之が娘と散歩した際に見た、
東京代々木の風景を元に作られたと
言われています。
リハビリ・脳トレソング

『春が来た』は、
春の訪れをシンプルな言葉の繰り返しと
メロディで表現しているのが特徴の曲です。
覚えやすいことから、リハビリや脳トレとして
介護や保育の現場で活用されています。
高野辰之
高野辰之は、明治9(1876)年4月13日、
長野県水内郡永江村(現中野市)に、
父高野仲右衛門、母いしの長男として
生まれました。
厳しい父の下で躾けられた辰之は、
農業の手伝いをするかたわら、
土蔵に隠れて本をむさぼり読むという
向学の志に溢れた少年でした。
高等小学校を卒業後、
母校の永田尋常小学校の代用教員を務め、
その3年後には長野県尋常師範学校
(現・信州大学教育学部)に入学。
この頃から、千首余りの和歌を作っていたと
言われます。
26歳の時、作家・円地文子の父で、
日本の近代国語学の基礎を築いた言語学者の
上田萬年文学博士を頼って上京。
博士の許で国語、国文学の研究に没頭し、
高野の才能を見出した博士の推挙もあって、
「文部省国語教科書編纂委員」に選ばれて、
国文学者としての地歩を固めていくのです。
また国が初めて発行した国定音楽教科書
『尋常小学唱歌』を編纂し、
『春が来た』『春の小川』『朧月夜』『故郷』
『紅葉』などの文部省唱歌や全国の校歌、
その他、中山晋平作曲の「飯山小唄」なども
作詞しました。
明治後期からは『日本歌謡史』『江戸文学史』
『日本演劇史』を次々と書き上げ、
これらは、高野辰之の三大著作として
近代の国文学に大きな功績を残したと
言われています。
昭和3(1928)年には、『帝国学士院賞』を
授与されています。
またその卓越した歌謡研究の功績により、
昭和期に天皇皇后両陛下 (昭和天皇・香淳皇后) に
直接研究成果を説明する「御進講」(ごしんこう) を
複数回行っています。
その後、高野は、還暦を期に公職を辞し、
昭和18(1943)年には東京を離れて、
昭和9(1934)年に郷里近くの
長野県野沢温泉村に購入していた
別荘「対雲山荘」(たいうんさんそう) に移り住み、悠々自適な生活を送り、
昭和22(1947)年にその生涯を終えます。
現在、「対雲山荘」は
「高野辰之記念おぼろ月夜の館」となり、
彼の功績が伝えられています。
岡野貞一
岡野貞一は、明治から昭和初期に活躍した
作曲家、教育者です。
彼は明治11(1878)年、鳥取県に生まれました。
7歳で父親を亡くした後、岡山にいた姉の許で
キリスト教系の
「薇陽学院」(びようがくいん) に入学し、
米人宣教師アダムズに楽才を認められ、
音楽への道を志すようになります。
明治29(1896)年、東京音楽学校に入学、
卒業後は、この学校で教えながら
文部省唱歌の編集、作曲委員として、
『ふるさと』『春が来た』『春の小川』
『おぼろ月夜』『紅葉(もみじ)』『日の丸の旗』
『桃太郎』『夜の梅』『三才女』『七つの卵』
『紫煙る 夕やけ』『お日さまが見つけたもの』
『行く春』『銀杏散る』など多くの唱歌や
日本各地の校歌の作曲も数多く手掛けました。
音楽教育の発展に大きく貢献する一方で、
熱心なクリスチャンとして、42年間毎日曜日、
本郷中央教会で礼拝のオルガンを弾き、
聖歌隊を指導するなど信心深い方だったようで
感情を面に表すこともなく、
誠実な人格者でもあったようです。
大正12(1923)年に教授に昇任し、
昭和7(1932)年に退官。
昭和16(1941)年、日本大学附属病院で死去。
63歳でした。