
『どこかで春が』は、あちこちで生まれ始める
春の息吹が感じられる爽やかな童謡です。
どこかで春が
『どこかで春が』は、実業之日本社刊行の
大衆児童文学雑誌
『小学男生』(しょうがくだんせい) の
大正12(1923)年3月号に掲載された
百田宗治 (ももたそうじ) の詩に、
大正11(1922)年12月に草川信 (くさかわしん) が
曲をつけた童謡です。
平成19(2007)年、文化庁と日本PTA全国協議会に
「日本の歌百選」に選定されています。
ところで「春」をテーマをした童謡には、
『どこかで春が』の外にも
『春よ来い』や『春が来た』など、
多数あります。
『春よ来い』は春を待ちわびる歌で、
『春が来た』は完全に春が到来した状態なので
時系列的には、『どこかで春が』は
『春よ来い』と『春が来た』の間の時期の歌と
いうことになります。
歌詞
どこかで春が
百田宗治 作詞
草川 信 作曲
草川 信 作曲
一.どこかで「春」が 生まれてる
どこかで水が 流れ出す
二.どこかで雲雀 (ひばり) が啼いている
どこかで芽の出る音がする
三.山の三月 東風 (こち) 吹いて
どこかで「春」が生まれてる
『どこかで春が』の歌詞からは、
まだ寒い3月頃に、風や水の音、
鳥の鳴き声、芽が出る音と、
自然の息吹の中に
近づいてくる春の訪れを予感し、
冬から春に移り変わる喜びや
ワクワクとした期待を歌った作品です。
春が少しずつ生まれてきている様子を
「どこかで」という言葉で
情緒的に表現しています。
「どこかで春が生まれてる」では、
具体的に春が来た場所は分からなくても、
寒さの中に確かに春の気配を感じ取っている
様子が伝わってきます。

「どこかで水が流れ出す」では、
冬に凍っていた氷や雪が融けて水になり、
チョロチョロと流がれ出している音まで
想像してしまう。
「どこかで芽の出る音がする」の
「芽の出る音」は、
植物の命が芽吹く生命力を感じさせる描写で、
詩人の才能が発揮されている言葉です。
実際には「芽の出る音」はしないのですから。
「春」について
「春」
タイトルの春には、鉤括弧は付いていません。
ですが1番と3番の「春」には
鉤括弧で括ってあります。
なぜ鉤括弧が付いているのでしょう。
ここで歌われている「春」はまだ見えない、
想像の中の「春」なのです。
繰り返される「どこか」は詩人の中にあって、
そこではまだ水も流れ出ていないし、
雲雀も啼いていない、
芽の出る音もしていない、
何も起こっていない「どこか」なのです。
「東風」(こち)について
歌の後半の歌詞に「東風吹いて」とありますが
この「東風」(こち) とは
2月の終わりから北からの風が
少しずつ東の風に変わり、
春の訪れを感じさせる「春風」のことで、
俳句では「春」の季語です。
色々な語と結び付けやすく、
朝東風 (あさごち)、夕東風 (ゆうごち)、
強東風 (つよごち)、荒東風 (あらごち) の他、
梅を綻ばせる東風なら梅東風 (うめごち)、
桜なら桜東風 (さくらごち)、
雲雀が揚がる頃なら雲雀東風 (ひばりごち)
などの形で用いられています。
戦後、「東風吹いて」という歌詞が
小学生には難しいだろうからとのことで、
「春風吹いて」とか「そよ風吹いて」と変えて
音楽の教科書に乗せていた時期あった
そうです。
作詞者の百田宗治は、
「子供の詩は子供の視点・感性で感じたことや
日常を自由に言葉にした子供の言葉で」
とする児童自由詩を提唱していました。
それでも敢えて「東風」という言葉を
使っています。
「東風」(こち) と「春風」「そよ風」では
詩から受けるイメージが違いますから、
おそらく子供達に「東風」という言葉を教え、子供の感性をより豊かにしたかったのでは
ないでしょうか。
ですから、今の時代にはそぐわないという
理由もあるかもしれませんが、
「東風」の説明文を添えて、
原作のままそのままの形で
歌い継いで行って欲しいと感じます。
メロディ
この美しい曲は、作曲者の草川信が
愛する故郷の信州の春を思い浮かべて
作曲したものです。
楽譜を見ると、
単純な旋律が繰り返されるだけですが、
見事な構成になっています。
まず「どこかで「春」が 生れてる」と
テーマがすぐに歌い出されます。
作詞者の百田宗治がこの言葉をつかまえた時に
長く愛唱される運命が決まりました。
曲は、イ長調、四分の四拍子ですが、
途中三箇所、四分の二拍子の部分が
作られていています。
これでテンポを追い込む形となり
春がグングンと身近に迫って来るようで、
その試みは成功しています。
1番と2番は同じメロディーで、
「どこかで」を繰り返すことにより、
春のうきうきした楽しさが溢れる歌に
なっています。
そして3番の「山の三月 東風吹いて」では、
気分を変えて伸びやかに歌います。
この変化は見事で、
作曲者・草川信の才能が光っています。
最後は、また元の速さで、
もう一度テーマである
「どこかで「春」が生れてる」と
歌い納めます。
百田宗治の「春」に寄せる思いを
草川信は、メロディーの美しさで、
「春が生れる」様子を最大限に表現しました。
ドラえもん
「山おく村の怪事件」
両親の結婚記念日に何かプレゼントしたいと
考えたのび太くんはドラミちゃんに相談。
二人は「どこでもドア」で雪深い山おく村の
一軒の古民家にパパとママを招待。
パパとママはその場所を気に入って、
二人で『どこかで春が』を口ずさむのでした。
ところが・・・。
原作は「ドラえもん(7)」(てんとう虫コミックス)
第19話『山おく村の怪事件』に掲載。
TVアニメでは、昭和56(1981年4月1日)、
平成21(2009)年2月20日、令和3(2021)年2月6日
放送。
大衆児童文学
芸術重視の「赤い鳥」系
大正7(1918)年に、鈴木三重吉が
「子供達に本物の芸術を」という信念の下、
教訓的過ぎた当時の教育環境に異を唱えて
児童雑誌『赤い鳥』を創刊し、
芸術的児童文学 (童心主義) が誕生しました。
「大衆児童文学」の誕生
芸術重視の「赤い鳥」系に対し、
エンターテインメント性を重視した
娯楽性や物語性の高い子供向け小説
「大衆児童文学」は、
主に昭和初期から戦後にかけて普及しました。
『どこかで春が』が掲載された
『小学男生』(しょうがくだんせい)は、
実業之日本社が大正〜昭和初期に刊行した
小学生の男児向けの「大衆児童文学雑誌」
です。
姉妹誌に小学生の女児向けの『小学女生』も
ありました。
この『小学男生』『小学女生』は
『日本少年』『少女の友』などと並び、
当時の児童文学や漫画文化に影響を与えた
雑誌の一つとされています。
「大衆児童文学」の完成
『少年倶楽部』
中でも「大日本雄弁会 (現・講談社)」が
第一次世界大戦の好景気に乗って
大正3(1914)11月に創刊した『少年倶楽部』は、
青少年達を夢中にさせ、
後の知識人や読書家達の礎を築きました。
「大日本雄弁会 (現・講談社)」の創立者・
野間清治 (のませいじ) は教師の出で、
余りにも禁欲的な学校教育への批判も込めて
「面白くて為めになる」
子供のための雑誌をという狙いから
『少年倶楽部』を創刊しました。
また大正12(1923)年には、少女向け雑誌の
『少女倶楽部』を創刊しています。
『少年倶楽部』は
大正期には余り振るいませんでしたが、
大正14(1925)年に挿絵担当の画家の逝去で
部数が4割減少する危機に見舞われた際、
野間清治の「雑誌は活字で売るものだから、
よい読み物を書く作家を捜せ」という指示で、
佐藤紅緑を皮切りに
吉川英治、高垣眸、大佛次郎といった、
新たに起こって来た「大衆文学」の作家達の
少年向け長編小説を揃えると、
立身出世を夢みる青少年達に歓迎されて、
大きく部数を伸ばしました。
そしてここに「大衆児童文学」という
ジャンルが完成しました。
昭和初期の最盛期には
発行部数100万部を称していました。
昭和前期には、実に日本の雑誌売り上げ数の
8割を講談社の出版物が占め、野間清治は
「日本の雑誌王」と呼ばれました。
「円本 (えんぽん) ブーム」が後押し
関東大震災 (大正12(1923)年) により、
出版業界は深刻な不況に陥りました。
そこで出版社は社運を賭けて
1冊1円の全集「円本」(えんぽん) を発案すると、
大ブームを巻き起こし、
日本の読書人口を急増させ、
読書文化の大衆化が加速化しました。
「円本」(えんぽん) とは、大量生産による、
一冊一円の廉価な、薄利多売の、
予約制全集・叢書のことです。
当時の一冊一円は、これまでの書籍に比べ
非常に廉価であったことから、
出版社の予想を遥かに上回る何十万冊という
申し込みがあったそうです。
『日本児童文庫』全76巻や、
興文社・文藝春秋社『小学生全集』全88巻
といった様々なジャンルに渡る
総合的な児童文化叢書も出版され、
子供の本も一気に大衆化の時代を迎えました。
講談社の大衆的な廉価な児童雑誌
『少年倶楽部』『少女倶楽部』も
画家達の挿絵に彩られた
吉川英治や江戸川乱歩、佐藤紅緑らの
冒険・探偵小説が人気を博し、
部数を伸ばしました。
また島田啓三(「冒険ダン吉」)や
田河水泡(「のらくろ」)の漫画も
人気がありました。
女子教育が普及する中で、
吉屋信子「花物語」を連載した『少女画報』や
『少女の友』などの少女雑誌もよく読まれ
ました。
学齢前から小学校低学年の子供達を読者とする
「幼年童話」も書かれるようになりました。
作詞・百田宗治(ももたそうじ)
作詞者の百田宗治は、明治26(1893)年1月25日、大阪市西区新町通一丁目(現・西区新町一丁目)に商人の子として生まれました。
父親が出生前に他界したため、母親の住む家や
家督を相続した十歳年上の兄の家、
伯父などの親類の家を行き来しながら
育ちました。
明治39(1906)年頃から
『少年世界』に短文の投稿を始めると、
更に『少年』『日本少年』『中学世界』など
多くの雑誌に投稿、文章・新体詩・葉書文・
短歌・俳句など色々なジャンルに渡って投稿し
毎号のように掲載されました。
大正8(1919)年2月に上京し、
総合雑誌『解放』の編集者となり、
それ以後は、雑誌の編集出版にも関わり、
自分の詩集、句集なども次々に発表しました。
大正9(1920)年頃から盛んになる
児童自由詩に大きな関心を示し、
大正12(1923)年の『小学男生』三月号に
『どこかで春が』が発表されました。
その後は児童文学の評論家として著名となり、
昭和14年5月から文部省図書推薦委員、
昭和15年には国民学校教科書調査嘱託に、
戦後は、児童詩や綴り方(作文)の指導と
教科書編纂に力を注ぎました。
そして昭和30(1955)年12月12日、
肺癌のために62歳で亡くなりました。
独学で自己の道を拓き、波乱に満ちた人生
でした。
平成6(1994)年、孫の仁氏が
南房総市高崎の寿薬寺に、
『どこかで春が』(宗治の直筆)の歌碑を
建立しています。
ところで百田宗治は、生涯を通して
童謡との関わりは薄かったようです。
北原白秋ら雑誌『赤い鳥』(赤い鳥社)の仲間は、
百田の存在を知っていましたが、
声を掛けなかったからです。
(北原白秋と確執があったとかないとか…。)
白秋は華やかに次々新作を発表したのに対し、
百田は、『赤い鳥』を一歩進めた
「児童生活詩」を唱え、
児童詩の分野で活躍しました。
そして晩年は、伝統的な俳句の精神を
重んじたそうです。
草川信
草川信 (くさかわしん) は、
作曲家でヴァイオリニストです。
「赤い鳥運動」に作曲家として参画し、
『夕焼けこやけ』『汽車ポッポ』
『ゆりかごの歌』『風』『春の歌』
『どこかで春が』『みどりのそよ風』
『お山の大将』などの童謡の傑作を
いくつも世に送り出しました。
草川信は、明治26(1893)年2月14日に、
長野県松代で男4人兄弟の末っ子として
生まれました。
東京音楽学校でオルガンを学び、
オルガニストとして音楽教育家として活躍した
13歳年長の長兄・宣雄の影響を受け、
音楽の道を選んだようです。
長兄は洗礼を受けていたことから、
草川信も少年時代、
近くにあった日本キリスト協会に通い、
賛美歌を歌う経験を楽しんだようです。
「生い立ちの記」の中で
「日本キリスト協会のクリスマスには
ほとんど毎年の様に
誘われるままに行って見た。
兄さんもこの教会の信者であった為、
帰省されると日曜ごとに礼拝に行った。
冬の休みに帰ると、よくクリスマスに
独唱をしたり、オルガンの独奏等をした。
…賛美歌だけはとても好きになってきた。
…耶蘇教は嫌いだが、
賛美歌は好きだという事なのだ。
教会音楽が好きになったとう事なのだ。」
と書いています。
早世した三兄・友忠も東京音楽学校で
ヴァイオリンを学んだことから、
末っ子の信も東京音楽学校へ進学して
ヴァイオリンを中心に学びました。
(なお次兄・正義は植物学の道に進みました。)
大正6(1917)年の東京音楽学校卒業後は、
母校の嘱託、都内の学校教師を務める他、
主席ヴァイオリニストとして活躍しました。
大正10(1921)年からは、
児童雑誌『赤い鳥』の音楽欄を担当し、
投稿作品の評者をしながら、
童謡の詩に作曲をしました。
中でも中村雨紅作詞の「夕焼け小焼け」は、
今なお広く愛唱されています。
童謡の他にも、声楽曲、合唱曲、器楽曲など、
多くの名曲を残しましたが、
戦争で長男を亡くし、失意のうち、
昭和23(1948)年9月20日に55歳で没しました。
長野市西長野の往生寺境内に
「夕焼小焼」の歌碑が、
茶臼山自然植物園(恐竜公園) 童謡のひろばに、
「どこかで春が」「緑のそよ風」の歌碑が
長野電鉄松代駅の駅前には
「汽車ポッポ」の歌碑があります。