『春よ来い』(はるよこい) は、誰もが良く知る、
春の訪れを待ち侘びる子供の
愛らしい様子を描いた
自然と笑顔が生まれる心優しい童謡です。
春よ来い
作詞:相馬御風
作曲:弘田龍太郎
作曲:弘田龍太郎
春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている
春よ来い 早く来い
おうちの前の 桃の木の
蕾もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている
『春よ来い』は、
相馬御風 作詞、弘田龍太郎 作曲の童謡で、
児童雑誌『金の鳥』の大正12(1923)年3月号で
初めて発表されました。
歩き始めた「みいちゃん」は、
作詞を手掛けた相馬御風の一人娘の文子さんが
モデルと言われています。
みいちゃんこと相馬文子 (そうまあやこ) さんは
相馬御風の長女として大正10(1921)年
2月20日、新潟県に生まれました。
昭和16(1941)年、日本女子大学国文科卒業後、
日本近代文学研究者として、
東京帝大史料編纂所に勤め、
戦後は日本女子大付属図書館司書として
昭和57(1982)年まで務めました。
退職後も、日本近代文学館評議員、
同図書資料委員会幹事として活躍しました。
著書には『相馬御風とその妻』『司書半生』
『若き日の相馬御風 文学への萌芽』が
あります。平成21(2009)年没。
御風は新潟県糸魚川に生まれ、
早稲田大学進学のため上京後は、
作詞家・詩人・歌人・随筆家として活躍しました。
24歳の時、「♪ 都の西北 早稲田の杜に」 で始まる
早稲田大学の校歌の作詞をしています。
32歳の時、生まれ故郷の新潟県糸魚川に帰り、
主として良寛の研究に携わった他、
童話・童謡を発表し続けました。
帰郷の5年後、大正10(1921)年2月20日に
歌のモデルとなった女の子が生まれます。
曲が作られたのは、大正12(1923)年1月20日
という記録が残っていますから、
「みいちゃん」はその時はおそらく1歳数か月、
歩き始めて間もない頃です。
よちよち歩きの愛らしい姿が
作詞のヒントになったのでしょう。
当時の童謡には珍しく
「じょじょ(=草履)」とか
「おんも(=外)」といった幼児語が使われ、
「歩きはじめた」などの卓越した描写により、
長く厳しい冬から解放される春の訪れを待つ
雪国の人々の気持ちが
童心を通して描かれています。
それに加えて、『春よ来い』からは、
「みいちゃん」の健やかな成長を願う
親心が伝わってきます。
児童雑誌
明治児童文学「御伽噺」
巌谷小波 (いわやさざなみ) は、明治24(1891)年、
国内で初めて児童のための創作文学
『こがね丸』を発表し、
近代的な児童文学の先駆けとなりました。
『日本昔噺』『日本お伽噺』『世界お伽噺』
といった書物を次々に刊行しました。
巌谷は、児童文学の執筆活動と並行して
これらの御伽噺を口で語り聞かせる
「口演童話」も推進し、
全国の子供達に親しまれました。
明治21(1888)年は最初の少年雑誌『少年園』、
明治28(1895)年には
巖谷小波が主筆を務めた『少年世界』、
明治37(1904)年は大阪で『お伽絵解こども』、
明治39(1906)年には博文館が『幼年画報』、
その後も『小国民』『日本少年』『幼年の友』
などの児童雑誌が次々と創刊されました。
そしてこれらの雑誌には、尾崎紅葉、森鴎外、
坪内逍遥、幸田露伴、落合直文などの文豪達も
執筆しました。
「赤い鳥」運動、
「童話」の時代
巌谷を中心とする明治の児童文学は
「御伽噺」(おとぎばなし) と呼ばれましたが、
大正期になると、子供の文学は
「童話」の時代になっていきます。
大正7(1918)年7月、夏目漱石門下の俊才・
鈴木三重吉 (すずきみえきち) が
児童雑誌『赤い鳥』を創刊しました。
子供達の豊かな感受性や想像力を育む
芸術性の高い児童文学の必要性を痛感していた
鈴木三重吉は、『赤い鳥』を通して、
美しい言葉や情感豊かな表現、
そして子供達の心を捉える
真に芸術的で純麗な童話と童謡を
提供することを目指し、
「赤い鳥運動」を推進しました。
鈴木三重吉は『赤い鳥』の創刊に際して、
「童話と童謡を創作する最初の文学運動」 という
書を配布し関係者の理解と協力を求めました。
その中で「(当時の) 子供が歌てゐる唱歌なぞも
芸術家の目からみると、実に低級な愚かなもの
ばかりです」と厳しく批判し、それに代わる
「芸術として真価ある純麗な童話と童謡」が
必要だと訴えています。
『赤い鳥』に刺激を受けて、
『金の船 (後に『金の星』と改題)』『童話』
『おとぎの世界』『コドモノクニ』など、
子供のための童話や童謡を掲載した児童雑誌が
次々と刊行されました。
そしてこれらの児童雑誌を舞台に、
芥川龍之介、有島武郎、宇野浩二らの
文壇作家が童話を書き、
小川未明や坪田譲治らの童話作家や、
北原白秋、西条八十、野口雨情らの童謡詩人が
数多くの作品を書きました。
因みに『赤い鳥』の創刊号では、
芥川龍之介が初めての童話『蜘蛛の糸』を
発表しています。
また『赤い鳥』は
単に読み物を提供するだけでなく、
子供達の創作活動を奨励する場でもあり、
読者からの詩や童話、絵画などを
掲載する欄を設け、
子供達の表現力を育むことにも貢献しました。
童謡の誕生
日本では、子供達が歌う歌といえば
「わらべうた」が口伝により伝承され、
「わらべうた遊び」を通して歌い継がれて
きました。
明治に入ると、政府が西洋音楽を日本に導入し
子供達が受け入れやすいように工夫した
「唱歌」を学校教育の柱として広めました。
ですが「唱歌」は、当時の日本の民間にある
自然な生活の歌(民謡・俗曲)とはかけ離れ、
ややもすると徳育重視的な歌として、
子供達が好んで学校外で歌う歌ではないとも
言われました。
そこで大正期に入ると、
『赤い鳥』などの児童雑誌を舞台に、
児童文学としての詩と音楽を統合・統一して
童心を歌い、自然を歌い、風習を歌い、
また動物を擬人化して歌い、
伝承物語のあらすじを歌った「童謡」が
誕生しました。
なお童謡の第1号は、
大正8(1919)年『赤い鳥』5月号に掲載された
『かなりや』(西條八十 作詞・成田為三 作曲)
でした。
当時の著名な作家・詩人・作曲家が
新しい感覚で創作した童謡は、芸術性に富み、
子供達への情操教育としても活用され、
レコード盤や蓄音機、またラジオ放送を通して
全国に瞬く間に広がりました。
代表的な詩人には、北原白秋・西条八十・
野口雨情・サトウハチローなど。
作曲家には山田耕筰・中山晋平・弘田龍太郎
などがいます。

童画の誕生
『赤い鳥』を始めとした児童雑誌は、また、
美しい挿絵も大きな魅力の一つでした。
また彩られた絵雑誌も次々に生まれました。
特に大正11(1922)年に鷹見久太郎により
絵を重視した編集の絵雑誌
『コドモノクニ』が刊行されると
子供のためのイラストレーションは
それまでにない華やかな時代を迎えます。
岡本帰一、川上四郎、清水良雄、武井武雄、
初山滋、深津省三、村山知義の7名は
「日本童画家協会」を結成し、
童話・童謡の付属物と考えられていた絵を
一つの芸術として独立した
子供のための絵画として「童画」を確立すべく
展覧会の開催や作品集の刊行を行い、
童画界の発展に尽くしました。
「童画」とは、子供向けの絵画で、
大正時代中期に童話や童謡などの
児童文学の台頭の影響を受けて成立した
児童文化に属する絵画です。
武井武雄が大正14(1925)年の自分の個展で、
初めて用いた言葉です。
「大正ロマン」を代表する抒情画家の
竹久夢二、蕗谷虹児、高畠華宵らは、
『少女画報』『少女の友』『令女界』
などといった少女雑誌で人気を集めました。
児童雑誌『金の鳥』
ところで ♪ 童謡『春よ来い』が発表された
児童雑誌『金の鳥』は、
仏教を一般に広めるために出版活動をしていた
飯塚哲英により大正11(1922)年4月1日に
金の鳥社より創刊されました。
飯塚哲英は、大正4(1915)年に曹洞宗大学
(現・駒澤大学)を卒業した後、
大正6(1917)年に出版社・中央仏教社を立ち上げ、
『中央仏教』や『大乗禅』といった仏教雑誌や
仏教・禅に関する書籍を多数編集・発行する他、
「飯塚夢袋」名義で著書を出してもいます。
また、金の鳥社を立ち上げて、
雑誌『家庭の友』や児童雑誌『金の鳥』に
児童向けの書籍を発行しています。
児童雑誌『金の鳥』は、大正11年4月1日、
金の鳥社より創刊されました。
飯塚哲英は、創刊の趣旨として
「『仏教童話』は宗教的色彩が濃すぎるので、
『質実剛健なる純日本的精神の涵養に
資すべき内容とを有する児童雑誌』を
企画した」と記しています。
内容は、童話、唱歌、投稿欄と
この時期の童話雑誌の標準的構成です。
創刊号の一部を紹介すると、
「英国皇太子歓迎の歌」(巌谷小波詞/
野口米次郎英訳/弘田龍太郎曲)、
「太鼓腹の張吉」(漫画、岡本一平)、
不思議な国の話(童話、室生犀星)、
「無憂樹の花」(童話、岸辺福雄)、
「三人兄弟(少年小説、山中峰太郎)、
「猫と人形」(少女小説、長谷川時雨)、
「貧乏な歌」(ロシア童話、秋田雨雀)
となかなかの執筆陣が並んでいます。
作詞・相馬御風
明治16(1883)年7月10日、新潟県糸魚川で、
糸魚川町長も務めた父徳治郎と母チヨ
代々社寺建築を生業とした旧家・相馬家の
一人息子として生まれました。
多忙だった父と病気がちだった母親と祖母と
暮らしていました。
やがて母も祖母も亡くなったことから
孤独な少年期を過ごしたといいます。
御風は幼時より文才に秀で、
小学校時代には「窓竹」、
中学からは「御風」と号して、
既に短歌を詠んでいます。
早稲田大学に進学する少し前には、
与謝野鉄幹の新詩社に入会し、
『明星』の同人にまでなっています。
早稲田大学進学と同時に上京すると、
石川啄木、野口雨情らと交流し、
作詞家、詩人、歌人、随筆家として活躍します。
岩野泡鳴らと「東京純文社」を結成し、
雑誌『白百合』を発刊し、
浪漫主義文芸の進展と詩歌の革新を呼びかけ、
明治38(1905)年には同社から
処女歌集『睡蓮』を出版しています。
明治39(1906)年に早稲田大学を卒業すると、
早稲田文学社に入り
『早稲田文学』の編集を担当し、
当時、全盛を極めた自然主義文芸運動の
先鋒として、文芸評論の面で活躍しています。
また三木露風、野口雨情らと
「早稲田詩社」を設立し、
口語自由詩運動を進めました。
明治40(1907)年には
早稲田大学創立25周年に際し、
大学や恩師に委嘱されて校歌「都の西北」を
作詞しています。
大正元(1912)年には、
トルストイの人道主義に傾倒し、
『戦争と平和』など多数のロシア文学作品の
翻訳本を出版しています。
大正3(1914)年には、恩師・島村抱月が
トルストイの『復活』を上演するに当たり、
ヒロインのカチューシャに歌わせる劇中歌
『カチューシャの唄』の作詞を担当しました。
『カチューシャの唄』は、
作曲家中山晋平のデビュー作で、
女優松井須磨子が歌い、
日本の流行歌第一号となりました。
ところが大正5(1916)年、33歳の時に
著作『還元録』を発表して糸魚川に帰郷。
その後は、ライフワークの良寛研究や
詩・童話の創作に携わりました。
現在も親しまれている『春よ来い』の他にも、
たくさんの名曲の作詞も手掛けています。
また生涯で7千首以上と言われる歌を詠み、
短歌結社「木蔭会」を結成して
郷土の歌人の育成にも努めました。
また文芸雑誌『野を歩む者』を通じて、
故郷の自然を讃え愛しんでいます。
変った所では、糸魚川で翡翠の再発見に
大きく貢献しています。
糸魚川の風土を愛した御風は、
『万葉集』の「奴奈川姫伝説 」をヒントに
糸魚川でのヒスイ産出を推測し、
地元の人(伊藤栄蔵氏)に働きかけ、
昭和10(1930)年8月に小滝川で
10数個の翡翠を発見したのです。
「奴奈川姫」は『古事記』や『出雲風土記』
などの古代文献に登場する
高志国(現在の福井県から新潟県)の姫で、大国主命との婚姻や、諏訪の神・建御名方命の母神である伝承が有名です。
『万葉集』では直接「奴奈川姫」の名は
出ませんが、姫川を指す「奴奈川」の地名が
詠み込まれた歌があり、
大国主命の熱い求婚の歌の一部です。
沼名川 (ぬなかわ) の底なる玉
求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも
あたらしき君が 老ゆらく惜しも
求めて得し玉かも 拾ひて得し玉かも
あたらしき君が 老ゆらく惜しも
沼名川の底にある玉、
探し求めて手に入れた玉よ、
拾ってもっている玉よ。
その如く大切なあなたの
老いていくのが惜しいよ。
探し求めて手に入れた玉よ、
拾ってもっている玉よ。
その如く大切なあなたの
老いていくのが惜しいよ。
昭和25(1950)年5月7日、突然脳溢血で倒れ、
翌8日逝去。満66歳でした。
弘田龍太郎
作曲者の弘田龍太郎は、
大正時代の「赤い鳥」の
童謡運動の担い手の一人である他、
歌曲やオペラの作曲家としても高名であり、
ラジオの子供番組や合唱指導者としても
活躍しました。
弘田は、明治25(1892)年6月30日、
高知県安芸市土居に生まれました。
父の正郎は教育者で、
母の総野(房)は一絃琴の名手で、
龍太郎の音楽的才能は
母から受け継がれたものと言われています。
父の転勤に従って3歳の時高知を離れ、
千葉師範学校付属小学校、
三重県立第一中学校を卒業、
明治43(1910)年、東京音楽学校
器学部ピアノ科に入学し、本居長世に師事。
在学中には歌曲『昼』を発表しています。
また作曲者不詳となっていた
文部省唱歌『鯉のぼり』も
弘田が在学中に作曲したものと言われています。
大正3(1914)年、卒業と同時に母校の助手となり、
同年11月には東京音楽学校の同級生で
詩人・高安月郊の長女・百合子と結婚しました。
大正6(1917)年、作曲部が新設されると再入学。
この頃から本格的な作曲活動を始めました。
宮城道雄を中心とした
「新日本音楽運動」に参加して、
琴・三味線を主体とした日本舞踊界に
洋風の伴奏を取り入れました。
初代・若柳吉三郎の舞踊曲
「柳」「姥捨山」「雪の幻想」や
歌舞伎の六代目・尾上菊五郎の舞踊曲
「生贄」「刺客」を作曲、
振り付けまでも指導し大好評を博しました。
その後、北原白秋を中心とした
童謡運動「赤い鳥運動」にも参加し、
多くの名曲を次々と発表し、
童謡・歌手作家としての地位を確立しました。
弘田が生涯に作曲した童謡や歌曲、校歌等は
千数百曲にも及びます。
中でも「靴が鳴る」「春よ来い」「浜千鳥」
「金魚の昼寝」「雀の学校」「叱られて」
「お山のおさる」「鯉のぼり」「雨」
「小諸なる古城のほとり」
「千曲川旅情のうた」などは
今でも親しまれ、歌い継がれています。
昭和3(1928)年、文部省在外研究員として
ワイマール共和国時代のドイツに留学し、
ベルリン大学で作曲とピアノを研究。
1年後に帰国すると
母校の教授に任じられましたが、
作曲に専念したいという理由から2か月で辞し、
その後は、仏教音楽「仏陀三部作」、
オペラ「西浦の神」などを発表し、
高く評価されました。
昭和14(1939)年からは、作曲の傍ら、
ラジオの子供番組の指導や
児童合唱団の指揮指導にも当たりました。
戦後の昭和21(1946)年には
日本音楽著作権協会監事に就任。
大学・短大で教鞭を執る一方で、
長女夫妻が創設した「ゆかり文化幼稚園」の
初代園長となり、
音楽を幼児教育に積極的に取り入れ、
放送講習会、リズム遊びなどの指導に
当たりました。
昭和27(1952)年11月17日、
病のため東京本郷弥生町の自宅にて永眠。
享年60歳でした。
なお弘田家先祖代々の土地で、
弘田が生まれ、3歳までを過ごした
高知県安芸市では、彼の業績を偲んで、
昭和53(1978)年から「童謡の里づくり運動
(童謡の古里運動)」を進め、
市内の名所や旧跡に、
弘田の作曲した童謡の記念碑を
10基建立しています。
なお「春よ来い」の記念碑(6号碑)は、
岩崎弥太郎生家前(高知県安芸市井ノ口甲)に
昭和61(1986)年に設置されています。