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3月2日「遠山の金さんの日」

 
3月2日は「遠山の金さんの日」です。
 
「遠山の金さん」と呼ばれた
遠山左衛門尉景元とおやまさえもんのじょうかげもとが、
天保11(1840)年のこの日(3月2日)、
天保の改革を主導した
老中・水野忠邦の抜擢により、
北町奉行に任命されたことに由来しています。
 
 
因みに2月3日は「大岡越前の日」です。
享保21717)年のこの日、大岡越前守忠相が
南町奉行に就任したことに由来します。
「大岡裁き」で有名であるが、
19年間の在任中の裁判は3回だけで、
そのうち忠相が執り行ったのは
1回だけでした。
 
 
遠山の金さんは、実在の人物で、
遠山左衛門尉景元(とおやま さえもんのじょう かげもとと言いました。
 
遠山家に養子入りした父の景晋は、
養子入りした後で養父に
実子・景善が生まれたため、
その子を養子(遠山家の跡継ぎ)とし、
景元の存在をしばらく秘匿したと言います。
 
こうした複雑な状況から、青年時代の景元は、
家を出て無頼の徒と交じり放蕩に耽ったとも
言われています。
 
 
結局、文政7(1824)年に養父の実子・景善が没し、
同12(1829)年には実父の景晋が隠居したため、
景元は家に戻って家督を相続しました。
 
33歳まで金さんが何をしていたのか、
実際は何も分かってはいませんが、
父の景普が優秀で出世したことから
景元も恩恵をあずかって、小納戸、
小普請奉行、作事奉行、勘定奉行を経て、
天保11(1840)年には町奉行(北町奉行)と、
出世コースを突き進みました。
 
 
当時は老中水野忠邦が主導した
「天保の改革」の時代。
強引に改革を実現しようとする
老中・水野忠邦や目付・鳥居耀蔵 (とりいようぞう) らとは対立して一旦は大目付に転じますが、
弘化2(1845)年に再び町奉行 (南町奉行) に
なりました。
同じ人物が町奉行に再任されるのは
初めてのことだったそうです。
嘉永5(1852)年3月、60歳で辞職しました。
 
景元は、「天保の改革」の一部には賛成し、
「分不相応の贅沢」と「奢侈の禁止」を
命令していて、風俗取締りの町触を出したり、
寄席の削減を一応実行しているなどしました。
しかし、町人の生活と利益を脅かすような
極端な法令の実施には反対しました。
 
 
実は景元が実際に下した判例は、
ほとんど残っていません。
江戸幕府では『御仕置例類集おしおきれいるいしゅう』という
裁判記録がありましたが、
景元が北・南町奉行を務めていた時期のものは
焼失してしまっています。
 
ですが、天保12(1841)年に
将軍臨席の下で模擬裁判を行い評価を受ける
「公事上聴」(くじじょうちょう) という儀式、
景元は訴訟を見事に裁き、異例にも、
将軍から直々にお褒めの言葉を賜った
そうです。
 

 
北町奉行の職にあった頃には、
時の老中・水野忠邦に意見書を提出し、
私娼 (ししょう) の刑の短縮を申し出ました。
水野はこの意見を採用し、減免しました。
 
また水野が鳥居の進言を受けて
芝居小屋を廃止しようとした際はこれに反対し
浅草猿若町への小屋移転だけに留めました。
更に町奉行に戻った時も、
寄席や床見世(現在の露店)を復興させ、
大衆の喝采を浴びたといいます。
 
こうしたことから景元に感謝した関係者が
しきりに景元を賞賛する意味で、
『遠山の金さん』ものを上演し、
「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を
作り上げていったようです。
 
 
 
 



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