
小野篁(おののたかむら)とは
小野篁(おののたかむら)は
平安時代前期の政治家であり、学者であり、
歌人でもあります。
小野氏の出身
飛鳥時代に遣隋使として活躍した
小野妹子らを排出した小野氏の出身で、
藤原純友の乱で功を挙げた小野好古 (よしふる) 、
日本一の書家とされ、
「三蹟」の一人でもある小野道風 (とうふう) 、
日本一の美女とされる小野小町の
祖父に当たります。
「三蹟」(さんせき)
書道の能書家として
平安時代中期(10世紀頃)に活躍した
小野道風、藤原佐理、藤原行成の3名を指す。
博識多才
小野篁は嵯峨天皇に仕えた有能な公卿ですが、
博識多才で、
「漢詩は白楽天、書は王羲之父子に匹敵する」
と言われたほどでした。
『古今和歌集』には6首が採用されていて、
『経国集』『和漢朗詠集』などにも作品を残し、
書家としても知られ、
『令義解』の編集にも携わっています。
『宇治拾遺物語』巻三「小野篁広才事」には、
次のように記されています。
今は昔、小野篁といふ人おはしけり。
嵯峨の帝の御時に、内裏に札を立てたりけるに
無悪善と書きたりけり。
帝、篁に、「読め」と仰せられたりければ、「読みは読み候ひなん。
されど、恐れにて候へば、え申し候はじ」
と奏しければ、
「ただ申せ」と、たびたび仰せられければ、
「さがなくてよからんと申して候ふぞ。
されば、君を呪ひ参らせて候ふなり」
と申しければ、
「おのれ放ちては、たれか書かん」
と仰せられければ、
「さればこそ、申し候はじとは申して候ひつれ」
-現代語訳-
今となっては昔のことですが、
小野篁という人がいらっしゃいました。
嵯峨天皇の御代、御所に札を立てたのですが、
(そこには) 無悪善と書いてありました。
天皇は篁に「(立て札を)読みなさい」
(篁は)「読むことは読みましょう。
しかし、恐れ多いことでございますので、
申し上げることはできません」と奏上したので、
(天皇は)「とにかく申せ」
と繰り返し何度もおっしゃったので、
(篁は)「さが (嵯峨天皇) がなければ、
(世の中は) 良くなるのに」と申し上げたので、
(天皇が)「(札の内容がわかるのだから)これはお前を差し置いて、誰が書くというのだろうか、
いや、お前以外におるまい」とおっしゃったので
(篁は)「(犯人と疑われるから) ですからこそ、
(読めるけどその内容は) 申し上げませんと
申したのでございます。」
この話には続きがあって、
次に嵯峨天皇が、
「それなら『子子子子子子子子子子子子』は
何と読む」と聞いたところ、
「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」
(ねこのここねこ、ししのここじし)
と答えたことで、天皇の怒りは解けて、
上記の件は許してもらえたとか。
ただ当時、嵯峨天皇は、篁が武芸に夢中で
学問を顧みなかったことを
”父に似ぬ子”と慨嘆していたのだそうです。
野狂(やきょう)
小野篁は、
身長六尺二寸 (約188㎝) と大男だったようで、
文武両道で才能に長けたが奇行が多く、
直情径行で奔放な性格であったことから
粗野と小野を兼ねて
「野狂」(やきょう) とも称されました。
承和元(834)年には、遣唐副使となったものの、
船舶のことで大使の藤原常嗣(つねつぐ)と争い、
「西海謡」(さいどうよう)という
遣唐使の事業を風刺する漢詩を作り、
更には病と称して渡航しなかったため、
嵯峨上皇の怒りに触れて
隠岐に配流されるという辛酸を味わうことにもなりました。
「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよあまのつり舟」という
『小倉百人一首』に採られた彼の和歌は、
隠岐に配流される時に詠んだものと
伝えられています。
しかし、その才を惜しまれ、
2年後の承和7(840)年には帰朝、
陸奥守、刑部大輔、蔵人頭などを歴任し、
最終的には参議(宰相)にまで
登りつめています。
閻魔王宮の役人
このようなことがあったため、
小野篁は超人的な存在として
畏敬の目で見られていたようです。
昼間は謹厳実直な官僚として
朝廷に出仕しながら、
夜になると冥界の閻魔庁に勤めていた
閻魔王宮の役人という
奇怪な伝説の持ち主でもありました。
例えば『今昔物語集』には次のような話が
記されています。
右大臣・藤原良相 (よしみ) はかつて、若き日の
篁の窮地を救ってあげたことがあったのだが、
その良相が重い病の亡くなり、冥府に下って
閻魔王宮で裁かれることになったところ、
驚いたことにそこに篁がいる。
しかも篁が閻魔王に
「この人は心正しい人なので、
どうかお許し下さいますように」と言って
くれたおかげで、良相は冥府から戻され、
生き返ることが出来た。
この世に帰って元気になった良相は、
参内の折に篁と会ったので、
密かに冥府でのことを訪ねた。
すると篁は笑みを浮かべながら、
「どうかあのことは
決して口外しませんように」と言う。
良相は篁が本当に閻魔王宮の臣であることを知り、彼を一層恐れた。
この話は自然と世間に漏れ、
篁は閻魔王宮の臣として現世と冥界の間を
行き来する人なのだと、畏れ敬われたー。
六道参り
今も冥界への入口と信じられている
鳥辺野の「六道の辻」がある
「六道珍皇寺」(ろくどうちんのうじ) にある
本堂前の井戸は「冥途通いの井戸」と呼ばれ、
小野篁が、夜 、冥府に通うために、
そして朝になると、化野の「福正寺」の井戸を
出口に使っていたという伝説が生まれました。
「福正寺」は明治時代に廃寺となり、
明治13(1880)年に
「清凉寺(嵯峨釈迦堂)」の境内にある
「嵯峨薬師寺」に合併されました。
「嵯峨薬師寺」には、
安置されています。
「生六道地蔵尊」は、
地獄で猛火を受けて
苦しんでいた亡者を救うために、
身代わりとなって焼かれている
地蔵菩薩の姿に心を打たれた小野篁が、
自ら彫刻したものと言われています。
昭和35(1960)年には、
冥界からの出口と伝えられる七つの井戸が
「福正寺跡」と見られる
薮の中から発見されましたが、
その後、埋め立てられてしまったために、
現在、井戸は残っていないそうです。
なお「六道珍皇寺」には、
篁が「冥界通いの井戸」の他にもうひとつある
と伝えられていましたが、
境内に隣接する場所(旧境内地)から、
平成23(2011)年になって見つかりました。
篁が冥界からの帰路の出口に使ったと伝えられ、
「黄泉がえりの井戸」と呼ばれていたものでした。
水深100m以上はある深い井戸で、
今も清らかな水が湧き出ています。
六地蔵巡り






時代が下り、平安時代末期。
この頃、「末法思想」が広がり、
人は死んだら地獄に行くしかないと
信じられるようになると、
地獄に行った人を救ってくれる
「地蔵菩薩信仰」が広がりました。
「地蔵菩薩信仰」とは、
「お地蔵さん」は
地獄では「閻魔大王」に変身して、
悪いことをしていない人を救ってくれる
という信仰です。
そこで、小野篁が登場する訳です。
小野篁は地獄で出会ったお地蔵さんの姿を
再現して六体の木造の地蔵菩薩像を作り、
宇治の「六地蔵」という所にあるお寺に
安置したという伝説が生まれました。
(「六地蔵」の地名はこれに由来します)
その後、その六体のお地蔵さんを
京都に出入りする
街道沿いにあるお寺に分けて
悪いものが京の都に入って来ないように、
守ってもらうように安置されて、
その六体のお地蔵さんをお参りする風習が
広がりました。
これが8月22日・23日に今でも行われている
「六地蔵めぐり」の始まりです。
≪参考≫ 地蔵盆

