千灯供養(せんとうくよう)
東山の「鳥辺野」(とりべの) 、
洛北の「蓮台野」(れんだいの) と並ぶ
平安時代以来の墓地であり、
風葬の地として知られる 「化野」(あだしの) にある
「化野念仏寺」(あだしのねんぶつじ) では、
例年8月の最終土曜日・日曜日に、
蝋燭を灯して数千の無縁仏に供養する
「千灯供養」(せんとうくよう) が行われます。
令和7(2025)年8月30日 [土]・31日 [日] です。
「千灯供養」(せんとうくよう) は、
毎年 「地蔵盆」 (じぞうぼん) の夕刻から行われます。先ず地蔵堂前で法要が行われ、
その後、賽の河原に模した「西院の河原」に
祀られている数千体の無縁仏(石塔・石仏)に
ロウソクを灯して供養します。

20年程前からは、
「千灯供養」と地域の「地蔵盆」に合わせて、
「愛宕古道街道灯し」(あたごふるみちかいどうとぼし)
が開催されています。
愛宕神社一の鳥居から祇王寺辺りまで
地元の小中高校生達が描いた800個もの行灯が
通り沿いの家々の軒先や軒下に灯され、
古き良き街並みを優しい灯りが包み込みます。
化野(あだしの)
平安時代、平安京の郊外には、
都の「三大葬送地」として、
東山の「鳥辺野」(とりべの)、
洛北の「蓮台野」 (れんだいの) とともに
西郊の嵯峨の北側(奥嵯峨)に
「仏野」(あだしの) がありました。
古語「あだし (徒・空)」には
「はかない、虚しい」という意味があります。
その「あだし」に、「生」が化して「死」となり、
この世に再び生まれ変わることや
極楽浄土に往生する願いなどが込められた
「化」の文字が充てられたのかもしれません。
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
開創
「化野念仏寺」(あだしのねんぶつじ) は、
約1200年前の平安初期の弘仁2((811) 年に、
真言宗の開祖・弘法大師(空海)が
風葬でこの地に遺骸が
野ざらしになっていたのを見兼ねて、
五智山如来寺 (ごちざんにょらいじ) を開創して、
無数の石仏を刻んで供養したのが起源と
言われています。
念仏寺に
鎌倉時代初期、延暦寺の弾圧から逃れて
愛宕山の月輪寺に参籠していた法然が、
当地に「念仏道場」を開き、
「真言宗」から「浄土宗」に改め、
寺名も「念仏寺」に改めたと言われています。
なお現在の正式名は「華西山東漸院念仏寺」
(かさいざんとうぜんいんねんぶつじ) で、
通称「化野念仏寺」として知られています。
西院の河原(さいのかわら)
現在、化野念仏時の境内に並んでいる
約8千体の石仏・石塔は、
実は、明治時代半ばまでは
化野一帯の山野に散乱していたり、
あるいは埋没していました。
それを明治30年代頃、
「福田海」(ふくでんかい) という宗教団体を設立した
中山通幽 (なかやまつうゆう) が中心となって、
地元の人々の協力を得て
仏野の山野に散乱埋没していた
多くの無縁仏や石塔を掘り出すなどして集め、
極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々に
なぞらえて念仏寺に配列安祀しました。
「福田海」は、中山通幽が明治41(1908)年に
創始した宗教。本部は岡山市北区吉備津。
ここに「牛の鼻ぐり塚」を造って、
食肉の犠牲となる動物を供養しています。
明治20年代以降、京阪神地方で、
霊場旧跡の復興、無縁仏の祭祀、池溝の浚渫
などを盛んに行いました。
平城宮遺跡の初期保存、宇治の浮島の十三重石塔の復興、化野の念仏寺や近江石塔寺の
無縁石塔墓の集積、高野山参道の町石の復興などを行いましたが、
陰徳積善 (いんとくせきぜん) を建前としたので
世間には知られてはいません。
そして累々と並ぶ石仏・石塔の有様が、
空也上人が作ったと伝わる
地獄の賽の河原で石を積む子供達を救う
地蔵菩薩の物語を歌った
『賽の河原地蔵和讃』(さいのかわらじぞうわさん) に
描かれる「賽の河原」を想起させるところから
「西院の河原」(さいのかわら) と命名されました。
賽の河原(さいのかわら)
此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける
三途川 (さんずのかわ) の畔ある河原のことで、
親に先立ち亡くなった子供が集まるとされて
います。
ここで子供は両親のために祈り、
自らの成仏も願って
河原の石で仏塔を造りますが、
完成間近になると必ず地獄の鬼に倒され
やり直しになります。
それでもただ一心に石を積み上げるという
苦しみを負っています。
賽の河原の子供達は、
願いが聞き届けられ地蔵菩薩が訪れた時、
ようやくその苦しみから解放されます。
この信仰は、「親より先に死ぬことは重罪」と考えていた当時の日本文化をよく反映して
います。
また、願うことによって最後には救われるという点にも、仏教の特徴が表れています。
そして明治時代の中頃から、
毎月の行事として
「千灯供養」(せんとうくよう) が始まりました。
第二次世界大戦によって一時中断されましたが
昭和25(1950)年には復活して、
年一度の行事となりました。