(旧暦)10月5日は達磨大師 (だるまだいし) の
永安元(528)年の忌日です。
この日には達磨大師の遺徳を偲び、
禅宗の寺院において法要が営まれています。
達磨忌(だるまき)
禅宗で、10月5日の達磨大師の忌日に行う法会。「少林忌」 (しょうりんき) とか 「初祖忌」 (しょそき)
とも言います。
陰暦10月なので、初冬の季語です。
「少林忌」(しょうりんき)
達磨大師が坐禅を組んで悟りを開いた
「面壁九年」(めんぺきくねん) の故事が、
中国嵩山(河南省登封県)にある少林寺であった
ところから言います。
「面壁九年」(めんぺきくねん)
達磨大師が嵩山の少林寺に籠り、九年間
壁に向かって座禅を組んで悟りを開いたと
いう故事から、転じて、目的のために
辛抱強く粘り抜くことをたとえていう。
「初祖忌」(しょそき)
禅宗の初祖の達磨の忌日だから。
達磨大師は10月5日に、論敵の毒殺によって
西暦528年10月5日(※諸説あり)に
百五十歳で入寂したと言われています。
「達磨忌」のこの日には、全国の禅宗寺院で
達磨大師の法要が営まれます。
達磨大師(だるまだいし)
「七転び八起き」のことわざや
「ダルマさん」の愛称で知られている
達磨大師 (だるまだいし) は、今から1600年程前、
南インドの香至国 (こうしこく) の
第3王子として生まれましたが、
出家して般若多羅尊者の弟子となりました。
お釈迦さまから数えて28代目の祖師さまで、
師より「六十七年間はインドを布教し、
その後に中国に正法を伝えなさい」と遺言され、
それに従って老年になってから、
海路を3年かかってChina広州のに上陸したため
「碧眼の胡僧(青い目の異国の僧)」とも
表現されます。
崇山少林寺で9年間坐禅修行をし、
優秀な弟子を育て、その教えが日本に伝わり、
今日の禅宗の礎となっています。
生き返った達磨大師
達磨大師の没後には、
いくつかの後日譚があります。
隻履西帰(せきりせいき)
達磨大師が死んで三年後、
北魏 (ほくぎ) の宋雲 (そううん) という
皇帝の使者がインドから洛陽に帰る道中、
裸足で履物を片方だけ手に持つ僧に出会い、
どこに行くのかと尋ねると、
「西インドへ帰るところだ。
時に孝明皇帝が崩御したぞ」
と告げられました。
宗雲が洛陽に帰ると、孝明皇帝は亡くなり、
新皇帝の明帝が即位していました。
この話を宗雲から聞いた明帝は
「その僧は達磨大師であろう」と言い、
達磨大師が埋葬されていた熊耳山定林寺の墓を調べさせたところ、遺体はなく、
片方の履物だけが残されていました。
これをきっかけに、
定林寺は空廂寺(空の箱という意味)という
名になったそうです(現在は空相寺)。
この宗雲が達磨大師に出会った場面を描いた
絵画を『隻履達磨図』と言い、
白隠慧鶴 (はくいんえかく) などによって
描かれています。
日本で聖徳太子に会っていた!?
『日本書紀』によると、613年12月1日、
聖徳太子が奈良の片岡山で、
倒れているボロを纏った老人に出会い、
食べ物や自分が纏っていた紫の衣を与え
助けました。
翌日、様子を見に行かせると
既に亡くなっていたので、
その場所に手厚く葬りました。
しかし、後日墓を開けると遺体はなく、
太子が与えた紫の衣だけ残されていました。
太子は、以前のようにそれを身につけたと
言われます。
この老人こそが達磨大師の化身だと
考えられるようになり、
片岡山に達磨寺が開基されました。
