
江戸時代、正月17日(後に19日)に
「舞御覧」(まいごらん) の前儀として、
将軍から朝廷に献上された「鶴」を
宮中の清涼殿で
包丁家の人が衣冠を正して古式に則り調理し、
天皇に御覧にいれる
「鶴の庖丁」(つるのほうちょう) という
儀式がありました。
なお「鶴包丁」で捌かれた鶴肉は吸い物として
「舞御覧」(まいごらん) の御前に供されました。
「舞御覧」(まいごらん)
正月17日、または19日に、清涼殿の東庭、
あるいは紫宸殿の南庭に舞台を設け、
その上で左方・右方の舞楽を演奏して、
天皇に御覧にいれた行事。
総数百二十の舞踏が繰り広げられた。
豊臣秀吉が「鶴」を献上してから
新年の嘉例になったという説があります。
徳川幕府は、慶長17(1612)年6月、
公家の鷹狩りを禁じ、その代りに将軍家は
冬場に江戸へ渡ってきた「鶴」を
鷹狩りで仕留め、
最初の獲物を「初鶴」として
宮中に献上することになったのです。
現在の我々には、
「鶴」を食べるとは思いも寄りませんが、
江戸時代、鶴は「三鳥二魚」と呼ばれる
五大珍味の一つに数えられた高級食材でした。
『淮南子 』の「鶴寿千歳 」から、
「鶴は千年も生きる」と言われ、
Chinaでは紀元前から霊鳥 (れいちょう) とされ、
食用しなかったらしいのですが、
日本では平安時代から調理された
記録が残っているそうで、
特に戦国時代以降は、
時の権力者や上流階級の食卓に欠かせない
高級食材として珍重されたようです。
「鶴」が珍重された理由は、
古来、千年の齢を保つ「仙禽 」とされたため、
鶴を体内に摂り入れることで
長寿を得ようとする観念によるものだったと
思われます。
「仙禽」(せんきん)
仙界にいるという霊鳥、鶴の別名。
元禄に刊行された食物事典『本朝食鑑 』には
賞味されるのは、
黒鶴 (なべづる) か真鶴 (まなづる) で、
中でも「黒鶴」が最も美味とされている一方、
私達が「鶴」と言うと思い浮かべる
「丹頂鶴」の肉は硬くて不味いので
観賞用に飼われるだけと記述されています。
また「鶴」の血や肉は他の鳥と異なり、
血と肉が香気に満ちて、
しかも大変な薬効があるとも記されています。
徳川家康が「鷹狩り」が好きだったことは
よく知られていますが、
家康が去り、平和な江戸時代が始まると、
将軍家では「鷹狩り」の風習は
途絶えてしまいました。
八代将軍・吉宗は、
武士階級には「鷹狩り」を奨励しましたが、
「武士以外は鶴を狩ってはならぬ」と
一般人の鶴狩りを禁止しました。
ところが九代将軍・家重は
将軍家による「鷹狩り」を復活し、
「鶴御成」(つるおなり) と呼ばれました。
鶴を確保し江戸城に戻ると、樽酒が開けられ、
鶴の血を滴らせた酒が皆に振舞われ、
塩付けの鶴は東海道を下り、京都まで運ばれ、
「初鶴」として宮中に献上されました。
将軍家に倣って、諸藩の大名も、
宮中のみならず将軍家やそれに列なる御三卿ら高位の諸侯に「鶴肉」を献上・贈答し合った他、
鶴を生きた姿のまま塩漬けにした「塩鶴」は、松前藩など北方諸藩の重要な輸出品であり、
上方や江戸の都市圏にもたらされていたため、
冬場の江戸には大量の「鶴」の肉が
行き交っていたようです。
ところで、清涼殿 (江戸後期は小御所) の東庭で実際に「鶴」の調理を担当したのは、
内膳司 御厨子所 (ないぜんし みずしどころ) で
天皇の朝夕の供御 (くご) の調製に奉仕していた
預 (あずかり) の 高橋氏と、
小預の大隅氏が隔年で、
庖丁と真魚箸 (まなばし) を用いて、
素材に手を触れず調理する
「庖丁式」(ほうちょうしき) により行いました。
まず、鶴をまな板に載せて、
真魚箸 (まなばし) で両羽をしごきます。
次に両翼を切り、まな板に互い違いに置き、
十字の形を作ります。
両足を切って、まな板の下に掻き落としたら、
頭を切って両翼十字の上に置いて、
千の字を作ります。
そして肉を二段におろして終了です。
なお、料理に使うのは左半身のみで、
右半身は将軍家に戻したそうです。
「庖丁式」(ほうちょうしき)
日本古来より伝わり、
庖丁師により執り行われる儀式で、
鳥帽子・垂直、または狩衣を身に纏い、
大まな板の前に座り、
食材に直接手を触れず、
右手に庖丁、左手に箸を持ち、
食材を祝の型や、法の型に切り分け、
並べる儀式の事を「庖丁式」と言います。
食材として使われる魚類・鳥類は、
生き物であり、
まな板の上におかれた時点では、
単なる生き物の死骸でしか過ぎないので、
これをそのまま食すという事は、
野蛮と言う考え方が、
宮中食の考え方の基となっている為、
食にも式正 (しきしょう) が定められました。
なお「庖丁式」では、
生き物の死骸を食べ物に変換させる
清めの儀式「懸り」を必ず行いました。
