
「菜種御供」(なたねごく)とは、
菅原道真公の命日(旧暦2月25日)に
菜の花を供える神事です。
菜種御供(なたねごく)
2月25日は菅原道真公の忌日に当たります。
神前に菜の花をお供えし、
天神様の御霊を宥める神事
「菜種御供」(なたねごく) が行われます。
なぜ菜の花なのかと言うと、
「菜種(なたね)」が
「宥め(なだめ)」に通じることからと云われ
菅原道真公の霊を慰める(宥める)という
意味が込められています。
菜種とは菜の花のことです。
油の原料や食材としても用いられますが、
日本では観賞用としても人気が高く、
古くから俳句や童謡に歌われてきたりと
日本人に身近な花ですね。
大阪の道明寺天満宮の
菜種御供大祭
(河内の春ごと)
菜種御供大祭
大阪府藤井寺市にある「道明寺天満宮」では
菜種の花が咲き乱れる3月25日に
「菜種御供大祭」が行われます。
そして神社がある大阪の河内地方では、
春を告げるイベントとして
「河内の春ごと」と呼ばれ親しまれている
そうです。
道明寺天満宮のこの祭りは、
梔子 (くちなし) の実で黄色く染めた
「菜種団子」をお供えすることで、
菅原道真公の御霊を慰めることが目的です。
そしてお供えした「菜種団子」には
病気平癒の御利益があることから、
「菜種団子」を求めて多くの人が参拝します。
そして祭り最大の見所は
祭り当日の13時から行われる
「稚児行列」です。
幼い子供達が着物に腕を通して、
ご近所を練り歩いて菜種をお供えします。
道明寺天満宮
藤井寺市道明寺地区は、
学問の神様である菅原道真ゆかりの地です。
そもそもこの「道明寺」という地名自体が、
菅原道真の幼少期の名前である
「道明」から来ているそうです。
「道明寺天満宮」は、
菅原道真公、
土師氏の祖先神の天穂日命 (あめのほひのみこと) 、
菅原道真公の伯母に当たる覚寿尼 (かくじゅに) を
御祭神とした1400年以上の歴史ある
天満宮です。
菅原氏は、土師 (はじ) 氏の分流であり、
その土師氏の祖先神が
天照大神と須佐之男命が「誓約」(うけい) で
お生まれになった
「天穂日命」(あめのほひのみこと) です。
「道明寺天満宮」は、
野見宿禰 (のみのすくね) を祖とする土師 (はじ) 氏が
同地に所領を給わり、
氏寺「土師寺」を建立したのが始まりです。
野見宿禰(のみのすくね)
力士の始祖と伝えられ、
出雲国出身と言われる伝承上の人物。
垂仁天皇の頃、皇后崩御に際し、
埴輪を考案して殉死の悪習に代えて
墳墓に立てることを献言。
その功績により一族は土師氏を名乗り、
埴輪の制作、陵墓の造成など
葬送関係の諸事を司ったと言われています。
また推古天皇2(594)年、聖徳太子発願の
仏教文化の移入に積極的だった
土師八嶋 (やしま) が氏寺として尼寺の
土師寺を創建したという説もあります。
土師氏を祖先とする菅原道真公は、
度々土師寺の伯母・覚寿尼の許を訪れています。
そして36歳の時には
「十一面観音像」(国宝)を彫り、
40歳の時には「五部大乗経」を書写しました。
ですから57歳の時、
大宰府へ左遷された途次にも立ち寄って、
自刻の像を彫って、
「鳴けばこそ 別れも憂けれ
鳥の音の なからん里の あかつきもかな」
と詠み、別れを告げたとされています。
延喜3(903)年の道真公の死後、
天暦元(947)年に遺されていた道真の自刻像を
御神体として社殿を営み、
土師神社の境内に合祀したのが
天満宮としての始まりだと言われています。
そしてその折に「土師寺」の寺号は
「道明寺」と改称されています。
「土師神社」は江戸時代までは、
「道明寺天満宮」と親しまれていましたが、
明治の「神仏分離」により、
境内にあった「道明寺」は分離移転し、
社号を正式には「土師神社」としてました。
そして昭和27(1952)年に正式に社号を
「道明寺天満宮」と定めました。
菜種団子
大宰府へ向かう途次、
道真公が土師寺に立ち寄られた折、
辺り一面には菜の花が咲いていました。
その菜の花が咲いていた景色に
道真公は心を慰められたそうです。
そして覚寿尼は「辛いことがあったら、
菜の花に満ち溢れたこの土師寺の風景を
思い出して元気を出して下さい」と思いを込め
道真のために菜種色の団子を作りました。
そして道真が太宰府に向けて旅立った後も、
覚寿尼は無事を祈り、
毎日陰膳を据えていましたが、
その飯を粉にして梅の実の形にした
菜種色の団子を作り、
近所の人々に振る舞ったところ、
「団子を食べたら病気が治った」との
評判が立つようになり、
参拝者がこぞって求めるようになりました。
これが河内の春を告げる神事となり、
「河内の春ごと」として親しまれています。
道明寺粉
ところで覚寿尼が道真公のために
毎日作った陰膳を
それを多くの人に分けるために
粉にして乾燥・貯蔵したものが、
現在の「道明寺粉(糒)」です。
この「道明寺粉(糒)」は古くから有名で、
戦国時代には最強の兵糧米として
豊臣秀吉の軍勢にも重用されました 。
今でも「道明寺ほしいひ」という名で
売られているそうで、
パッケージの「ほしいひ」の文字は、
道明寺から豊臣秀吉に道明寺糒を献上した際、
豊臣秀吉から届いたお礼状に書かれていた
文字を使用しています。
そして、関西風の「桜餅」の原料としても
有名ですね。
北野菜種御供
北野天満宮では、新暦の2月25日に、
「梅花祭」が行われています。
元は菜の花の咲く季節であった旧暦2月25日に
「菜種の御供」が行われていましたが、
新暦2月25日は菜の花がまだ咲かないことから、
代わりに紅白の梅の花を
お供えするようになったことから、
「梅花祭」になったそうです。
亀戸天神の菜種御供祭
亀戸天神では、新暦の2月25日でも、
「菜種(なたね)」が「宥め(なだめ)」に
通じるという謂れを尊重して、
昔のままに菜の花を供えた
「菜種御供祭」が行われています。
江戸の頃から参拝客が天神様の命日には、
御心を慰めようと道に咲く菜花を摘んでは
お供えしていたそうです。
現在は神社より授与されます。
また3月25日には、「神忌祭 」
(別名「松明まつり」「葬式祭」)を行なって、
菅原道真公を偲びます。
千利休の辞世の狂歌
ところで切腹を命ぜられた千利休が、
最後に生けた花は「菜の花」だったと
伝えられています。
そして表千家4代家元
江岑宗左 (こうしんそうさ) の
「千利休由緒書」承応2(1653)年によれば、
利休が堺に追放された時、出発に際し、
菅丞相 (菅原道真公のこと) の流罪を題材にした
次のような狂歌が記されています。
利休めはとかく果報の者ぞかし
菅丞相に成と思へば
菅丞相に成と思へば
利休という男は結局のところ果報者だ。
これから(左遷された)
菅原道真(菅丞相)のように、
都から離れて有名になるのだから
これから(左遷された)
菅原道真(菅丞相)のように、
都から離れて有名になるのだから
千利休が、自らを菅丞相(天神様)に
なぞらえて詠んだとされる、
少し傲りの入ったユーモアのある狂歌です。
実は、後世、特に江戸時代には、
道真を題材にして作られた、
滑稽さや社会風刺を含んだ作品が
多く存在します。
特に人形浄瑠璃や歌舞伎の演目のひとつ
『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ) は有名ですね。
大宰府への流罪を、
桜花が散る様子と結びつけた川柳や、
都を恋しがる様子を滑稽化した狂歌や狂文が
江戸時代に流行しました。