
3月10日は「東京都平和の日」です。
東京都平和の日
昭和20(1945)年、3月10日の深夜0時8分、
米空軍のB29爆撃機が東京上空に飛来。
大空襲によって、
東京では一夜にして多くの尊い命が失われ、
至る所が焼け野原と化しました。
東京都は、平成2(1990)年7月、
平和国家日本の首都として、
戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓い、
「東京都平和の日条例」を制定しました。
現在では東京都を中心に、
歴史を振り返ったり、
平和について発信したり、
様々な行事が執り行われています。
www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp
東京での大空襲
3月10日の「東京大空襲」だけで、
死者数は10万人以上、
罹災者は100万人を超えました。
しかしその「東京大空襲」のみならず、
東京都は昭和19(1944)年11月24日から
昭和20(1945)年8月15日まで
東京の区部では60回以上、
三多摩や伊豆諸島・小笠原を含む東京都全体では100回以上の空襲を受けました。
初空襲
「ドーリットル空襲」
米軍による日本本土への初空襲は
昭和17(1942)年4月18日、
ドゥリットル中佐指揮のB-25中型爆撃機
16機による奇襲が最初でした。
東京では品川区の工場、
荒川区尾久の住宅などが爆撃され、
一家6人が焼死した他、
牛込区の早稲田中学や
葛飾区の水元国民学校高等科の生徒が
銃撃により死亡し、
合わせて41人が亡くなっています。
日本軍の連勝中に行なわれたこの奇襲は、
被害こそ少なかったのですが、
日本軍部には大きな衝撃を与えました。
米軍は開戦当初の連戦連敗から消沈しきっていた。
士気は低下し、まったくの自信喪失状態に陥っていた。
ルーズベルト大統領は、…(中略)起死回生の
奇策として考えられたのが東京空襲だった。
実際の戦果はほとんど、いやまったくといって
ほどなかった。しかし、その効果は絶大だった。
米軍は自信を取り戻し、士気は高まった。
「日本軍も無敵ではない。やればやれるんだ」と。
他方、日本軍に与えた心理的効果は致命的だった。
…山本五十六長官はすっかり自信を失い、
取り乱してしまった。合理的思考力をすっかり失ってしまったのである。
その結果、企てられたのがミッドウェー侵攻作戦だった。…結果は大失敗で、日本に致命傷を与えたことも周知のことだ。
さらに不必要だったのがアリューシャン作戦で
ある。
小室直樹著『日本の敗因』より
東京大空襲前夜
昭和19(1944)年7月9日、サイパン島が陥落。
同年8月2日にはテニアン島が、
同年8月11日にはグアム島が制圧されます。
そうなると米軍は
マリアナ諸島での飛行場建設に早急に着手し、
新鋭長距離超重爆撃機B-29が
離着陸可能な長い滑走路を複数整備されると、
東京を含む日本本土のほぼ全域への
爆撃が可能となり、
昭和19(1944)年11月24日以降、
東京空襲が始まりました。
「高高度昼間精密爆撃」は
米陸軍航空隊の伝統的ドクトリンなので、
最初のうちは武蔵野市にあった
「中島飛行機武蔵製作所」などの
軍需工場を目標とした
高高度からの昼間の「精密爆撃」を
行なうとしました。
ところが工場に対する「高高度精密爆撃」は
思うような戦果が挙がらなかったことから、
大量の焼夷弾攻撃によって
市街地を無差別に焼き尽くす
「大規模無差別爆撃」に切り換えられました。
戦場から離れた敵国領土や占領地を攻撃する
「戦略爆撃」において、
工場や港・油田などの施設の破壊を目的に
した爆撃のことを「精密爆撃」と言う。
これに対し、住宅地や商業地を破壊して
敵国民の士気の喪失を目的とした爆撃を
「無差別爆撃(都市爆撃・地域爆撃・
恐怖爆撃)」と言う。
11月24日には荏原区などの市街地が空襲され、
11月27日も中島飛行機を全然爆撃しないで、
渋谷区の原宿などを空襲しています。
11月29日深夜から30日未明にかけて、
初めて東京市街地に
「集束油脂焼夷弾」を使った夜間爆撃を
行いました。
名目上は東京工業地帯が目標とされましたが、
実際は東京の市街地への無差別焼夷弾攻撃で、
後の東京への大規模焼夷弾攻撃に通じるもの
でした。
米軍が日本の都市無差別爆撃で使用した
ゼリー状の燃料(ナパーム)を詰めた
小型焼夷弾(主にM69)を複数束ねて
投下する兵器。
ナパーム(Napalm)は、ガソリンなどの燃料に
増粘剤を加え、ゼリー状にした焼夷弾用燃料です。
着弾すると燃えながら飛び散り、建物や人間にガムのように付着して激しく燃え続け、
消えにくいのが特徴です。
人間にも付着すると深刻な火傷を負わせる。
昭和20(1945)年1月27日には
繁華街の銀座や有楽町が空襲され530人余りが、
2月19日も中島飛行機は爆撃しないで、
119機のB29が市街地を爆撃し、
区部で160人以上が死亡しています。
2月25日も195人が亡くなっています。
この時は、マリアナの基地を飛び立つ前に
中島飛行機を爆撃出来ないことがわかり、
第一目標を東京下町の市街地に切り替え、
爆弾を焼夷弾に積み替えた172機のB29が空襲、
その後実施された市街地に対する
焼夷弾爆撃の実験的な空襲となりました。
3月4日も159機のB29が
東京区部の市街地を広範囲に爆撃し、
650人余りが死亡しています。
このように、昭和19(1944)年11月から
昭和20(1945)年3月4日までの空襲により、
区部で2000人以上が亡くなりました。
そして昭和20(1945)年2月から始まった
「硫黄島の戦い」では
日本軍は死闘を繰り広げましたが、
3月2日までに飛行場全てを制圧されてしまい、
翌々日から終戦までに、
延べ2400機以上のB29が 硫黄島に不時着。
そして3月10日、B29が334機が
ここから飛び立ったのです。
ミーティングハウス2号作戦
3月10日の「東京大空襲」は、
米軍の作戦名では
「ミーティングハウス2号作戦
(Operation Meetinghouse II)」と
呼ばれます。
超低高度・夜間・焼夷弾攻撃
という新戦術
「東京大空襲 (ミーティングハウス2号作戦)」は
「超低高度」「夜間」「焼夷弾攻撃」という
新戦術が本格的に導入された初めての空襲で、
その目的は、木造家屋が多数密集する
下町の市街地をそこに散在する町工場もろとも
「無差別焼夷弾攻撃」することで焼き尽くす
ことにありました。
目標地域には、軍施設や軍需工場などの
明確な軍事目標はほとんどなく、
住民を殺戮し、それによって戦争継続の意思を削ぐことが、主な目的でした。
また市街地を焼き払うことで、
そこにある小さな軍需工場を焼くことも
合わせて狙っていました。
そのために米軍は作戦実施の日を
延焼効果の高い風の強い日と
気象予報された3月10日を選び、
日本向けの油脂焼夷弾を開発し、
B29とともに大量生産をしていきました。
指揮官 カーチス・ルメイ
指揮官は、1945年1月に正式に
第21空挺部隊を指揮し、
日本の本島に対する戦略的航空作戦を
実施する責任を即座に与えられた
カーチス・ルメイ将軍です。
実は、1945年2月までに米軍は、
Chinaからの出撃で80機、
マリアナ諸島からの出撃で78機の
合計158機のB-29を失っており、
ルメイは上がらぬ戦果と予想外の損失に
頭を悩ませていました。
ルメイの作戦
そこでルメイが最終的に命じたのは、
次のような戦術でした。
・従来は高度8500mから9500mの昼間爆撃から
高度1500mから1800mの低空夜間爆撃に変更
・爆弾を出来るだけ多く搭載するために、
防御用の機銃弾、機関砲は全て外し、
銃手も乗せない。搭載燃料も最小限とする。
・燃料消費を少なくするため、
基地上空で編隊を組むのは止め、
東京上空で合同させる。
・爆弾は全て「焼夷弾」とし、最大限の6t搭載
出撃
そして1945年3月9日午後5時30分過ぎに
グアム北野原から最初のB-29が離陸しました。
その後、グアム、サイパン、テニアンを
325機のB-29爆撃機が50秒間間隔で
出撃していきました。
なおルメイは、作戦機への搭乗し
空中指揮することも考えたそうですが、
原子爆弾開発計画「マンハッタン計画」
の概要を聞いていたため、撃墜され
捕虜となって尋問されるリスクを考え、
最も信頼していたトーマス・パワー准将
を代わりに出撃させました。
東京大空襲
東京上空に
本隊に先行して、先行した4機のB-29が
房総海岸近くの海上で1時間半にも渡って
旋回しながら日本本土に接近している本隊を
無線誘導しました。
この日は非常に強い風が吹き荒れており、
日本軍の監視レーダーは役立たなかったものの
防空監視哨が無線誘導していたB-29を発見し、
9日22時30分に警戒警報を発令しましたが、
やがて房総半島沖に退去したので、
警戒警報を一旦解除してしまいました。
ところがその間も本隊は着々と
東京に接近していたのです。
爆撃開始
9日の24時丁度に房総半島最西端の対空監視哨が
B-29らしき爆音を聴取したと報告、
その報告を受け情報を検討中の、
日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に
第一目標の深川区(現在の江東区)、
第二目標の本所区(現在の墨田区)、
第三目標の浅草区(現在の台東区)、
第四目標 日本橋区(現在の中央区)で
爆撃が開始されたのを皮切りに、
城東区(現在の江東区)でも爆撃が
開始されました。
まず目標地域に設定した4か所の爆撃照準点に
最初のB-29が大型の50キロ焼夷弾を投下して
大火災を起こし、
日本側の消火活動を麻痺させると同時に、
その災を目印として後続のB-29戦闘機が
「集束焼夷弾」を集中投弾するための
目印となる照明の役割を果たしました。
0時15分、初弾投下の8分後に
空襲警報が発令されました。
0時20分には芝区(現在の港区)にも
爆撃が開始されました。
火災旋風が巻き起こる
木造家屋の密集地に38万1300発 (1665t)にも上る
大量の焼夷弾が投下されて起きた火災は、
折からの強風に煽られて、
米軍の想定以上の火災旋風が生じ、
濃い火災の煙が目標上空を覆ってしまい、
爆撃を開始してしばらく経った頃には
秩序ある投弾というのは
机上の空論に過ぎなくなってしまいました。
一方東京の消防システムも
空襲開始30分で早くも機能不全に陥り、
95台の消防車が破壊されて
125人の消防士が殉職しました。
火災旋風は住宅街を覆い、
避難をしながらもこれらの炎に巻かれて
焼死してしまった人々、
炎に酸素を奪われて窒息した人々、
この空襲で使われた焼夷弾から小型の子弾が
突き刺さって即死した人々、
その即死した人々がそのまま燃え上がり
その巻き添えで亡くなった人々と
凄惨な状況が多発しました。
焼夷弾のガソリンなどの油は
川の水面にも引火して「燃える川」と化し、
水を求めて隅田川から都心や東京湾、
江戸川方面へ避難した人々の中には、
焼死した者、
水中に逃れても冬期の低い水温のために
凍死する者、溺死した者で溢れました。
また空襲を避けるために各地に設けられた
防空壕に避難した人々も多かったのですが、
防空壕の換気が不十分であったため、
酸欠状態で窒息死する人々も多かったです。
一方爆撃していたB-29も
火災旋風による乱気流に巻き込まれ、
機体が上下するため搭乗員は全員負傷し、
着用していた防弾服で顔面を何度も叩かれ、
最後には全員が防弾服を脱いで座布団代わりに
尻の下に敷いていたそうです。
また人が燃える臭いはB-29の中にも充満し、
搭乗員は息が詰まる思いだったそうです。
非戦闘員、民間人に対する
機銃掃射
このような絨緞爆撃と並行して
旋回機関銃による非戦闘員、民間人に対する
機銃掃射も行われたと言います。
日本側資料では
「アメリカ軍機が避難経路を絶つように
市街地の円周部から爆撃した後、
中心に包囲された市民を焼き殺した」と
証言するものがありました。
(米軍の資料では確認出来ず)
空襲警報解除
午前2時37分、米軍機の退去により
空襲警報は解除されました。
B-29による2時間半の爆撃による火災は
北風や西風の強風もあって、
目標地域を越えて東や南に広がり、
本所区、深川区、城東区の全域、
浅草区、神田区、日本橋区の大部分、
下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、
江戸川区の荒川放水路より西の部分など、
下町の大部分を焼き尽くし、
8時過ぎに鎮火しました。
東京下町一帯は廃墟と化しました。
被害
資料によって差異は大きいのですが、
当時の警視庁調査では、死者は83,793人、
負傷者は40,918人、被災者は1,008,005人、
被災家屋は268,358戸としています。
「東京大空襲・戦災資料センター」では
確認された死者の遺体数は約10万5400人、
負傷者は約15万人で、罹災者は約300万人。
罹災住宅戸数は約70万戸、
焼失面積の約140㎢は、区部の市街地の約50%、
区部面積の約25%に当たるとしています。
ですが今も、正確な数字は判ってはいません。
東京都慰霊堂
震災記念堂
「東京都慰霊堂」は、
大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災の
身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る
「震災記念堂」として
昭和5(1930)に創建されました。
東京大空襲の御遺体
3月~5月にかけての大空襲により、
膨大な数の死者が出ましたが、
通常の埋葬ができないので、
公園や寺院の境内などに穴を掘って
遺体を埋める仮埋葬がなされました。
そのうち約8000人は名前が判り、
個別に埋葬されましたが、
それ以外は合葬されました。
東京都慰霊堂に安置
仮埋葬された遺体は
3~5年後に掘り返されて火葬され、
昭和23(1948)年より
東京大空襲の身元不明の遺骨は
「震災記念堂」の慰霊塔に安置され、
名称も「東京都慰霊堂」と改められました。
平成11(1999)年には東京都の歴史的建造物に
選定されました。
その後のルメイ
その後もルメイは焼夷弾による無差別爆撃を
続けていきました。
東京・大阪・名古屋などの
大都市を焼き払った後は、
富山市・郡山市などの地方の中小都市も
焼き払いました。
そのため、日本側から「鬼畜ルメイ」とか
「皆殺しのルメイ」と渾名されました。
終戦後の9月20日の記者会見でルメイは
「戦争はソ連の参戦が無くても、
原爆が無くても2週間以内に終わっていた
でしょう。
原爆投下は戦争終結とは何ら関係ない」
と答えています。
1950年6月の朝鮮戦争において、
ルメイは「我々は朝鮮の北でも南でも
全ての都市を炎上させた。
我々は100万以上の民間人を殺し
数百万人以上を家から追い払った」と
語っています。
1951年10月29日に大将に昇進。
1957年7月に空軍副参謀長となり、
同年11月11日にKC-135による
無給油連続飛行世界記録樹立を指揮し、
年度優秀パイロットに贈られる
ハーモン・トロフィーを受賞。
1961年7月に空軍参謀総長となり、
1965年2月に空軍を退役するまで務めた。
1960年から本格化したベトナム戦争では
空軍参謀総長の任にあり、
「(北) ベトナムを石器時代に戻してやる」と
豪語して北爆を推進しました。
1964年に全米航空協会より
「コリアー・トロフィー」を受賞。
同年12月7日には日本に返還されたばかりの
入間基地(旧ジョンソン基地)で、
日本の航空自衛隊育成に協力があったとして
佐藤栄作内閣総理大臣の閣議で決定されて
「勲一等旭日大綬章」が
浦茂航空幕僚長から授与されました。
本来、「勲一等」の授与は
天皇が直接手渡す「親授」が通例ですが、
昭和天皇はこれを拒否(当然!)。
そのため、ルメイは国璽が捺印された勲記を
受け取ることは出来ませんでした。