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昨年「山王祭」に初登場した「象の山車」は8代将軍吉宗に由来⁈


6月7日(土)から17日(火)までの11日間に渡って
東京都千代田区にある「日枝神社」では、
山王祭(さんのうまつり)まで開催されます。
 
昨年、令和6(2024)年に初登場して話題となった
「象の山車」(ぞうのだし)
普段は境内にて特別展示されているようですが今年も登場するそうです。
 
 

「山王祭」(さんのうまつり)

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「山王祭」(さんのうまつり)は、
東京都千代田区に鎮座する日枝神社
特定の日に行われる1つの祭ではなく、
毎年6月15日の「例祭」を中心に行われる、
20以上もの祭典の総称です。

www.tenkamatsuri.jp

徳川時代には神輿の江戸城入りが許され、
幕府から祭礼費用が支出されたことから
「御用祭」とも呼ばれ、
「江戸三大祭」(山王祭・神田祭深川祭)の
筆頭として発展してきた由緒正しい祭りです。
京都の「祇園祭」、大阪の「天神祭」と並ぶ
「日本三大祭」の一つで、
 
「江戸三大祭」のひとつとされる
「神田祭」と交互に「本祭」が開催されており
西暦の偶数年には「本祭」(ほんまつり)
奇数年に「蔭祭」(かげまつり) が行われています。
 
都心をおよそ300mに渡る神幸行列が練り歩く、
「山王祭」の中で特に壮麗な行事「神幸祭」は
令和7(2025)年度には行われず、
令和8(2026)年6月に斎行が予定されています。
 

令和7(2025)年「山王祭」

 
令和7(2025)年は「蔭祭」の年に当たるため、
「神幸祭」は実施されませんが、
様々な催しが予定されています。
 
稚児行列(6月8日)
「稚児行列」では、小さな子供の無病息災を
祈願するために開催される祭典です。
色鮮やかな稚児の衣装を身に纏った子供達が
健やかな成長を祈って神社を練り歩きます。
令和7(2025)年は6月8日(日)の
正午と14:30の2回開催予定です。
 
納涼大会盆踊り(6月13日〜15日)
「山王祭」は、「納涼大会盆踊り」が行われることでも有名です。
山王祭期間中の屋台は、
主に溜池山王駅前の
「山王パークタワー公開空地」では
「日本一早い盆踊り」と知られる
「山王音頭と民踊大会」が行われます。
「山王音頭」を筆頭に、
「東京音頭」「炭坑節」「八木節」などの
定番曲に加え、
「ドンパン節」「山形の花笠音頭」
「相馬甚句」「白浜音頭」など
全国各地の民謡が楽しめます。
 
またこの会場では夜店やキッチンカーなど
多彩な飲食物を提供する露店が並び、
祭りの雰囲気を盛り上げます。
 
山王嘉祥祭(2025年6月16日)
6月16日に行われる「山王嘉祥祭」は
疫病退散と健康招福を祈る伝統行事で、
和菓子職人が神前で和菓子を作り
奉納します。
 
その起源は、仁明天皇の時代にまで遡り、
菓子や餅を供えて、
疫病退散を願った儀式が由来だと言われ、
江戸時代には徳川将軍家の年中行事としても
親しまれました。
 
普段見られない伝統的な技を間近で見学出来、
参拝者にも振る舞われます。
甘いお菓子を食べながら無病息災を祈る、
ほっこりとした行事です。
 

象の山車(ぞうのだし)

 
令和6(2024)年は「山王祭」の完全復活を祝して、
江戸時代の「山王祭」にも登場したという
「象の山車」が初登場します。
神幸祭終了後は境内に展示されます。
 
この「象の山車」は、享保13(1728)年、
8代将軍・徳川吉宗の命により、江戸まで
歩いてやって来た象をモデルとしたもので、
江戸後期から附け祭の曳き物として、
「山王祭」に登場するようになったと
言われます。
 
令和6(2024)年、「象の山車」は、
日枝神社、国立劇場、皇居坂下門、東京駅、
銀座中央通りなどのルートを巡りました。
 
・日時:令和6(2024)年6月7日 [金]
    7:45~17:00
・場所:日枝神社、国立劇場、皇居坂下門、
    東京駅、 銀座中央通りなどの
    祭りのルート
 

「象」が日本にやってきた歴史

日本に最初にやってきた「象」
日本に初めて象がやって来たのは、
今から600年前の室町時代の
応永15(1408)年6月22日で、
若狭国(福井県)小浜に南蛮船でやってきました。
今のインドネシアのパレンバンから来た船で、亜烈進卿(あれつしんきょう)という王の命令で、
黒象1匹、孔雀2対、オウム2対、献上品などが
室町幕府の将軍への贈られました。
 
 
 
その後、象は約1カ月かけて京に向って、
無事、4代将軍の足利義持に献上されましたが、
幕府は大量の食料の調達に困ったことから、
応永18(1411)年には、
象を朝鮮国王への貢物としました。
 
戦国時代にやって来た「象」
 
天正2(1574)年、大友宗麟に献上するために
象を積んだ明の船が博多に上陸しました。
その20年後の慶長2(1597)年には
豊臣秀吉に宛ててマニラ総督から、
その5年後には徳川家康に宛ててベトナムから
象が献上されています。
 
ただ戦国時代に贈られた3頭の象については、
記録がほとんどないことから、その後は
どんな運命を辿ったのかは分かりません。
 

江戸の街に
「象」がやって来た!

 
享保13(1728)年、象がベトナムからやって来て、
日本中に「象」ブームを巻き起こしました。
 
象を一目見てみたい
 
江戸中興の祖、8代将軍・徳川吉宗は、
西洋かぶれであったとも言われ、
キリスト教に関係のない書物の輸入を認めたり、
青木昆陽、野呂元丈に蘭後を学ばせるなど、
海外知識の導入にも積極的で、
オランダから西洋馬を輸入してもいました。
 
 
そんな吉宗が「象を一目見てみたい」と
言ったのを聞きつけた
清国商人の鄭 大威(てい たいい)
享保13(1728)年6月13日、ベトナムから
オス7歳とメス5歳の2頭の象に、
ベトナム人の象使いと清国人の通訳
各々2名を連れて長崎港に到着しました。
 
象の一行、
長崎から徒歩で江戸に向かう
 
ところが上陸後3ヵ月程で
メスは死んでしまいました。
(甘い菓子の食べ過ぎで舌に腫物が出来たため
 という記録(『象志』)もあるそうです)
享保14(1729)年3月、残ったオス象の一行が
江戸に向けて長崎を旅立ちました。
 
 
象が通る道筋の諸藩には、前もって幕府から、
象の体重に耐えうる橋の補強や、宿場に餌と
頑丈な馬小屋の用意が命じられました。
更に「象さまのお通りにつき、注意すべきこと」
と書かれた立て札がたてられました。
 一、街道を清掃する。
   また、象の飲み水を用意し、
   村役人が番をすること。
 二、象を驚かすといけないので、
   寺の鐘をついてはいけない。
 三、牛や馬を街道から一キロ以内に
   置かないこと。
 四、犬や猫も家の中につないでおくこと。
 五、見物人は家の外に出てはいけない。
 
そして象が驚かないように、
見物人に騒がないように厳命したため、
多くの見物人が詰めかけましたが、
人々は物音ひとつたてずに、
静かに見物したようです。
 
京で天皇に拝謁
享保14(1729)年4月28日、京都において
「広南従四位白象」(こうなんじゅしいはくぞう)
という大名並みの官位が授けられ、
中御門天皇、霊元上皇に拝謁しました。
 
なおこの象には、この時の
「広南従四位白象」(こうなんじゅしいはくぞう)以外、
名前を付けられた形跡がなく、
単に「象」としか記録されていません。
 
箱根にまで来た象、
遂にダウン!
 
象は巨体を揺らしながら大小の河を渡り、
峠道を越え、一歩一歩進みました。
 
時には、急な峠道では立ち往生。
静岡県・三ヶ日の引佐峠(いなさとうげ)には、
象が音を上げたという
「象鳴き坂」の地名が今も残っています。
 
 
そして「天下の険」と呼ばれた
箱根に到着すると、
長旅の疲れで遂にダウンし、
数日間寝込んでしまいました。
箱根では象を迎えるために、
新しい象小屋を建てたり
好物の竹や饅頭を用意していましたが、
象を面倒見る役人達は様々な手を尽くして
看病に当たりました。
 
江戸到着
 
手厚い介抱でようやく回復した象は
再び歩き始め、小田原、平塚、保土ヶ谷、
神奈川、川崎で泊まり、5月25日、江戸に到着。
長崎から江戸まで75日。
約350里(約1400㎞)を歩き切りました。
 
将軍拝謁
将軍吉宗は、最初は、江戸城内で興味津々と
この珍獣を観察したそうですが、数回も見ると
それっきり関心を失ってしまったようです。
 
江戸到着から1年もたたない
享保15(1730)年3月には、
幕府は象の引き取り手を募集し出す始末。
無責任な飼い主に見捨てられた動物の不幸は
今に始まったことではないようですね。
 
ただ大量の餌を食べる象の飼育費用が
年額200両に上ることも、
緊縮財政を進める中で大きな負担でした。
 
 
日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によると、
当時と今の米の値段を比較すると1両=約4万円、
大工の手間賃では1両=30~40万円、
お蕎麦の代金では1両=12~13万円
これを参考にすると、
 ・1両4万円→800万円
 ・1両12~13万円→2400~2600万円
 ・1両30~40万円→6000~8000万円
 
ただこの時は引き取り手が現れなかったため、
象はその後10年余りに渡って
「浜御殿(現在の浜離宮)」で飼われました。
 

江戸で「象ブーム」!

将軍吉宗は、象に関する興味を
すっかり失ってしまったようですが、
江戸中で「象ブーム」が出現したようです。
 
江戸では諸大名もこぞって見物し、
上屋敷で象見物を行った水戸藩は
詳細な象情報を残しました。
・毛はねずみ色で見栄えは余りよろしくない
・鼻が長く自由が効く
・殊の外人に懐く動物であり、何事もよく理解する
・江戸城で唐音で「人を乗せる」と申したら、
 言葉を理解して下に居る人を乗せた
 
 
象をモチーフに便乗商売も過熱し、
書籍や瓦版、版画、錦絵の他、
象をあしらった刀の鍔、印籠、双六などが
次々と作り出されました。
 
更に江戸近郊の3人の農民(中野村の源助、
柏木村の弥兵衛、押立村の平右衛門)が
ゾウのふんを材料に、
当時の流行病だった天然痘や麻疹に効くという
怪しげな薬「象洞」(ぞうほら)を販売。
名奉行の大岡越前守忠相ら幕府側が
両国で開かれた「象洞」の販売イベントに
象を出動させるなどのバックアップもあり、
「象洞」は江戸から京、大坂、駿府など
販路を広げました。
 
寛保元(1741)年、源助と弥兵衛は象を引き取り、
中野村にやってきた象を見せ物にすると
再び人々の前に姿を現した象は、
たちまち人気者となり、
江戸から多くの見物客が押し寄せました。
下げ渡しに当たり、源助は幕府の援助で象小屋を建設してもらいました。
この象小屋は、現在の地下鉄中野坂上駅に近い
中野区本町「朝日が丘公園」付近にあったようで
「象小屋(象廐)の跡」という説明板が残っています。
 
象は相当ストレスが溜まっていたのでしょう。
中野に来た翌寛保2(1742)年7月には脱走。
脱走から3日目に取り押さえられましたが、
5ヵ月後の同年12月13日(西暦1743年1月8日)、
21歳の若さで死んでしまいました。
(象の寿命は60~70年)
 
象の皮は幕府に召し上げられ、
象の頭骨や牙を手に入れた源助は
今度はそれらを見せ物にし、
「象洞」(ぞうほら)の販売も続けます。
ただこの頃には「象洞」販売も上手くいかず、
源助は借金に窮していたようです。
とうとう安永8(1779)年、象の頭骨と牙は、
生活に困った源助の息子・伊左衛門から
地元の宝仙寺に17両で売却され、
宝仙寺の寺宝とされました。
 
それも第2次世界大戦時、米軍による
昭和20(1945)年5月25日の空襲で焼けてしまい、
焼け跡から掘り起こされた燃え残りは、
この上更に見世物にするのは忍びないとして、
現在、誰の目にも触れることなく、
宝仙寺にひっそりと安置されています。
 

www.housen.org

 
 
なお象皮については、寛保3(1743)年に、
大和国奈良の由緒ある製墨業の「古梅園」が
幕府より象皮・象鼻を与えられたという
記録があり、更に吉宗の命により、
その皮から「香象墨」を製造し、
鼻は「古梅園」で現在も保管されていると
言い伝えられています。
 

象の日


4月28日は「象の日」です。
江戸時代に清国商人の鄭 大威(てい たいい)
中御門天皇の前で象を披露した日に因んで
定められた記念日です。
 



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