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享保19(1734)年2月20日、両国橋辺広場に鯨の見せ物出る!

 

江戸時代の記録によれば、
享保19(1734)年2月20日に
江戸の両国で鯨の見せ物が出たそうです。
 
この両国の見世物に登場したのは、
2頭の鯨。
下総国行徳(現・千葉県市川市行徳)の浜で
捕らえたものだったそうです。
 
鯨の体長は、
5間 (9.1m) と7間 (約12.7m) だったそうで、
種類としては、「座頭鯨」(ざとうくじら)
「ヒゲクジラ (= ミンククジラ)」らしいです。
 
「座頭鯨」の名前の由来は諸説ありますが、
中世や近世に、僧形の盲人で、
琵琶・琴などを弾いたり、
または按摩や針などを職業とした「座頭」が
背負っていた琵琶の形に似ていることから、
この名前が付けられたと言われています。
 
 
 
「唐天竺でなくては見られぬ荒海の大海獣、
 毎日1人ずつ人間を食って生きている」
という呼び込みに江戸っ子が殺到し、
連日押すな押すなの盛況だったそうです。
 
 
 
意外に知られていませんが、
江戸湾(現・東京湾)は、
かっては鯨の宝庫でした。
羽田で釣りをしていたら沖の方で
鯨が潮を吹くのが見えたという記録もあり、
漂着例も数多くあるそうです。
また湾の一番外側の房総沖では
江戸時代の明暦から宝永年間 (1655-1711)、
安房勝山では、醍醐家が元締めとなって、
3組57隻の船と 総勢500~600人を抱える規模の
「鯨組」が組織され、「マッコウクジラ」や
「ツチクジラ」を捕っていました。
 
日本近海はジャパングランドと呼ばれる
鯨の好漁場であったために、
幕末頃になると、外国の捕鯨船が集まり
「アメリカ式捕鯨」で捕鯨するように
なったことから、日本近海の鯨が急減し
日本の古式捕鯨は衰退しました。
明治32(1899)年、ノルウェー式捕鯨技術を学んだ岡十郎が捕鯨の近代化に成功。「東洋捕鯨(後のニッスイ)」を設立。
 
 
日本各地には、
生き物への感謝の気持ちが表した
供養塚・供養碑がありますが、
江戸時代に建立されたものでは
「鯨塚」が特に多いそうです。
鯨によって困窮が救われたことへの感謝や、
捕鯨に関連する供養のために造られました。
 
 
「この年は大飢饉であったが、
 この寄鯨で餓死をまぬがれた」との
記録があり、村人は鯨様と呼び親しみ、
崇めて供養を続けてきた、とあります。
 
 
なお東京都内で唯一現存する「鯨塚」は、
洲崎弁天(現・利田神社 (かがたじんじゃ))の
境内にあるもので、
寛政10(1798)年5月1日、品川沖に迷い込んで
捕獲された鯨を供養するために建てられたもの
と伝えられています。

shinagawa-kanko.or.jp

 
これは、両国橋辺広場に鯨の見せ物が出てから
64年後の寛政10(1798)年5月1日、
前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んで来た
鯨を供養したものでした。
この日、鯨を見つけた漁民達は
こぞって舟を出して
この鯨を天王洲に追い込んで、
遂には浜に乗り上げたところを
捕獲しました。
 
記録によると、見世物の鯨より更に大きい
体長9間1尺 (約16.5m)、高さ6尺8寸 (約2m) の
「シロナガスクジラ」と見られています。
この大鯨捕獲の報はあっという間に広がり、
瓦版にも報じられたことから
その後9日間も見物人が引きも切らず
品川宿は大いに賑わったそうです。
 
更に評判を聞いた11代将軍・徳川家斉も
浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)で上覧され、
大層喜んだ将軍・家斉は、漁民に
「猟師町元浦」という旗を贈ったそうです。
 
 
この上覧により更に鯨人気は上がりましたが、
長い間の係留で弱ってしまった鯨は
とうとう死んでしまいました。
 
村役人の検分後、死骸は解体されて
胴体の部分は油を採るために売られ、
頭部は当時の洲崎弁天(現・利田神社)の
境内に埋められ、
その上に「鯨塚」が建てられました。
 
高さ85cm・幅158cm・厚さ32cmの「鯨塚」は、
一見すると富士のような形をしています。
「鯨塚」の正面には、俳人・谷素外の俳句
「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」と
刻まれています。
 



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