
江戸時代、春の「雛祭り」を前に、
2月末から3月2日まで
「雛市」(ひないち) が立って、
大変な賑わいを見せていました。
「雛人形」は最初は「京製」が主でしたが、
明和年間 (1764-1772) には、
「江戸製」が出現するようになります。
そうすると江戸市内には、2月25日から3月2日に
雛人形や調度品などを売る「雛市」が
立つようになりました。
こういった「雛市」は、
尾張町(現・京橋)、浅草、池之端、
麹町、駒込などにもありましたが、
「十軒店」(じっけんだな) には及ばなかったと
『江戸名所図会』には書かれています。
「十軒店」(じっけんだな) は、
現在の中央区日本橋室町にあった町で、
3月の「上巳の節句」には雛人形などを、
5月の「端午の節句」には甲人形や鯉幟などを
売る仮設の店が十軒立ち並んでいたことから、
「十軒店」の名があると言われています。
五代将軍綱吉が、
京都の雛人形師10人を招いて
ここにお長屋10軒を与えたからとか、
「十軒が十軒ながら公卿の宿」と
うたわれたことから、
この名がついたとも言われています。
現存最古の江戸全体図「寛永江戸図」などにも
記載があることから、
この頃から既に有名だったようです。
寛政期(1789-1801)には
41軒を数えるようになったと言われています。
「十軒店」では、
3月「上巳の節句」前の2月25日から3月2日の
「雛市」では雛人形などを、
5月「端午の節句」前の4月25日から5月4日の
「兜市」では兜人形・菖蒲刀・鯉幟を、
12月の年末の「歳暮市」では正月の縁起物の
破魔弓や羽子板、手毬などを扱ったようですが
「雛市」ほど盛んではありませんでした。
なお平素は青物の市が立っていたようです。
瓦屋根の立派な店は、
元からここに店を構えて雛人形を販売している、
もしくは普段は別の商売をしていて
雛人形の販売の期間だけ
雛商売人に店を貸している店で、
新品の高級な雛人形を取り扱いました。
江戸時代初期は「内裏雛」一対だったものも、
中期には雛壇に多くの道具や人形を飾る
「段飾り」が生まれ、
金襴や錦で作った衣装を着せた人形が
登場するなど、
雛人形は絢爛豪華で大型化していきました。
それを見兼ねた幕府が「奢侈禁止令」を
出すほどでした。
勿論、このような高級雛人形は
一般庶民が買えるような代物ではありません。
庶民は、もっと小さくて素朴な雛人形や、
折り紙で作った紙人形などで楽しみました。
そして十軒店には、そういった庶民対象の
お店も数多くあって、
「雛市」の期間だけ、「中店」(なかだな) という
よしず屋根の仮の小屋が設営されて、
廉価な雛人形や中古品、雛の道具などが
売られていました。
江戸末期の風俗を記した
『江戸府内絵本風俗往来』によると、
「雛市」の時期の十軒店は、
昼夜問わず買い物客で溢れ返り、
そのため喧嘩が起こり、
懐の物を狙う盗人も多かったようです。
人形商人は人形に法外な金額をふっかけ、
客もそれを承知していて
双方の駆け引きも「雛市」の名物でした。
ようやく折り合いがついて
支払いをしようと懐中を探ってみると、
財布が盗まれていたことに気付くのです。
またようやく買った人形を喧嘩のために
破損してしまうこともありました。
「十軒店」という町名は
大正時代まで残っていましたが、
関東大震災後の帝都復興計画の一環により
昭和7(1932)年に室町三丁目に編入となり
消滅しました。
COREDO室町テラスの室町三丁目南交差点近くエスカレーター脇には「十軒店跡」があります。
その後、明治30(1900)年代頃から
やがて都市ではデパートでの販売が
始まったこともあって、
「雛市」はなくなりましたが、
老舗の人形店のあった浅草茅町周辺では
人形専門店が集まることとなり、
人形の街「浅草橋」が誕生しました。
現在でも浅草橋・柳橋の江戸通り沿いには
10軒程の人形専門店が軒を連ねています。
