久しぶりに料理した。ひき肉とネギのペペロンチーノ。ぐったりくたびれた帰り道に頑張ってスーパーで買い物して、頭が痛かったので帰宅後、即、昼寝して、起きてハイボール飲みながら作った。おいしくできた。自分の力でいかようにもコントロールできる生成物をできた瞬間に食う、という圧倒的自己充足感がいい。
料理の優れた点は、生産と消費を同時に達成できることにある。反対にあることをいっぺんにできるから、偏りがなくバランスが取れるというわけだ。それが料理がメンタルにいい理由なのかもしれない。
最近、自分のアウトプットの質が下がっているのをめっちゃ感じている。自分が書いた企画書を見ても全然そそられない。何かを真似したり分析したりするんだけど、完全な真似をすることすらできないし、できたとしても、それと自分のやろうとしていることを組み合わせるのはミスマッチなんじゃないかと気づいたりする。自分の中かから出るものの質が、下がっているような気がする。それで一昨日、AIデトックスが必要なんじゃないかと思った。つまり、自分の思考力みたいなものがAIによって衰弱している気がしたのだ。
AIの何がよくないか。それは吐き出し係数が低いことだ。
1人で何かを書けば、純度100%の「吐き出し」が行われる。
しかしいま、AIに何かを吐き出すと、反射的に何かが返ってくる。AIのアルゴリズムを高速で通過した「何か」だ。
そして我々はそれを読む。1吐き出したら、0.5とか0.6、場合によっては1.2とか2とかの反射を読むことになる。
読まないようにしても、だだーっと吐き出されるAIの文章はこちらの認知資源を奪ってくる。
吐き出してるつもりなのに、戻ってくるんだよな。
減らしたいのに減らないんだよね。
プロンプトでコントロールしても無駄。「吐き戻し」が一行でもこちらの何かがすり減る。
自分の言葉が上書きされていく、と言ってもいいかもしれない。
それだけならまだいいが、それを繰り返すことでAIに思考力が奪われていくのはまずい。
書くこととAI生成の違いがここにある。
AI生成はつねにプラスを生み出そうとする。
しかし書くことは、プラスを生み出すと同時に、自分の中から何かをマイナスする。
生み出しと吐き出しを表裏一体で遂行する。
吐き出した分だけ生み出されるし、生み出した分だけ吐き出される。
逆のことが同時に行われる。
書くことの楽しさは、マイナスすることの楽しさでもある。
吐き出すと言ってもいいし、抜け出ると言ってもいい。
よりフィジカルに「分泌する」と言ってもいい。
文筆業とは分泌業である。
分泌には快楽がある。
生成にその快楽はない。
自分はけっこう、消費するだけでもわりと困らない側だと思ってた。でもやっぱり、偏るとバランスを崩していく。今週、先週はGoogleマップでピン留めしていたレストランをたくさん廻っていた日々でもあった。どの店もおいしかった。でもどこか、スタンプラリーのように作業化していることに気づいた。昔は食事の感想を日記に書いたりしていたけどそれもなくなっていた。AIへの向き合い方と似ているなと気づいたのはその時だった。
以前文フリの時期に、「読まないけど書きたい人たちが増殖している」という指摘がXで流れていた。小説を読まないけど小説を書きたい、エッセイを読まないけどエッセイを書きたいという人たちが増えているらしい。それもたぶんどこかで無理がくるんじゃないだろうか。そうでもないんだろうか。たぶん自分は「生産過剰」に傾いたことがないので、その人たちの気持ちはあまりわからない。だいたいいつも、生産が、というか吐き出しが足りてなくて、摂取ばかりしている。ダイエットしないといけない。需要過多。インフレ。生産力不足のインフレ。だから生産手段を効率化しないといけないね。ならAIを活用して効率化するのはどうだろう?