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飯塚にあった二瀬鉱の遺構 福岡県飯塚市桂川町枝国

福岡県飯塚市の”イオン穂波”のすぐそばに、炭鉱跡があります。「日鉄鉱業 二瀬鉱」の跡です。1899年(明治32年)に、官営八幡製鉄所の二瀬出張所として開かれました。当時、製鉄所でのエネルギー源である石炭が必要とされ、おそらく、この場所で石炭が採れたため出張所が開かれたと考えられます。

 

参照:沿革 | 日鉄鉱業株式会社

 

下の写真は、石炭を産出した炭鉱である二瀬鉱の正門です。二瀬鉱についての遺構はこれだけなのだそうです。

 

参照:新編 九州の戦争遺跡P.52

 

場所:福岡県飯塚市桂川町枝国

座標値:33.636529,130.674938

このレンガ造りの正門跡は、桜ヶ丘遊園の南西部の、公園下側に保存されています。下の略図に場所を示しています。

ふたつの正門の間にある石碑には、二瀬鉱業所本部・中央坑施設の写真が印刷されています。この写真の施設のまわりには柵がもうけられ、まんなかに正門がもうけられています。この正門が現存するレンガ造りの正門なのだと考えられます。正門の向こう側には洋館と、さらに奥に、黒い煙をはきだす四本の煙突がそびえています。

現存する二本の正門▼

▼桜ヶ丘遊園。公園の向こう側にゴルフセンターの防球ネットがみえます。このゴルフセンターがある場所に、むかし、捕虜収容所がありました。収容所は、以前、炭鉱夫の福利厚生施設で、娯楽や集会などがおこなわれた会館でした。

 

参照:新編 九州の戦争遺跡P.51

現在、イオン穂波がある敷地には、むかし、二瀬鉱業の本部、中央坑竪坑、発電所がありました。そして、竪坑の西側に鉄道の引込線がはしっていました。おそらく、この引込線は産出された石炭をはこぶ鉄道で、現在は道路となっているところをはしっていたと考えられます。線路は北側へと鉄道は伸び、途中から北北東に折れ、現在の筑豊本線へと合流していたのではないかと考えます。

 

国鉄幸袋(こうぶくろ)線の終点二瀬駅から中央坑まで引込線があったが、その跡地はイオン西側を通る車道となっている。参照:新編 九州の戦争遺跡P.52

 

比較的、直線的な道路をたどっていくと、筑豊線へと合流する経路がみられます。もしかしたら、この赤い実線部がむかしの鉄道跡だったのかもしれません▼

 

 

1969年(昭和44年)の穂波イオンふきんの今昔マップを確認してみます。この年代のマップがかろうじて飯塚の昔を確認できる最古の今昔マップです。すでに1969年には、炭坑は閉鎖されていたと考えられますが、中央坑栄町という名前がのこっています。また工場のマークがみえることから、炭坑跡地になんらかの工場が運営されていたのでしょう。また収容所があった場所は、おそらく、果樹園となっているようです。

 

二瀬鉱は八幡製鉄所の製鉄用原料炭の供給炭鉱として明治三十二年(1899年)に開業、戦後のエネルギー革命で昭和三十八年(1963年)に閉山した。参照:新編 九州の戦争遺跡P.52

現在の地形図を確認してみても、中央砿栄町と表示されている場所ふきんは、日鉄枝国と、むかし日鉄の炭鉱があったことをものがたる地名が残っています。

高台にある桜ヶ丘遊園から南側を見下ろす▼

 

第二次世界大戦中、日本軍の捕虜になった35万人の連合軍兵士のうち、3万5千人が日本に連行され、土木建築・鉱山・炭鉱などの過酷な現場に送り込まれたが、筑豊地方の炭鉱でも九ヶ所の捕虜収容所が設置され、捕虜たちを採炭現場などで働かせていた。

 

飯塚の日鉄鉱業二瀬鉱でも、約800名の連合軍捕虜が福岡捕虜収容所二瀬分所に収容され、500~1000m地下の切羽(きりは;掘り進めている坑道の先端。最も危険で重労働)で発破・採炭などに従事し、過酷な収容所生活を送っていた。

 

参照:新編 九州の戦争遺跡P.51

 




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