
父、亡くなる
昨年末、父が亡くなりました。90歳だったので大往生ですし、長い間、癌を患っていたこともあり、ある程度の覚悟はできていました。
だから、亡くなった瞬間に打ちひしがれるような悲しみに襲われることはありませんでしたが、それなりに感慨深いものがありました。この思いを忘れないように、父のことを記しておこうと思います。
空襲から逃れる
父は東京出身の戦前生まれでした。東京大空襲の際、ほとんどの地域が炎上して、甚大な被害が出た本所に父は住んでいました。
疎開しようと荷物をまとめているときに空襲警報が鳴り響き、錦糸公園に逃げ込んで助かったそうです。
当時の錦糸公園は陸軍が管理しており、一般人は入ることができなかったのですが、父は無理やり逃げ込んで難を逃れました。
空襲で亡くなっていたら、僕は生まれていなかったわけで、逃げ延びてくれて良かったのですが、このエピソードこそが父という人間を象徴している気がします。
父は型通りに生きることを嫌っていました。「人と違うこと」をわざと選んでいたように思います。
父は長い間タクシー運転手をしていました。都内でタクシーを走らせる以前は、蕎麦屋に勤めたり、箱職人をやったりしていましたが、どれも長続きはしませんでした。会社に就職したこともありますが、単調でつまらないからすぐに辞めたと言っていました。
同じことの繰り返しを嫌っていた父にとって、毎日違う場所へ行けるタクシードライバーは天職だったのかもしれません。
大人になってから、世の中にはそういった人が一定数いることを僕は知りました。
学生時代、道路舗装のアルバイトをしたことがあります。新しくできた道路にアスファルトを流して固める仕事です。大抵の現場は1日で仕事が終わるため、毎日別の場所へ赴くことになります。
そこの社員の方が「工場みたいに、毎日同じ現場へ行くなんて信じられない」と言っていました。
若い僕が長年属していた学校というところは、同じことをやり続ける場所です。社会に出てから毎日同じ仕事ができるように、学校は忍耐訓練の場だと思っていました。
その人の発言に触れて、同じ場所で同じことをやり続けることができない人が、この世界に存在するのを知った初めての出来事でした。
どこへでもタクシーで行く
話が逸れましたね。
かつて焼夷弾が降り注いだ東京を、毎日タクシーで走り回り、お客様を運ぶことを父はどう思っていたのでしょう。
父は個人タクシーの運転手でした。組織で働くことを嫌った父らしい選択です。
個人タクシーの場合、自家用車はタクシーです。海へ行くのも山へ行くのも、どこへ行くのもタクシーでした。
友達に話すと、「金持ちっぽい」と茶化されましたが、子供の僕は嫌でたまりませんでした。当時はまだ喫煙が許されていたので(父も当時は喫煙者でした)、車内はタバコの臭いが染みついていました。
あるとき、「車が臭い」と父に言ったことがあります。今考えるとひどい言い方ですが、そのとき父は「俺の車が臭いわけがない」と珍しく声を荒げて反論しました。
自分の仕事にプライドがあったのでしょうか。それよりも、この場で口にするのに、もっともかっこいいと思える台詞を父が吐いたように、子供の僕は思いました。
車を愛しているように見えたのに、年をとって引退すると、父はあっさりとタクシーを処分し、それから二度とハンドルを握ることはありませんでした。
何十年も続けてきたのだから、運転が好きなんだとばかり思っていたけど、そうではなかったようです。
これも父らしいエピソードです。執着しているようで、していない。こだわっているようで、こだわっていない。そのときの状況と雰囲気で、一番気の利いた言葉を選ぶ。そういう人でした。
すれ違う父と子
父はずっと夜勤でした。タクシーで最も稼げるのは深夜です。終電を逃した酔っ払いを送り届け、父は夜明け前に帰宅していました。
だから、平日に顔を合わせることはほとんどなく、父とはあまり話しませんでした。でも、男同士の親子って、そんなものじゃないですかね。
父とは趣味も合いませんでした。父は野球が大好きで、歳をとっても草野球に興じていました。僕にも野球をやらせたかったらしくて、一度だけ草野球の試合に連れて行かれましたが、本好きだった僕が全く興味を示さないと、それから二度と誘ってきませんでした。
息子に強要しないのは有り難かったのですが、自分が好きなことをどうしてもっと強く勧めなかったのかとも思います。子供の自由を尊重したのか、そこまでの情熱がなかったのか。
おそらく両方の気持ちがあったのでしょうが、何事にも執着しない父の性格が表れたのだと思います。
作家になったくらいですから、子供の頃から僕は本が好きでしたが、僕が生まれる前に紙の本は暦しかありませんでした。
家族のうち誰一人として本を読みませんでした。日々の生活に懸命だったのかもしれませんが、とにかく家には文化的なものは一切ありませんでした。親と映画や劇を観に行った記憶もありません。
父は亡くなるまで、僕の小説を手に取ることはありませんでした。
小説家を目指していたとき、作家の親族に文化人が多いことを知り、愕然としたものです。
父から離れた場所へ
そんな環境に育ちながら、どうして自分が小説家を目指したのか考えると、父の性格に行き当たります。父は他人に縛られることが好きではなく、個人タクシーという道を選びました。
僕にもその気質が受け継がれているように思います。親の遺伝のせいにするのは好きではありませんが、己を省みると、親との繋がりを完全には否定できません。
事実、昔から僕も他人と同じことをするのが好きではありませんでした。友達と遊ぶときも、鬼ごっこや缶蹴りといった普通の遊びをするだけじゃなく、新しいルールや遊びを考案するのが好きでした。
小説家になりたかったのも、「他人と違うことをしたい」という思いが強く、学生の頃は、自分が会社で働く姿を想像できませんでした(結果的に、二十年以上も会社勤めを続けたわけですが)。
趣味や嗜好は全く違っていても、父と似た性格が、僕に今の人生を選ばせたひとつの要因なのかもしれません。
以前にも書いた気がしますが、僕は父を尊敬していませんでした。
もちろん、夜通し働いて家族を養ってくれたことには感謝していますが、感謝と尊敬は別だと思います。
大人になってから、父親を尊敬していると公言する同級生に出会い、驚きました。そのとき、世の中には、「親を尊敬している人」と、「そうではない人」がいるのだと気づきました。
言い換えれば、「親のような人生を送りたい人」と、「親のいる場所から少しでも遠くへ行きたい人」。
僕は後者でした。生まれた場所からどこまで遠くへ行けるかが人生だと思っています。シベリアへ行けばいいということではなく、精神的な意味合いです、もちろん。
父が亡くなり、葬儀などの諸事を終えても、新たな感慨が湧き起こるようなことはありませんでした(葬儀には色々な興味深いこともありましたが、それはまた後日)。父はこの世からいなくなりましたが、それによって僕はなにも変わっていません。日々の暮らしを続け、小説を書いています。
目指してきたように、僕は親から遠い場所まで来られたのだと思います。
父の死を通して改めて分かったのは、自分が自立できているということでした。そのことが、少し寂しくもありますが、同時に誇らしいとも思います。
成長した子の姿を見て、父も満足していると思いたいです。
3月刊行の新作小説のプルーフを配布中です!
書店員さんは申し込んで、一足早くぜひ読んでください!