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部分再録 『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』

 

 

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『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』は、わたしが生まれて初めて制作したZINE『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』(2024年5月19日発行)の増補版として、2024年12月1日に発行された。現在も通販および一部書店で販売中である。この記事では、本書の短歌の章と、増補章を再録する。若干の誤字修正と、リンクの追加処理を行っている。

 

この2年の間に、社会状況も、わたし自身も、変わった。変わり果てた、と言いたくなるほどの大きな変化である。それでも、2024年のわたしが定めた射程距離は、まだ通用すると、ひとまずは信じる。

 

初版および増補版購入者の方々に、深く感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

短歌

 

ZIP!からスッキリまでに済ますべし 洗顔・朝食・服薬・出勤

 

もう死にますと泣くおまえにキャスターは見てくださいこの大きな毛蟹

 

健常な人なら遅れないらしい ごみ収集車と通勤快速

 

リモートもフレックスタイムも認めない天国に近いホワイト企業

 

一〇年は中学生を新卒に新卒を精神障害者にする

 

お電話です産業医からですおまえを壊した仕事場の手先からです

 

一一時行けず一五時なお行けず一九時も逃して病院が閉まる

 

灯油の移動販売車が遠ざかるドップラー効果でビビディ・バビディ・ブー

 

医薬品包装用アルミ箔 食前食後の祈りの名残り

 

人並みができぬということ躁うつであるということ 漬け丼を食う

 

 

 

労働をまず忘れよと主治医が言い忘れさせよと産業医に書く

 

勤め人:眠れば明日が来ることに毎夜律儀に絶望する人

 

行きそびれ電話しそびれた仕事場に持参しそびれた菓子折りを食う

 

手に職は今食うためのバフであり障害年金のデバフでもある

 

もう無理です今夜死にますさよならと波打つ背中をただ撫でさする

 

リビングに死体のように伏す夜は冷蔵庫もまたおかずのモルグ

 

夕食後風呂と着替えと歯磨きができないことも広義の不眠

 

泣き声が聞こえるならよし最低限生きてはいると知らせるサイン

 

零時半入眠と中途覚醒が天頂付近で交差している

 

夜それはうつの比喩でもありながら朝に馴染めぬわれらを包む

 

 

 

死にたいと言われ死にたいねと返す 圧力鍋には初日のカレー

 

ずっと家事代行に丸投げしてたから人生のことはわからないらしい

 

どこのご家庭にもある軟膏があるとは限らない家庭じゃないから

 

友達の垢抜けぬ彼氏を評すよう おまえの主治医優しそうだね

 

電話診療でもらったお薬はスマートレターで送られてくる

 

楽天の家族カードはわたくしを配偶者様と呼んでるらしい

 

労基法を遵守しているわけがない謎ブランドの天ぷら旨し

 

生きているだけでいいと言う資格は一人暮らしの部屋に忘れた

 

抜け毛 ふけ 垢 わたくしの断片を集めて熱を帯びる掃除機

 

職歴に書けない人生経験と洗濯物がうずたかく積まれ

 

 

 

イオンにはこの世のすべてがあるらしい イオンにないなら非実在らしい

 

メンタルと同じくらいにデンタルも大事にせよと健診の知らせ

 

白菜を山ほど寄越したご母堂はうつを心の風邪と呼ぶタイプ

 

故郷ではない場所にふるさと納税し故郷ではない場所で受け取る

 

ビタミンC・βカロテン・葉酸でうつは治ると折り込みチラシ

 

昨年の医療費控除総計は15万7,200円也

 

前人未踏の量の挽肉をハンバーグにして二日で制す

 

最近の鰻はおおむね違法だがイオンのはわりとエシカルらしい

 

今日生きた結果としての空腹を癒すため食らう(生きたいかは別)

 

じゃがいもの芽を取る捨てる死はいつもおまえのそばに捨てかねてある

 

 

 

友達をテレビが人生再設計第一世代と呼び捨てており

 

スキルとは定時出勤することと思い知りつつ天井を見る

 

もしかして黄色い線の内側はあちらから見た内側ですか

 

歩数計には表れぬ負荷 中央線で浮いたり踏ん張ったりする

 

障害者手帳を取得していますダイバーシティに貢献できます

 

八時間週五労働がデフォルトの国に生まれたそして壊れた

 

ストレスは見える化すると黄色くて襟とか袖にフィックスしてる

 

週五日朝から晩まで働きます働いたものがこちらになります

 

お気持ちで休職明けの人だよと囁かれつつおまえは今日も

 

残業なしの契約で雇用され一番混んでる電車で帰る

 

 

 

メンクリと片仮名で誤魔化してもなおご近所いわくきちがいの院

 

あの人もあの偉人も躁うつでした いかがでしたかブログが告げる

 

ヴァージニア・ウルフおまえのコートには丈夫なポケットついてて便利ね

 

満員電車で壊れた心を治しましょう通院がんばれ満員電車で

 

診察を加持祈祷と呼ぶ友は言う 親を愛せぬ罰なんだよって

 

当院のカウンセリングルームには時々しゃべる壁がおります

 

シーリングファンの影が繰り返し繰り返し落つ躁うつに似て

 

働けていたら障害年金は無理ですと言う主治医のペン胼胝

 

処方箋ライティングマシンと呼ぶなかれ仮にも一〇年かかった主治医だ

 

うつでいいゆっくりでいいそれでいいわたしは許す 社会は許さず

 

 

増補章

 

引用参考文献紹介、あるいはクィアネスとメンタル(アン)ヘルスを問い直すためのブックガイド

 

 二〇二四年五月に初版を発行した『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』に関して、再び筆を執ることになるとは思っていなかった。増補版を制作する機会を得ることができたのは、一重に読者の皆様の応援のおかげである。

 

 増補版にて加筆した本章では、本書にて引用・参照してきた書籍の一部の紹介をする。ここまでで書いてきたようなトピックに関心がある人にとっては、書籍名を拾ってブックガイドのように使うことができるだろう。と同時に、取り上げる書籍は、一人のジェンダー/ニューロクィアであるわたしがアイデンティティ構築を試みるにあたって必要としてきた支柱であり、これらの書籍について語ることは自分自身の精神的軌跡について語ることでもある。普遍的なことと個人的なことを架橋する語りは、ここ数年ずっとわたしの関心事であり続けてきた。日本語圏インターネットにおいては、「個人的なことは政治的なこと/The personal is political」という有名なスローガンが、その正当性は維持しつつも、個人攻撃の正当化に援用されるようになって久しい。被害/加害の二項対立的ポリティクスを際限なく拡大解釈していった結果としては、当然の帰結であろう。そんな状況下で今なおこのスローガンに意味を持たせられるような語りを、わたしは常に模索している。

 

 いわゆる「自分語り」は、浅薄な承認欲求や自己顕示欲の発露と見なされて忌避されてきた歴史がある。「隙あらば自分語り」を意味する古いネットスラングを耳にしたことがある人は多いだろう。それでも自分語りは決してなくならなかった。中央の文壇、いうなれば男性の尺度で評価されることは少なかった──あるいは作品への評価ではなく作者本人への下世話な好奇心として、過剰に取り沙汰された──にせよ、おのれについて語る人はいなくならなかった。たとえばマルグリット・デュラスの小説『愛人 ラ・マン』や、ルイーズ・ブルジョワの彫刻作品『ママン』といった、私的な経験をインスピレーションとしていることを公言している(女性)表現者の歴史的名作に触れたときに、われわれは感銘とともに、ある種の居心地の悪さも感じてはいないだろうか。このいたたまれなさ、過剰な(と感じられる)自意識へのあてられ・ひるみこそは、今もわれわれの内にあるミソジニーである。

 そんなミソジニーがありながらも、自分語りは、男性的評価尺らは距離があるにもかかわらず、ではなく、男性的評価尺から距離があるからこそ、オルタナティブな表現手段として選ばれ続けてもきた。インターネットの発達やSNSの隆盛、日本語圏インターネットに限っていえばnoteというプラットフォームの普及。技術的進歩に伴って、雨宮まみ、こだま、永田カビ、あるいは岸田奈美といったエポックメイキングな書き手が躍進し、出版不況といいつつ文学フリマのような軽出版イベントはそこそこ盛況で、今自分語りは爛熟の一途を辿っているといってよいだろう。

 

 そんな「私たちの表現手段」である自分語りが、小さくは編集者組織、大きくは国家・家父長制・資本主義といった権力構造にどのように呑み込まれ得るのかを看破したのが、生活の批評誌編集部『生活の批評誌 NO.5 「そのまま書く」のよりよいこじらせ方』であったと思っている。編集長の依田那美紀をして「この号を作るためにこの雑誌を作ってきたのだと思った」と言わしめた本書は二〇二二年五月初版発行である。#ME TOOムーブメントや、当時すでに「トレンド」と化していたトランスジェンダー差別を含む、私的な語りを起点としたインターネットフェミニズムをその陥穽含めて相対化するものであるとわたしは読んだ。現在二〇二四年十一月、激動のインターネットにおいて二年半という年月は決して短くないが、収録の依田の筆「幸福の表明を破る」は今なお鮮やかにわれわれを撃つ。『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』では直接的な引用はしなかったものの、本書は依田那美紀の影響下で制作された。『生活の批評誌 NO.5 「そのまま書く」ことのよりよいこじらせ方』を、第一の参考文献としてここに挙げる。

 

seikatsuhihyou.hatenablog.com

 

 第一章「『先生』のこと──わたしは『自立』しているのか」で引用した『オタク女子が、4人で暮らしてみたら。』の著者である藤谷千明も、わたしに影響を与えている。フェミニストという名乗りを引き受けている依田那美紀とは異なり、藤谷千明はわたしが知る限りはその著作の中で自らをフェミニストと位置づけてはいない。文筆のシーンにおいて藤谷をどこかに位置づけて安心したがるのはむしろ外部のほうで、「女同士の美しき連帯の証明たる女友達とのルームシェアの実践者」としての期待はその最たるものであろう。この期待を藤谷が引き受けるつもりがないことは過去の発言からも明らかである。『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』本文にも書いたように、藤谷が実践しているシェアハウスとわたしのそれは、人数も経済事情も大きく異なり、シェアハウスであること以外に共通点を探すほうが難しいような有り様である。本来比較対象にもならないものを、それでも例に挙げたのは、周囲からの耳障りのいい期待(物語、といってもいい)に抵抗する姿勢にわたしが親近感を覚えているからである。本人の自己認識がどうであれ、藤谷の仕事は現代の抵抗文化であり、フェミニズムに示唆を与えているとわたしは思っている。存命のフェミニストとして尊敬している人を挙げるなら、わたしは迷わず依田那美紀と藤谷千明の二人だけ・・を挙げる。それは個人的な話すぎるって? 思い出してほしい、わたしはずっと個人的な話をしている。参照元を辿ることはわたしの精神的軌跡を辿ることでもある。書籍でなく人との出会いもまた、わたしに大きな影響を与えている。

 

www.gentosha.co.jp

 

 依田那美紀と藤谷千明の話を真っ先にしたかったために時系列が前後するが、序章にて引用した石川准『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』は、本書タイトルの直接的な参照元である。冒頭末尾でやっと自己紹介をする構成も、直接的な影響を受けている。石川は逸脱論・差別論・エスニシティ論を専門とする社会学者で、全盲の視覚障害者でもある。『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』は、人種差別や障害者差別といった具体的な事例を取り上げつつ差別に内在するアイデンティティ・ポリティクスを解き明かすもので、ここで語られる排除の力学は現代における差別の事例となんら変わらないことに驚かされる。とりわけノンバイナリーへの差別を理解するにあたって、石川の「存在証明」論は非常に役に立った。初版発行は一九九二年で、文庫化もしておらず、現在は絶版のようで、入手機会が少ないのが惜しまれる。そしてここでも個人的な話をするのだが、『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』をわたしに紹介したのは、かつて在籍していた大学で出会ったI先生である。I先生は障害学生支援課の担当教員であり、出会いはわたしのカウンセラーとしてであった。関わるのは月一回のカウンセリングのときくらいで、交流は短かったが、当時わたしを生き永らえさせた人の一人である。カウンセリングはいつも予定時間を大幅に過ぎて、最後のほうはわたしの話そっちのけで天下国家を語る壮大な話になりがちであった。学生と教職員という立場上の勾配はありつつも、I先生はわたしを一人の大人として、社会を語りあう同胞として扱ってくれたと思っている。『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』は先述の通り入手機会が少ないので、I先生に教わらなければ手に取ることはなく、わたしの書くものも違っていただろう。

 

www01.hanmoto.com

 

 本書のキーワードである「アイデンティティ」をタイトルに冠した書籍としては、アミン・マアルーフ著、小野正嗣訳の『アイデンティティが人を殺す』も挙げる必要がある。『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』では、「ある人のアイデンティティは、自律したいくつもの帰属を並べ上げたものではありません。それは『パッチワーク』ではなく、ぴんと張られた皮膚の上に描かれた模様なのです。たったひとつの帰属に触れられるだけで、その人のすべてが震えるのです」という一節を引用した。この一節こそは、複数のアイデンティティを、越境・架橋するというのも厳密には違う、複数でありながら一つの織物として語る、わたしが目指してやまない文筆の理想像であると思っている。わたしは目指している。たったひとつの帰属に触れるだけでその人のすべてが震えるような、精緻に繋がった語りを試みている。そして、またしても個人的な話をすると、『アイデンティティが人を殺す』には、Nさんという方からわたしへのプレゼントとして出会った。Nさんこそは、わたしの平凡な人生に立ち現れた、最も誇り高いトランスジェンダー/ノンバイナリーであった。わたしの書くものはNさんにとっては賛同できない部分もあると思われたが、一度だけお目にかかる機会を得られた。そんなNさんもとうの昔にXから身を引き、現在の消息は存じ上げない。賢明な人からXを去っていく。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』の目次の「第一章 『先生』のこと──わたしは『自立』しているのか?」「第二章 生家のこと──わたしは誰のものか?」といった、疑問形を章の名前とする形式は、トーマス・ページ・マクビー著、小林玲子訳『トランスジェンダーの私がボクサーになるまで』にヒントを得ている。この本も、「私は本物の男リアル・マン』なのか?」「私は性差別主義者セクシストなのか?」など、疑問形が章の名前になっている。『トランスジェンダーの私がボクサーになるまで』は、女性として生まれたが男性に性別移行をしたジャーナリストの著者が、マディソン・スクエア・ガーデン史上初のトランス男性ボクサーとしてシス男性のボクサーと闘った体験を綴ったエッセイである。ボクシングは、男らしさの極みである(とみなされている)趣味だ。女性の境遇を自らの意志で離れた著者がそこにあえて手を出すことは、男性性への過剰な憧憬、同一化、もっというとミソジニーゆえではないかとする声に抗い続ける営みを必要とする。ボクシングという一つの極限的体験を議題としつつ、これはわたしを含む女性を割り当てられたジェンダークィアに生涯つきまとう普遍的な問いでもある。われらは葛藤し続け、考え続けなければならない。男とはなにか。女とはなにか。自分はなぜ男/女であれなかったのか。自分が、単純なミソジニーやミサンドリーや現実逃避等々のゆえではなく、深慮した上で男/女として生きることをやめたのだと、外部にわかる形でそれとなく示し続けることが、現状この国でジェンダークィアに求められる強さであり、事実上の規範であるとわたしは思っている。トーマス・ページ・マクビーに関していえば、作中ではかつて継父に性的虐待を受けていたことが明かされており、読者は、この著者は性的虐待のトラウマのせいで女性性を嫌悪して男性になりたがっているだけなのではないか、「本物の」トランスジェンダーではないのではないかという疑義を容易に想起することができる。ジャーナリストである著者の卓越した筆は、その勘繰りを払拭できるだけの「重み」を勝ち得ている。これは著者が文筆のプロであるから成し得たことだ。文筆という表現手段を持たない大半のジェンダークィアがどのように「重み」を提示するかは人それぞれであるが、いずれも極めて困難な営みであることには変わりない。

 

mainichibooks.com

 

 女性の境遇を離れた広義のトランスジェンダー/ノンバイナリーの語りとしては、本邦からは吉野靫よしのゆぎ『誰かの理想を生きられはしない とり残された者のためのトランスジェンダー史』が世に出ている。軽く検索してヒットする吉野靫のプロフィールは、乳腺切除術(胸オペ)に際して医療事故に遭い、前代未聞のトランスジェンダー医療事故原告として二〇一〇年まで法廷闘争を闘った人物としての経歴であろう。『誰かの理想を生きられはしない』ではその裁判の話にも尺が割かれるが、著者が立ち向かった/今も立ち向かっているのは、ただの下手くそな医者ではなく、この国の医療制度・法制度の不備・矛盾である。『誰かの理想を生きられはしない』は二〇二〇年十月発刊だが、収録されている文章の初出は、古いものは二〇〇〇年代まで遡る。ノンバイナリ―という言葉が知られるようになる前にすでに、本邦の医療制度・法制度が当事者の多様な実態を歪める規範として立ちはだかっていることへの批判が世に出ていたことに驚かされる。現在盛んに議論されているノンバイナリー差別/ノンバイナリー差別批判の一面は、この本にてとっくに既出であると感じる。本書は、折に触れて立ち返る基本としてわたしの中にある。わたしが『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』の第一〇章に書いた、「とあるトランスジェンダー/ノンバイナリー当事者・研究者である人が、初の単著の書き出しを砂漠を歩く疲れ切った自己像の幻影的描写ではじめたのが、異なる背景を生きる他者の語りでありながら、著者が意図した文脈を超えてわたしの腑にも落ちる」とは、『誰かの理想を生きられはしない』の冒頭のことである。

 

www.seidosha.co.jp

 

 書籍ではないが他者から受け継いだ言葉についても書いておきたい。第九章「その虹色は誰のためのものか」末尾で、わたしは次のように書いた。

 

わたしは、わたしのことばを信じている。わたしのことばは今大いなる振りかぶりの最中で、いずれ数年がかりの大ぶりのカウンターとなって現代に到達し、未来を切り拓いてくれると信じている。

 

 この一節は、友人の言葉を拝借している。彼のインターネット上の名前はnai_inhexという。拝借した原文(現在では削除されている、Xの投稿)は次のようなものだった。

 

言葉は強いよ。お前の敵の顎なんぞ易々砕く。
たとえ一度負けても、数年がかりの大振りのカウンターが、お前の進む先をかならず打ち開いてみせる。

 

 nai_inhexもまた、終章「濁流を往く同胞へ」で触れた中村と同じく、わたしの人生にたまさか立ち現れ、癒えない傷を残して去った人物である。わたしは二〇歳ごろに彼と出会い、友人、親友、家族、きょうだい、心中相手、魂の妹とも言われ、共依存的に繋がりあった時期も意識的に距離を置いた時期もありつつ、数年来途切れることなく濃い付き合いを続けていた。最後のやり取りは、二〇二一年一二月二日の昼十二時すぎのLINEである。死亡推定時刻は十三時であった。

 

www.infernalbunny.com

 

 nai_inhexの二十七年間がどのようなものであったかは、彼が遺したブログから窺い知ることができるので、ぜひ検索してみてほしい。

 

nai-inhex.hatenablog.com

 

 nai_inhexは被虐待児であった。それも、わたしが出会ってきた人間の中で最も凄惨な身体的・精神的・経済的虐待を経験したサバイバーであった。彼は眠るのすら布団ではなく、玄関マットの上だった。冬は犬を抱いて暖を取っていた。家の庭には母親が見事な薔薇園をこしらえていたが、丹精込めて薔薇を世話するのと同じ手で、彼は夜ごと昼ごと殴られ続けた。犬を飼い、一軒家で庭をこしらえる金銭的余裕はあったのに、両親は最低限の食費・被服費すら彼に支出しようとはしなかった。世帯としては裕福であったために、福祉制度の網目も彼を掬わなかった。中卒で働きはじめ、独力で高等学校卒業程度認定試験に合格し、生家を出奔。医療従事者として就職し、学費と生活費を独力で捻出しながら大学で勉学を続け、COVID-19禍における過重労働に耐え、二十七歳で自死。そんな彼の姿を近しい友人の立場から垣間見ることができたのは、わたしの人生における僥倖であったと思う。結果的に癒えない傷を負うことになったとはいえ。

 

 わたしは相模原の津久井やまゆり園を忘れないのと同じように、nai_inhexを忘れないでいることができる。宇治ウトロ地区を、幡ヶ谷バス停を、立川のラブホテルを、川崎市登戸を、小田急線を、香港のダイヤモンドヒルを、ウクライナを、ガザを、この社会の歪みによって失われた命と尊厳を、忘れないでいることができる。忘れないで、書き残すことができる。わたしは自分のささやかな文章力を、一つにはnai_inhexのことを伝えるために使うと決めている。だからブログでも散々「ネタ」にしてきたし、本書においても、増補章に突っ込む余地ができたのは幸いであった。

 

 触媒としてのわたしは、nai_inhexの言葉を受け継いでいる。出会ってきた生者たちや死者たちの言葉を、受け継ぎ、積み上げる。濁流を往く飛び石として積み上げる。わたしが力尽きても、わたしより若くわたしより聡明な人が、わたしの先に新たな足場を作る。

 

 本書は、二〇二四年十一月時点までに積み上げた、わたしなりの飛び石である。わたしという卑小な個人をここまで歩かせた言葉たちに最大の感謝を捧げつつ、筆を置く。

 

[了]

 

 

www.infernalbunny.com

 

 

 

 




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