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漫画『アスペル・カノジョ』を読む──精神疾患、人間、社会、ジェンダー

 

 

※本記事はアフィリエイトリンクを含みます。

 

この記事では、好きな漫画『アスペル・カノジョ』の感想を書いていきます。長文です。未読の方の興を削がないようには注意していますが、実際の台詞や展開に具体的に触れているので閲覧は自己責任でお願いします。

 

 

『アスペル・カノジョ』は、原作萩本創八・作画森田蓮次による漫画作品である。当初は萩本創八単独によるインディーズ作品としてWeb上で発表され話題となり、森田蓮次の作画で商業化された。2018年3月から2021年1月までコミックデイズで連載され完結している。現在、ヤンマガWebで第2話まで登録不要の無料立ち読みが可能なほか、各種配信サービスでも配信されている。

 

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単行本全12巻も発売中。

 

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作画の森田蓮次は、近作には『推しがキモモじゃダメですか?』(祥伝社刊)、『怨霊ランチ』(集英社「ジャンプ+」読切)、『舞菜さんは今日も全力❤︎』(マグコミ読切)などがある。

 

magcomi.com

 

原作の萩本創八は、2024年6月から一迅社のウェブマンガ雑誌・ComicHOWLにて新連載『ファヴェーラの漫画家』をスタートさせている。こちらは作画は樽路 実(たるろみのる)。

 

ichijin-plus.com

 

 

※本記事は、2019年10月に公開した過去記事「日々が、愛のかたまり。漫画『アスペル・カノジョ』感想」を基に大幅に加筆したものです。

 

 

 

行き場所のない未成年女子に、大人としてどう対応するか

コミックデイズ公式によると、『アスペル・カノジョ』のあらすじは以下の通り。

 

新聞配達で生計を立てている同人作家・横井の家へ鳥取から突然やってきたのは、「ファンだ」という斉藤さん。彼女は見ているもの・感じている事・考えやこだわりが、他の人と違っていて……。「生きにくい」ふたりが居場所を探す、ふたり暮らし物語。

 

物語は、斉藤さんが横井の家に突然押しかけるところから始まる。ストーリーはおおむね、横井の一人称独白で進行していく。

斉藤さんは18歳。作中時間当時の法律では18歳はまだ未成年である。高校は中退しているので学生ではない。肩書をつけるならば「18歳無職女性」でしかなく、福祉による救済の網目から絶妙にこぼれ落ちてしまう立場にある。

斉藤さんの診断名は自閉症スペクトラム障害・強迫性障害・パニック障害・鬱病。精神障害者保健福祉手帳を取得している。過去には何度も精神科入院を経験し、今も状態は悪く、通院・服薬が欠かせない。実家では父親に暴力を振るわれ、兄にも暴言を吐かれ、母親は辛うじて良識人ではあるものの父親を止めるには至らない。

 

実家は機能不全家庭。

学校では凄惨ないじめを受け、友人は皆無。

就労は不可能で、経済力は一切ない。

18歳なので児童福祉法の保護を得ることはできない(17歳までなら十分な支援を受けられるかというと現実はそうもいかないのだが、ここでは置いておく)。

学生ではないので学生向けの窓口を利用することもできない。

家出しても補導こそされないが、賃貸を借りるのはほぼ不可能。そもそも一人暮らしができる状態ではない。

実家に居場所がない若者向けの民間の電話相談窓口などは存在しているが、肝心の保護施設は多くが都会にしかなく、鳥取県民の彼女は利用できない。実家という資本を失った未成年の受け皿は、とりわけ地方においては驚くほど少ないのである。

 

漫画は、そんな斉藤さんの「詰み」を極めてさりげなく、しかし一つ一つ確実に描写していく。

物理的にも精神的にも、あらゆる面で行き詰まったと感じた彼女は、ほとんど自暴自棄のように、最後の行動力を振り絞って、大好きな漫画の作者である横井に会いに上京するのである。

 

出典:アスペル・カノジョ3 第21話「東京へ〔前編〕」

 

出典:アスペル・カノジョ3 第21話「東京へ〔前編〕」

 

斉藤さんは、「(東京に来て、横井に)会えなかったらそのまま樹海に行くつもりでした」と無邪気に語る。これが横井の同情を買うための脅しやハッタリではないことは、丁寧に積み上げられた斉藤さんの人物描写から読み取ることができる。着の身着のまま転がり込んできた、帰る場所のない18歳に、どういう対応をするのが適切か。23歳の主人公は、いくつもの重大な決断を否応なしに迫られることになる。それは、介護の苦しみに似た、終わりのない、ゴールの見えない、わかりやすい成果も与えられない、24時間365日継続する孤独な作業であろう。

生そのものの瀬戸際まで追い詰められている斉藤さんを前に、横井は常に決断をし最善を選択する必要があるが、その選択が真に最も善きものだったかの正解はどこにもない。この「行けども行けども手探り、すべてが不確か」な状態の苦痛はまさに、発達障害という、明確な治療法がない特性の生きづらさそのものと響きあう。横井は、達成感というモチベーションがほとんど得られないまま、それでも日々決断という莫大な思考コストを払い続けなければならない。しかも、「不正解」を選択してしまったら、たった一つの言動が斉藤さんを深く傷つけ、関係が破綻する可能性は常にある。彼女はそれくらいぎりぎりの状態であるとして描写されている。実際作中では、横井の言動が元で斉藤さんが自傷行為に至る展開がある。

不正解の選択とまではいかなくても、最善ではない選択をしてしまうこともあり得る。この場合も、選択ミスはポイントのように積み重なって、いつか閾値を超え、やはり関係の破綻、最悪の場合は斉藤さんの自死というバッドエンドに結実するのだろう。なにが間違いだったのか知らされることもなく、最悪の結果のみを突きつけられるのである。

あまりにも重いタスクであるが、精神障害者と同居するという営みの一面は、まさにこのようなものである。

フィクション的都合によって福祉や行政といった「社会」を存在しないものとして展開していく漫画は多いが、『アスペル・カノジョ』の世界にはちゃんと「社会」がある。二人で精神科に通院する描写も、薬の調整に苦心する描写も、状況を第三者に共有し相談する描写もある。経済面で苦慮する展開ももちろん待ち構えている。横井のバイト先の先輩や上司、同じ発達障害を持つ同僚とその家族、アパートの隣人でセックス依存症に悩む女性、アパートの大家、大家の子どもで対照的な性格の姉と弟など、二人に関わる第三者は意外にも多い(そしてそれぞれにキャラが立っていて魅力的である)。斉藤さんも消息不明になっているわけではなく、母親と連絡を取り合っているし、のちには家族と再び対峙する展開にもなる。その上で、横井と斉藤さんは、再現性のない、正解のない、彼らだけの関係を模索していくのである。

 

家出少女となし崩し的に同居することが正解か不正解かと単純に問われれば、多くの場合は正解ではないだろう。しかし、綿密な設定に裏打ちされて、物語は視野狭窄的な共依存からも、弱者保護にかこつけた搾取からも距離を置くことに成功している。横井の行動に個別的な是非を問う余地は常に開かれている。あなたとわたしの関係という正解のない物語を日々選択していく行為そのものがこの漫画のストーリーである。

 

既存の作法を封印した人間関係の面白さ

斉藤さんには、(定型発達的な)常識が通用しない。よって横井は、日常生活のすべての局面において「対斉藤さん仕様」の対応を模索する必要がある。ストーリーは横井の試行錯誤を追うことで進行していく。

たとえば斉藤さんは、横井の家にアポもなく押しかけ、そのまま居座って宿泊し、その日の夜に突然リストカットをする。

 

出典:アスペル・カノジョ1 第3話「どっ」

 

立派な迷惑行為であるが、横井は必要以上の大騒ぎも叱責もせず、まずは彼女の言い分を聴く。斉藤さんの突飛な言動に怖じない横井さんの分析の鮮やかさは本作の大きな魅力である。

しかし思えば、程度の差こそあれ、対人関係とは常に個別的である。目の前にいてわれわれと対話しているAさんは、たとえば「●歳の男性」「独身」「職業は▲▲」などの属性を持つ。われわれは、それらの属性にフィットすると推測される、最大公約数的な対応を想起することができる。しかし、Aさんは属性で隅から隅まで切り刻める存在ではなく、誰とも異なるAさんその人であるのだ。われわれが対話しているのは「▲▲の仕事に就いている●歳の独身男性」ではなくてあくまでAさんである。社会化された人間は、人間関係の煩雑さを緩和するための「作法」として敬語や時候の挨拶などのツールを使うが、それでもやはり、対話とは本来「わたし」と「その人」だけのもの。斉藤さんは、人間関係のこのような個別性を最もあからさまな形で体現する存在である。

そんな彼女を、横井は、色眼鏡のないフラットな眼差しで観察し、対話を繰り返す。そして、「23歳男性、漫画家、新聞配達員、etc.」と「18歳女性、無職、自閉症スペクトラム障害、強迫性障害、パニック障害、鬱病、etc.」の関係──ではない、紛れもない「横井拓」と「斉藤恵」という二人なりの関係を作り上げるのである。

 

事実、二人の関係はひとくちには説明できない。二人はひとまずは友情と呼べるような信頼関係を築くが、斉藤さんは居候の立場なので、対等な友人と呼ぶには権力勾配がありすぎる。

かといって恋人でもない。横井も斉藤さんも、恋愛感情(そして性欲および他者への性的慕情も)を持っている人間であることは早い段階で明示される。おそらく二人ともシスジェンダーでヘテロセクシュアルである。少なくとも、お互いを恋愛対象そして性の対象として意識しあっている。しかし、一般的な恋人同士がするような愛情表現にはなかなか進展しない。この遅さも、単なる羞恥や遠慮によるものではなく、斉藤さんが抱える根本的な劣等感や心的外傷といった複雑な要素が関わっている。横井の側にも葛藤がある。横井が同意のない一方的なセックスは望まない人間であることはしっかり描写された上で、求めれば斉藤さんはおそらく応じてくれる状況でも自分から求めないことで精神的優位に立っていたいという複雑な欲望を持っていることも明かされる。さまざまに葛藤しつつ、二人が少しずつ恋人同士としての愛情表現方法を試みていくさまはラブストーリーとして出色である。

アパートの隣人に関係性を問われた横井は、「説明に何時間もかかる関係……です」と答える。職場の先輩に「デート中?」と訊かれた際には、「……に近いのかな? 微妙です 説明難しいです」と答える。いずれも、横井の返答に対して斉藤さんは積極的に肯定もしないが否定もしない。ここには、異性愛規範のテンプレに拠らない人間関係を描く物語としての面白さがある。関係そのものをさまざまな角度から問い直す作業は横井自らが行っており、読者は横井とともに名づけられない人間関係の妙味を楽しむことができる(これはある種の二次創作にも通じる欲望であり、横井が流行りのコンテンツのR-18二次創作漫画で生計を立てているのは納得感がある)。本作は扱うトピックこそ重いが、手つきは決してシリアス一辺倒ではなく、オフビートなユーモアもたびたび炸裂する。『アスペル・カノジョ』は優れたラブコメでもあるのだ。

とはいえ、斉藤さんは横井にとって愛らしいだけの都合のいい存在というわけではない。斉藤さんは善良で可哀想な天使ではない。共感性が低く社会経験も希薄なため、悪気なく暴言を吐くこともしばしばある。衝動性が高く、感情を制御するのが不得手で、人を叩くことも珍しくない。とりわけ、単行本第1巻第3話で、なんの罪もない通りすがりの飼い犬を蹴り飛ばすくだりは強烈である。これも心的外傷ゆえのことなのだが、漫画のヒロインとして受け入れがたく感じる人は多いであろう。

 

出典:アスペル・カノジョ1 第3話「どっ」

 

斉藤さんは、マジョリティにとって受け入れやすいような、善良で可哀想な無辜のマイノリティではない。ユニークな個性と表裏一体の激しい加害性を飼い慣らす術を教わってこなかった、手負いの獣のような女性である。庇護欲をお手軽に満たしてくれるお人形のような存在からは程遠い、まさしく人間なのだ。

しかし横井は、彼女の加害的な面もすべてひっくるめて、真摯なコミュニケーションを行う。肯定はしないが、受容をするのである。横井は、斉藤さんのどんな面に対しても、善悪をジャッジすることは後回しにして、まずは受容する。斉藤さんは、おそらく生まれて初めて、存在を肯定される。おのれの中に、他者の居場所を作ること。それは、誰もが無意識のうちに実践している、シンプルでクラシカルで最もありふれた、愛の証しであろう。

 

 

ジェンダーロールを封印したキャラクターの面白さ

横井と斉藤さんは、典型的なジェンダーロールに頼ることなく周到に造型されている。ヒロインである斉藤さんの容貌をジャッジする言葉がほとんど出てこないのも印象的である。横井が斉藤さんに面と向かって告げるシーンがないのはもちろん、独白にすら登場しない。斉藤さんの顔面への直接的言及は、物語も終盤である単行本第11巻第83話「変わる状景」においてようやく登場する。二人が住むアパートの大家の娘が、斉藤さんの容貌を「男の子みたいな顔」と形容するのだ。

 

出典:アスペル・カノジョ11 第83話「変わる状景」

 

しかしこのくだりで印象づけられるのは大家の娘自身の容姿コンプレックスであり、斉藤さんの顔面描写は本筋ではない。ほかにも、大家の息子が斉藤さんの髪型を貶したり化粧をしないことを非難したりするシーンがあるが、このジャッジも、「女を奴隷にするコツを教えてやるよ」などと発言する彼のミソジニストとしての性格描写のために登場しており、斉藤さんの顔面描写のためではない。

森田蓮次による作画はシンプルで洗練されており、キャラの美醜の判断が難しいのも効果的である。斉藤さんの顔を初めて見たときの横井は「少年……? いや 少女?」と独白しているので、少なくとも性的魅力の記号をわかりやすく纏った容姿ではないことは読み取れる。

 

出典:アスペル・カノジョ1 第1話「訪問」

 

横井が斉藤さんにドキドキする描写は早くから挿入されるが(ちなみに横井は恋愛・性愛ともに未経験である)、それを斉藤さん本人に悟らせるような言動は厳に慎まれている。斉藤さんがパニック発作を起こした際に、斉藤さんからの求めで胸に触れるような展開もあるが、そのような場面では性的な気配は自然に後景化しており、横井の人間性を印象づける。

 

出典:アスペル・カノジョ3 第24話「眠りの先」

 

一方で、ワンルームで同居しているとマスターベーションがしにくいことについて語り合う場面もあり、性の問題は、人と人の共同生活に伴う課題の一つとしてフラットに登場する。不自然に隠蔽されているわけではない。その上で二人は、少しずつ性的な親密さも深めていくのである。ここでも、ステレオタイプな男らしさ・女らしさを踏襲した都合のいい展開にはならない。二人は、そうしなければ生きられなかったから「らしさ」に拠らない人間関係を築いているのであり、まず大きくは定型発達の作法から外れているのだが、男女のステレオタイプからも必然的に外れていく。

 

出典:アスペル・カノジョ6 第47話「room in room」

 

推測だが、おそらく作者はフェミニズム的な要素を強いて入れようとはしていない。インターネットフェミニズムシーンで注目されたいという意欲があるなら選択しないはずの台詞回しも散見される。しかし、必然性に裏打ちされてフェミニズム的発想が要請されており、結果的に本作をフェミニズム漫画としても優れたものにしている。

 

お約束を拒否する作品であるから、斉藤さんが初めて横井の下着を脱がすのは色っぽい場面ではなく、高熱を出して倒れた横井の下痢便の始末をするときである。色っぽいどころの騒ぎではない。下痢の世話をすることで親密さを深める展開は、マヌエル・プイグの名作小説『蜘蛛女のキス』を思わせる。『蜘蛛女のキス』はブエノスアイレスの刑務所の一室を舞台にした会話劇で、女性装のゲイのモリーナと、政治犯の青年革命家のヴァレンティンの交情を描く。二人は来歴も価値観もセクシュアリティも異なり、幾重にも隔てられているが、ヴァレンティンが下痢を失禁してモリーナが看病したのをきっかけに心理的距離を縮めていく。ヴァレンティンはシスヘテロ男性で、最初はモリーナを軽蔑すらしていたが、最終的には二人はセックスにも及ぶ。もちろん物語の肝は「セクシュアリティを超えた美しき愛」などでは決してなく、身体を重ねてなお二人を隔てる権力機構の暴力性なのだが、大いなる規範にがんじがらめになった身体がたまさか触れあうことで反逆可能性を帯びる場面として、下痢看病シーンもセックスシーンと同じくらい清冽な印象を残す。

 

蜘蛛女のキス (集英社文庫)

 

横井と斉藤さんの場合も、ケアする者-ケアされる者という、斉藤さんからすると固定的・永続的と感じられていたであろう関係が思いがけず逆転するシーンとしてみることができる。『アスペル・カノジョ』は横井の成長譚でもある。彼もまた、斉藤さんからさまざまなものを受け取って変化していく。関係は決して一方的ではない。

 

月経描写が伝える痛み

性の問題といえば、本作は、ヒロインの困難の一つとして月経の描写を継続的に行っている稀有な作品でもある。ただ月経が登場するだけではなく、継続的に話に絡んでくるのが凄いところだ。斉藤さんが月経に苦しむ描写が初めて現れるのは、単行本第5巻収録の第38話「知らない痛さ」においてである。二人が同居を始めて間もないころ、月経が来た斉藤さんが床を転げ回るほど痛がって、横井が仰天するくだりがある。

 

出典:アスペル・カノジョ5 第38話「知らない痛さ」

 

月経痛は、各話タイトルの通り、シス男性である横井にとっては「知らない痛さ」だ。心通じあっている同居人ですら踏み込めない、真に一人で背負うしかない苦痛の端的な例だ。そしてこれは月経痛に限らず、精神的苦痛を含むほかの感覚においても同じである。どんなに近くにいてもあなたとわたしは他人同士であるが、それを承知した上でできる限り心地よいあり方を模索していくという、『アスペル・カノジョ』の基本姿勢が提示される。第38話終盤の横井の言葉を斉藤さんは「横井さんが詰まっている気がしました」と評する。ここにあるのは横井らしさであり、同時に『アスペル・カノジョ』らしさでもある。

 

「男の人はこういう毎日の闘いとかないんですか?」

「男については分かんないけど俺はないよ」

 

「今の言い方好きです 男のことは分からないって」

「だって俺は俺のことしか知らないもん」

「なんか今の言葉に横井さんが詰まってる気がしました」

 

出典:アスペル・カノジョ5 第38話「知らない痛さ」

 

そして、月経が描かれるのはこの第38話だけではないのが凄いところで、ずっと話が進んだ第9巻第71話「赤い街〔前編〕」においては、月経周期が乱れて経血がズボンに染みてしまうハプニングが描写される。

 

出典:アスペル・カノジョ9 第71話「赤い街〔前編〕」

 

フィクションで描かれることは少ないが、現実世界では非常にありがちでリアルな現象である。斉藤さんの月経の苦しみは、漫画としての「月経の回」だけで起こるものではなく、いちいち描かれずとも彼女がずっと付きあっているものの一つなのだと改めて印象づけられる。月経は人類の約半数が経験するありふれた生理現象だが、表立って言及されることはフィクションにおいても現実世界においても少ない。当たり前にあるはずのものなのに排除されているのは、発達障害者である斉藤さんが大方のフィクション作品を指して「どれもこれもわたしみたいなのが出てこない世界を描いてる」と嘆くくだりと響きあう。『アスペル・カノジョ』は、発達障害特性というわかりやすいトピックに関してだけではなく、微に細を穿って、およそ人間につきまとうはずなのに周縁化されがちな問題を精緻に掬い上げているのである。

ちなみに、経血が染みてしまう回の赤色のイメージは、回の終盤で横井が血尿を出す急展開にスムーズに繋がり、漫画としての技巧も光る。その血尿はストレス性のものと診断され、斉藤さんは自分が気苦労をかけているせいだとして自責し、横井もその自責を否定できない。危なっかしくも一応は穏やかであった二人の関係は揺らぎ、赤信号が灯り、次の段階に進むのである。

 

 

細密描写と省略の妙

※この項目では「米子の雪」編で起こる大きな出来事を一つネタバレします。

 

漫画的技巧に関してもう少し触れておくと、斉藤さんが時間の経過とともに髪が伸びたり散髪して短くなったりして髪型に変化があるのも特筆すべきであろう。

 

出典:アスペル・カノジョ6 第47話「room in room」

 

出典:アスペル・カノジョ11 第90話「20歳の報告」

 

ヒロインの髪型がコロコロ変わるのは漫画作品としてリスキーであろうが、当たり前の現象としての自然さが優先されているのだ。

斉藤さんが号泣するシーンでは眼鏡のレンズに必ず水滴がついているのも、同じ眼鏡ユーザーとしてポイントが高い。眼鏡をかけたまま泣くと細かい水汚れがレンズに飛び散るのは、眼鏡ユーザーなら経験があるだろう。

 

出典:アスペル・カノジョ8 第65話「米子の雪 その15」 ※コマの一部切り抜き

 

出典:アスペル・カノジョ12 第97話「秋霜烈日 最終話」 ※コマの一部切り抜き

 

しかし、月経や髪型や眼鏡をはじめとする細かな日常描写の積み上げが光る一方で、本作を一読して印象に残るのはむしろ大胆なまでの省略の妙であることは強調しておきたい。

第7巻第51話「米子の雪 その1」から、物語の舞台は東京を離れ、斉藤さんの故郷である鳥取県・米子市に移る。

 

出典:アスペル・カノジョ7 第52話「米子の雪 その2」

 

それまでの各話タイトルは多くても〔前編〕〔後編〕程度の2部構成だったのが、「米子の雪」編は巻をまたいで実に16話も続く大長編である。実質的な『アスペル・カノジョ』第二部であり、その長さに相応しく、実にさまざまな出来事が起こる。具体的内容にはできるだけ触れないでおきたいが、やむを得ず一つだけネタバレをすると、「米子の雪」編からは、かつて斉藤さんに凄惨ないじめを行った主犯の同級生に法的措置を検討する展開がある。さまざまな思惑の末に、最終的に法廷闘争に踏み切るのは斉藤さんではなく、斉藤さんが退学後にいじめのターゲットとなったべつの同級生となるのだが、斉藤さんも当事者かつ証人として裁判に協力する。裁判ともなれば複雑な行政手続きは必須だし、法廷内でも法定外でも膨大な時間と手間がかかる。過去の回想や、憎い主犯との感情のぶつかり合いなど、ドラマティックに描けるネタはいくらでもありそうだが、なんと法廷闘争そのものの様子はほとんどダイジェストといっていいくらいに簡素なもので終わる。代わりに尺が割かれるのは、斉藤さんへのいじめに積極的に加担していたがのちに自身もいじめられた同級生・小倉との交情である。小倉は、いじめ被害者だが加害者でもあるという複雑な立場で斉藤さんと再会する。この小倉の初登場シーンも実に鮮やかだ。斉藤さんが、小倉へのさまざまな思いが去来する中、勇気を出して連絡を取ろうとするシーンでその回は一旦終わり、次の回ではもうファミレスで待ち合わせしていて、小倉の初登場に繋がるのだ。

 

 

出典:アスペル・カノジョ8 第60話「米子の雪 その10」-第61話「米子の雪 その11」

 

小倉に電話する前のシーンでは、いじめの証言を集めるためにほかの同級生数人に電話してはすげなく断られる一部始終が細かに描かれるのだが、肝心の小倉に関しては電話シーンは描かれない。会話が苦手な斉藤さんがどのように話を切り出し、小倉はなにを返して再会を承知したのか。そこにあるはずの濃密なドラマはばっさり省略される。小倉の思いはここから、斉藤さんとの交流の中で明かされる。斉藤さんの小倉への憎しみと、同じいじめ被害者としての憐れみ。小倉の心の傷と、アンビバレントな立場が取らせる荒んだ言動。最終的に二人が辿りつく境地はここではみなまで書かないが、小倉との関係に関して横井さんは、それまでとは違って斉藤さんに直接的な人間関係アドバイスらしきことはしていないのが感慨深い。斉藤さんは横井に支えられて成長し、一人で人間関係を築く力を育んだのだ。この成長は横井にとってもちろん喜ばしいことではあるが、同時に、恋人としての斉藤さんが離れていくかもしれないという焦りにもなる。この焦りは「米子の雪」編以降の重大な要素であり、単行本第10巻の表紙にはそのものずばり、巣立っていく鳥が描かれている。

 

出典:アスペル・カノジョ10

 

同居を始めたとき、斉藤さんは19歳、横井は23歳。恋愛の相手の年齢差としてはしごく妥当だが、歳が近いことだけでは対等性は保障されない。二人の関係には常に危うさがつきまとっている。斉藤さんは居候であり、横井の胸先三寸で追い出されても仕方ない立場として、劣等感と焦燥感に苛まれている。横井にしても、似たような生きづらさを持っている斉藤さんに惹かれつつも、医師でも臨床心理士でもない立場からの関与は常にリスクと隣りあわせである。繰り返すが、二人の選択に普遍的道徳を見出すことはできない。ここにあるのはただ、横井拓と斉藤恵の共同生活という個別のケースである。

 

 

一人の発達障害者として思うこと

わたしが『アスペル・カノジョ』を初めて読んだのは2017年、萩本創八単独によるインディーズ漫画としてである。当時すでに「発達障害」関連のトピックは日夜インターネットのトレンドを賑わしており、「発達障害ブーム」と呼べる活況を呈していた記憶がある。しかし2024年の今思い返せば、当時はまだブームのピークではなかった。2021年に連載終了した『アスペル・カノジョ』は早すぎた傑作であった。なお、単行本全12巻は一応はきりのいいところですっきり終わっており、消化不良感があるわけではないが、よく読むと回収しないまま終わった伏線は散見される(セックス依存症の高松さんが横井に惹かれつつある兆候、横井のファンの餓死山さんとのオフ会未遂、大家の娘の容姿コンプレックスの意味など)。このタイミングでの連載終了は、作者の意図だけではないさまざまな事情があったことと察せられる。

しかし、「発達障害ブーム」のど真ん中ではないところで世に出たのはむしろ幸いだったとも思う。連載終了から3年が経った今こそ、いちファンとしてはっきり放言したいのだが、『アスペル・カノジョ』は単純な発達障害当事者ものの文脈から外れたところで読み継がれていくべきである。もちろん、本作がマイノリティ当事者を仄めかしでなく真正面から取り上げたものとしてハイクオリティであることは間違いない。昨今、さまざまなマイノリティを直接的に登場させた作品は急増しているが、「【当該マイノリティ表象が】増えるだけでありがたい」といった歯切れの悪い評価に留まる凡庸な作品がなんと多いことか。そんな中で『アスペル・カノジョ』は、当事者表象としても作品としても未曾有の面白さを誇る。しかも、先駆者でありながら王道ではなく、最初から異端として確立されている。斉藤さんは発達障害者をわかりやすくエンパワメントしてくれる存在では決してない。斉藤さんはあまりにも生々しく、加害的で、嫌なやつだからだ。当事者にとってすら都合のいい存在ではないのだ。しかしその都合の悪さ、どんなにハードルを低く想定した規範をもすり抜ける「どうしようもなさ」こそが、発達障害という、社会との摩擦にこそ生じる障害の本質であるとも言える。

 

「発達障害ブーム」の昨今、発達障害の特徴とされるもの(空気が読めないとか、忘れ物が多いとか)を一つ二つ挙げられる人は多いだろう。改めて教科書的な定義を示しておくと、発達障害とは、発達凸凹と呼ばれる生得的な能力の遅れ・アンバランスと、個々人が置かれている環境とのミスマッチの産物である。発達凸凹自体は実は万人が持っているもので、これ自体はただの現象である。ただの現象であるものが、環境と不適合を起こすときに初めて障害として顕現するのだ。

 

 発達凸凹とは生まれもった能力の遅れとアンバランスであり、発達特性とほぼ同じ意味である。これ自体には優劣がないことも明記したい。

 そもそも、ヒトが社会で生きていくには、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感の力、運動力、会話力、理解力、注意力、集中力、段取り力、思考力、学習力、社会力、忖度力など、数多くの能力が必要になる。

 これらの能力の発達に大きな凸凹があって、毎日の生活の中で何らかの問題を抱えている不適応状態が発達障害である(図11-1)。〔引用者註:図省略〕

 不適応は個々の発達特性と環境とのミスマッチである。発達障害には状況依存性があって、適切な環境調整を行うことで、もともとの発達の力が担保される。ここに支援の勘所がある。たとえ発達が凸凹でも、凸凹に合った環境、例えば苦手なことは周囲がサポートをし、得意なことは伸ばしていく、といった関わりをしていくことで、不適応は最小限に抑えられ、その人のちゃんとした発達が保証される(図11-2)。〔引用者註:図省略〕

 不適応やミスマッチの度合いはさまざまで、どこから障害として線を引くかは明瞭ではない。軽症でも生活に困っていれば支援が必要である。そこで、近年ではスペクトラム概念が導入され、ミスマッチや障害の度合いをグラデーション(連続帯)として考えるようになっている。

 

出典:『精神疾患とその治療』p.173-175、石丸昌彦著、放送大学教育振興会、2020年3月20日第1刷発行

※引用者註:本の著者としてクレジットされているのは石丸昌彦だが、引用したテキストが含まれている章は広瀬宏之が執筆している。

 

つまり、一般に発達障害と呼ばれるものは、環境次第では障害として発現しないこともあり得るし、環境次第で障害の質的経験も変化するのだ。環境とはつまり、個々人を取り巻く社会である。発達障害が一説には現代社会が生み出した障害であると言われるゆえんはここにある。発達障害を描くことは、社会を描くことなのだ。『アスペル・カノジョ』もまた、斉藤さんという、あらゆる規範を足蹴にする、「愛され」の対極にあるような強烈なヒロインを通じて、この社会を問い直してくる。

かつて社会学者の見田宗介は、著書『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』において、永山則夫の生活史記録を追う形で戦後日本社会を考察した。永山則夫といえば、1968年(昭和43年)に19歳で連続ピストル射殺事件を起こして死刑を執行された大犯罪者であり、まったくもって一般的な青少年ではない。その半生を通じて社会を語るにはサンプルとして不適切であるようにも一見思われる。しかし見田は、社会構造の実存的な意味を、一つの極限値において体現している存在として永山に注目し、永山という顕在化の媒体を通じて戦後日本社会の矛盾を看破する。1949年生まれ・青森育ちの永山は今で言う被虐待児であった。長じた彼は家郷を嫌い、当時よくあった出稼ぎ青少年として大都市東京に同化しようとしたが、そもそも地方人であるかれ(ら)に家郷を憎ませた主犯は東京である。近代化の波の中で、地方は、国内植民地として格差のうちに意図的に停滞させられていたのだ。近代都市の資本はその上で、自己実現への夢をちらつかせて地方の青少年を新鮮な労働力として誘引する。しかし都市は、かれらの勤勉な家畜として以外の営為には実に冷淡である。永山(『まなざしの地獄』の中ではN・Nと呼称される)は職を辞めたことで、東京においても居場所を失ったのだ。

 

 N・Nの戸籍体験は、多くの都市への流入者たちが、言葉その他で経験したおぼえのある、さまざまな否定的アイデンティティの体験、つまり自分が、まさにその価値基準に同化しようとしているその当の集団から、自己の存在のうちに刻印づけられている家郷を、否定的なものとして決定づけられるという体験の、一つの極限のケースとみなしうる。

 彼はいまや家郷から、そして都市から、二重にしめ出された人間として、境界人(ルビ:マージマル・マン)というよりはむしろ、二つの社会の裂け目に生きることを強いられる。彼らの準拠集団の移行には一つの空白がある。したがってまた、彼らの社会的存在性は、根底からある不たしかさによってつきまとわれている。

 

出典:『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』p.32、見田宗介著、河出書房新社、2008年11月30日初版発行、2021年4月30日9刷発行

 

まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学

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『まなざしの地獄』では、そんな永山の半生が仔細に検討され、4人の命を奪った連続ピストル射殺事件の不可避性が解き明かされている。永山は特異的な大事件を起こしたが、そこに至るまでの軌跡は決して特殊ではない。永山は当時よくあったように虐待的境遇で極貧のうちに育ち、当時よくあったように学業からドロップアウトし、当時よくあったように出稼ぎ労働者として上京した。社会的構造によって決定された、一つ一つは平凡な分岐の終着点はしかし、4つの理由なき殺人という悲惨なものであった。書籍タイトルの「地獄」とは、われわれが生きる社会の構造そのものに内在する非情さのことである。個人が共助の限界に際して見て見ぬふりをして見棄ててきた無数の過去からのまなざし、安穏と生きるわれわれを決して許すことのないまなざしが、われわれに「まなざしの地獄」を原罪的に生きさせるのである。

 

 われわれはこの社会の中に涯もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方がなかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人々にとって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするのものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。

 

出典:同上p.73

 

永山がそうであるように、斉藤さんもまた、一般的青少年ではまったくない、特異的な個人である。まったくもって可愛らしくはない、そばにいてほしくない、トラブルに満ちた発達障害者である。差別的構造によって社会的諸関係が解体されていく寄る辺なさを、永山は他傷として発露し、4人を殺害した。似た空漠を、斉藤さんもまた、殺人とまではいかないまでも世間一般的には受け入れられることのない非道徳的な方法で発露している。彼女はネットストーキングによって横井の家を突き止めていきなり押しかける。これは横井が女性漫画家で斉藤さんが男性ファンだったら即刻通報されても仕方がないほどの逸脱行為である。横井の家に押しかけた上で半ば強引に宿泊し、その日のうちにリストカットをするのも、これまたとんでもなく迷惑だ。犬を蹴るのも、銭湯で幼子と母親に手を上げるのも、横井のファンに嫉妬して掲示板を荒らすのも、激昂すると横井すら殴打するのも、決して社会的に容認されることはない行為である。しかしそれらの加害的で非難に値する言動の裏には必ず、彼女なりの必然性がある。彼女にそうさせた切実な理がある。根源的には、それ自体はただの現象に過ぎない発達凸凹を障害たらしめる社会構造がある。単純なわがまま、悪意、我慢不足、怠惰、自己責任に回収されるべきではないそれらを、横井は一つ一つ拾い上げる。『アスペル・カノジョ』序盤のクライマックスの一つを担うのは、第2巻第12話「見えてるつもり」における横井の「俺には見えてる」というシンプルな台詞である。横井は斉藤さんを見ている。行動自体の善悪をジャッジして叱責することよりも、背後にある彼女なりの理を探すことを優先して、斉藤さんを観察している。観察し、対話し、受容する。横井の中に、斉藤さんの居場所を作る。他者に受容される経験の地道な積み重ねが、斉藤さんの輪郭となり足場となり、彼女は次第に本来あるはずの精神的安定を取り戻していく。平穏とは、持続的であることだ。持続的でないものには、いかなる安心も生じない。本作が浮き彫りにするのは、そんな普遍的な真理である。『アスペル・カノジョ』はつまるところ、人間と人間の物語であり、この世に人間ある限り普遍的な輝きを放つだろう。

 

 

長くなったが、萩本創八の最新作『ファヴェーラの漫画家』のリンクをもう一度貼って終わりにする。2024年8月現在、まだ2話が公開されたところで序盤も序盤だが、登場人物が今回もまた、社会の裂け目で根源的な不確かさを生きる人間であることはすでに明示されている。主人公の竹井弘人は今まさに夢を諦めようとしている売れない漫画家で、憧れた漫画家としての生活とそうではない生活の狭間の空隙を生きており、漫画家としての古いアイデンティティを振り切るために地球の反対側まで傷心旅行に向かう。ブラジルの子どもに無邪気に「ヒロト先生」と呼ばれることにすら竹井は逡巡を隠せず、「読み切りしか載っていない人はあまり漫画家を自称しないんだよ まあいつ名乗るかは個人の判断なんだけど……」とわざわざ説明をする。アイデンティティは決して一人では形成できず、自己認識・他己認識を双方向に合わせ鏡のごとく繰り返した果てに醸成されるものである以上、たかが呼び名ではあっても今の不安定な竹井にとっては一大事なのだ。一方、アイデンティティにかかる根源的な不確かさは、ファベーラ=ブラジルのスラム街においてはもっと過酷な形で人々の実存を侵襲する。ファヴェーラに生きるもう一人の主人公・ジョアンは、今は日本の漫画家を夢見る少年として辛うじて存在し得ているが、ゆくゆくはかの地で少年から青年に成長して家族を養うこと、すなわち地元のギャングに入団することを拒否できない。『アスペル・カノジョ』において主人公たちを苦しめた社会は、グローバルサウスに舞台を移すことで、格差や貧困といったより直接的に非情な面を剥き出しにして襲いかかる。ブラジル描写監修担当と思われる外国語名がクレジットされていることからも、作者の本気度が伺える。今後を楽しみに読んでいきたい。

 

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