おはようございます。
一気に春めいてきました。
さらに今日は気温が上がるとか。
梅の花も満開に近づいてきました。

そんな中、ふと気になることが・・
「推し活」という言葉は、すっかり日常語になりました。
アイドル、俳優、アニメキャラ、VTuber、スポーツ選手・・
誰かを“推す”ことは、もはや一部の趣味ではなく、生き方の一つになっています。
ただ、少し距離を置いて眺めてみると、推し活は単なる娯楽以上の意味を持っているように見えます。
それは、アイデンティティ探しなのではないか、ということです。
「何者かでいたい」という欲求
人は本来、「自分は何者か」を確認しながら生きています。
仕事、家庭、地域、信仰、国家。
かつては、こうした枠組みが自然とアイデンティティを与えてくれました。
しかし今は違います。
- 終身雇用は崩れ
- 地域とのつながりは薄れ
- 家族の形も多様化し
- 国家や社会への信頼も揺らいでいる
その中で、「私はこれです」と名乗れるものが、驚くほど少なくなりました。
推しは「借りられるアイデンティティ」
推し活の面白いところは、
努力や実績がなくても、即座に“所属”できる点です。
- このグループを推している
- この人のファンである
- この世界観が好きだ
それだけで、同じ言葉を話す仲間ができ、
同じ感情で盛り上がれる場所が手に入る。
「私は〇〇推しです」
この一言は、現代における自己紹介でもあるのです。
なぜ、こんなに熱くなるのか
推し活が時に過剰に見えるのは、
それが単なる「好き」を超えて、自分の存在証明になっているからでしょう。
- 推しを否定されると、自分を否定された気がする
- 推しの成功が、自分の誇りになる
- 推しがいなくなると、空白が生まれる
推しは、鏡のような存在です。
そこに映っているのは、推し本人だけではなく、
「そうありたい自分」でもあります。
悪いことなのか?
これは必ずしも悪い話ではありません。
人は何かに意味を見出さなければ、生きていけません。
ただ、少し気になるのは、
推しがないと自分を保てない状態になってしまうこと。
推し活が、
- 自分の代わりに怒り
- 自分の代わりに夢を見て
- 自分の代わりに闘ってくれる
そんな構図になったとき、
それは慰めであると同時に、依存にもなります。
推し活の先にあるもの
推し活は、現代社会が生んだ「仮の居場所」です。
そこから何かを学び、
自分の言葉や生活に持ち帰れたとき、
それは健全なアイデンティティへと育っていく。
でも、推しの世界だけが現実になってしまうと、
現実の自分は、いつまでも空白のままです。
推し活は、アイデンティティ探し。
それは時代が個人に突きつけた、静かな課題なのかもしれません。
そんな私は、マルちゃん推し・・