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アメリカ歴代大統領35(ジョン・F・ケネディ)

アメリカ歴代大統領34」(アイゼンハワー)の続きです。“引用” は特に明記がない限りウィキペディアからの引用です。

(35)ジョン・フィッツジェラルドケネディ(1917-1963;1961.1.20-1963.11.22)

・最も若い年齢で選出された大統領(43歳8か月)(昇格時では42歳のセオドア・ローズベルト)

・初めての20世紀生まれの大統領,初めてのカトリック教徒の大統領

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19世紀,曽祖父,アイルランドからボストンに移住

1858年,祖父パトリック・J・ケネディ生まれる。民主党員として活躍

1888年,父ジョセフ・P・ケネディ生まれる。ハーバード大を出,金融業で財産を築く

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1915年7月25日,兄ジョセフ(Joe Jr.)生まれる

1917年5月29日,ボストン近郊のマサチューセッツ州ノーフォーク郡ブルックライン Brookline 町にて生まれる。母はボストン市長の娘(ローズ・フィッツジェラルド→ローズ・ケネディ

↓母方の祖父

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1927年9月,ニューヨーク市ブロンクス区のリバーデイルに引っ越し

1931年秋,寄宿制名門私立校のチョート Choate(当時は別学,現在は共学)に入学

1935年秋,兄ジョセフが通ったロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学ぶことを希望したが病気で帰米。プリンストンに入るも病気で退学

1936年9月,ハーヴァードに入学

1938年3月,父ジョセフが駐英米国大使に在任(~1940年10月)

1938年7月,兄と共に渡英し父のいた大使館で働く

1939年,欧州,ソ連,中東などを旅行

:ベルリンで開戦近しの情報を得たという

1939年9月1日,ロンドンに戻る。この日,第二次世界大戦勃発。間もなく米国に帰国

1940年夏,ハーヴァードを卒業(政治学,国際関係;成績上位15%程度のクム・ラウデ cum laude)。イェール・ロースクールへの入学も考えたが,米国参戦の可能性を考えキャンセル

1941年初頭,南アに旅行

1941年9月,米海軍情報局(The Office of Naval Intelligence; ONI)に配属

1943年4月,ソロモン諸島のツラギ島に配属されパトロール魚雷艇PT-109の艦長に

↓ツラギ島に因む

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1943年8月2日午前2時過ぎ,駆逐艦天霧(艦長花見弘平)に衝突され大破,2名が戦死。ケネディらは降伏を選ばず小島に遭難,救助される

Wikipedia 英語版には「衝突され(rammed)真っ二つ(cut in half)」とある。英語版によると PT-109 はマホガニー厚板の船殻であった

→父ジョセフはこれを英雄譚として広め,JFK は大統領選のとき花見を呼ぼうとした(花見は町長になっていたため都合がつかなかった)

回復後,PT-59を指揮

1944年1月,米国に帰還

1944年8月,兄ジョセフ(Joe Jr.)イギリスで戦死(事故死)

:火薬を目一杯積んだ爆撃機を離陸させ,離陸後乗員が脱出し,無線誘導で目標に体当たりする「アフロディーテ作戦」中に乗機爆発

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1945年3月,健康上の理由で名誉除隊(honorably discharged)

1945年4月,父とその友人,新聞王ハーストのコネでハースト・コミュニケーションズの特派員に。ポツダム会談(同年7月)などを取材

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1946年11月,マサチューセッツ州11区選出下院議員に立候補し勝利(29歳)

:父には「息子(Joe Jr.)を大統領に」という夢があり,兄の事故死によって JFK にお鉢が回ってきた

:全体的に共和党が勝った選挙であったが,ケネディは得票率71.9%の圧勝

1947年1月,マサチューセッツ州選出下院議員に就任(~1953年1月)

1947年9月,難病のアジソン病と診断される

1948年5月,妹キャスリーンが飛行機事故死(28歳)

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1952年11月,マサチューセッツ州選出上院議員に立候補し現職ヘンリー・カボット・ロッジJrに勝利(得票率51%対48%)

1953年1月,マサチューセッツ州選出上院議員に(~1960年12月)

↓敗れたヘンリー・カボット・ロッジJr はアイゼンハワー政権下で国連大使となった

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1953年1月20日共和党アイゼンハワー政権発足

1953年9月12日,ジャクリーン・ブーヴィエ(Bouvier)と結婚(フランス系の姓)

:JFK36歳,ジャクリーン24歳

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1954年~1957年,手術と入退院を繰り返す

1954年1月17日,弟ロバート・ケネディの子,ジュニア誕生

1954年12月,「赤狩り」を進めたマッカーシー上院議員の譴責決議が65-22で採択

JFK は手術を理由に棄権

:父ジョセフはマッカーシーと親交があった

1956年,Profiles in Courage『勇気ある人々』を出版,ピューリッツァー賞受賞

1956年の大統領選挙で民主党候補のアドレー・スティーブンソンを応援する演説(アイゼンハワーに敗れた)

1957年1月,共和党アイゼンハワー政権(二期目)発足

1957年10月4日,スプートニク1号打ち上げ成功(スプートニク・ショック

1957年11月27日,長女キャロライン・ケネディ誕生

1958年11月4日,中間選挙アイゼンハワー共和党は大敗,両院とも民主党過半数に(二期やった大統領の「6年目の倦怠期(six-year itch)」)

1959年1月1日,キューバ革命成る(カストロゲバラらがバティスタ政権打倒)

カストロキューバ革命時点で社会主義者ではなく,米国との対立ゆえにソ連と接近した結果,社会主義路線を取ったという

1959年,リー・ハーヴェイ・オズワルドソ連に亡命

:1961年にソ連人のマリーナ・ニコラーイェフナ・プルサコワと結婚

1960年1月,カストロキューバユナイテッド・フルーツの農地を接収

1960年5月1日,U-2撃墜事件(ソ連の領空を侵犯して偵察飛行をしたU-2が撃墜される)

1960年7月13日,ケネディ民主党大統領候補に選ばれる(JFK 806票,リンドン・ジョンソン409票,空軍長官経験者のサイミントン86票,スティーブンソン79.5票)

1960年7月15日,ケネディのニューフロンティア演説

:米国の辺境はもうなくなっているが,科学技術(ソ連との宇宙開発競争)や国民を豊かにする(社会保障の拡充)などの新しい辺境を開拓せねばならないという内容

1960年6月,カストロユナイテッド・フルーツや銀行の国有化を開始

1960年9月,アイゼンハワー政権,米国にあるキューバの資産を差し押さえ

1960年9月,JFKニクソンの大統領候補としてのテレビ討論

:現職副大統領のニクソンの方が当初知名度があったが,テレビ映りの良かったJFKに有利に働いた

1960年9月26日,カストロ,国連総会で約4時間半の演説ぶち上げ

1960年11月,大統領選挙で共和党ニクソンに303-219選挙人で勝利(得票率49.7%対49.6%の大接戦。勝利地域は22-26でニクソンの方が多かった)

:得票数は約12万票差で,投票所の数が約12万か所であったため,1か所当たり約1票の差だったという

フランク・シナトラジュディ・ガーランドらがJFKを応援

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1960年11月25日,長男(キャロラインの弟)ジュニア誕生

1961年1月3日,米国,キューバとの国交断絶を通告

1961年1月20日ケネディ政権発足

・副大統領リンドン・ジョンソン

国務長官ディーン・ラスク(~1969)

・国防長官ロバート・マクナマラ(~1968)

・司法長官ロバート・ケネディJFK実弟;~1964)

・CIA長官アレン・ダレス(1953.2~1961.11)

最高裁判所長官アール・ウォーレン(1953.10~1969.6)

1961年3月1日,平和部隊創設を決定する大統領令に署名

青年海外協力隊の米国版

1961年4月11日,エルサレムアイヒマンの裁判始まる

1961年4月12日,ガガーリン,宇宙飛行に成功(ボストーク1号

1961年4月15日-19日,ピッグス湾事件(CIA が訓練した亡命キューバ人部隊がカストロ政権打倒に失敗)

アイゼンハワー政権が発案したもので,計画を聞かされたケネディは驚いたという

1961年5月5日,米国初の有人宇宙飛行(アラン・シェパード,フリーダム7ことマーキュリー・レッドストーン3号)

1961年5月25日,「10年以内にアメリカは人間を月に送り,無事帰還させる」と述べる(アポロ計画

1961年6月3日-4日,ウィーン会談(ケネディ=フルシチョフ会談)

:大した成果を上げられなかった

1961年8月10日【ベトナム戦争枯葉剤実験散布(→11月30日)

1961年8月13日,ベルリンの壁建設(ベルリン危機)

:この日から往来が不可能となって家族が離れ離れになる悲劇も生まれた

1961年8月20日,米陸軍の精鋭部隊1600人が西ベルリンに到着・駐留

1961年9月30日,OEEC が OECD に改組

1961年10月30日,ソ連がノヴァヤゼムリャで水爆ツァーリ・ボンバの爆発実験

1961年11月30日【ベトナム戦争ケネディ枯葉剤の散布を決定(ランチハンド作戦)

1961年11月30日,ビルマミャンマー)人のウ・タント国連事務総長

:前任のダグ・ハマーショルドが9月に飛行機事故死していた

1961年12月15日,アイヒマンに死刑判決(62年6月1日執行)

1962年1月1日,米海軍特殊部隊Navy SEALs結成

1962年2月8日【ベトナム戦争南ベトナム軍事援助司令部設立(軍事介入戦闘部隊)

1962年2月20日,ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニア,フレンドシップ7(マーキュリー・アトラス6号)で宇宙飛行に成功(地球を3周)

1962年6月11日,ジェームズ・メレディス,初めてのアフリカ系アメリカ人学生としてミシシッピ大学入学

1962年7月,ラウル・カストロカストロの弟)訪ソ

1962年8月4日,マリリン・モンロー死去(36歳)

1962年8月,ゲバラ訪ソ

1962年9月30日,メレディス事件(The Ole Miss(オールミス) riot of 1962)

メレディスミシシッピ大学入学に反対した隔離主義者(segregationists)が暴動,ケネディは3万名以上を動員して鎮圧(ジャーナリストを含む2名死亡)

1962年10月5日,ビートルズデビュー(Love Me Do/P.S. I Love You)

1962年10月14日【キューバ危機】U-2偵察機キューバで核ミサイルサイロが建設中であるのを撮影(写真の解析は15日)

:当時,米ソが互いの本土に届くミサイルを持っていなかったのがポイント。米国はトルコにミサイルを配備したので,ソ連は米国に届くキューバに配備しようとした

1962年10月16日,キューバのミサイル基地建設の情報がケネディに入る。以降連日対応を協議

1962年10月20日ケネディ海上封鎖を決定

1962年10月22日19時,ケネディキューバ危機と海上封鎖措置に関してテレビ・ラジオ演説

:米軍の警戒態勢はデフコン3に

1962年10月23日,米州機構キューバは同年1月31日に除名),米国の海上封鎖措置を容認する決議を採択

1962年10月23日,海上封鎖を非難するフルシチョフからの書簡

:当時はまだホットラインはなく,キューバ危機の反省からホットラインが設置されることになる

1962年10月24日,海上封鎖発効

1962年10月25日【イエスかノーでお答え下さい】スティーヴンソン国連大使が緊急安全保障理事会で,キューバにミサイル基地があるかどうかソ連国連大使を追及

:1952年と1956年の大統領選挙でアイゼンハワーに2連敗した民主党候補

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1962年10月26日,フルシチョフからの書簡が届く

:米国がキューバに侵攻しなければミサイルを撤去する

1962年10月26日22時,米軍の警戒態勢がデフコン3からデフコン2に上がる

弾道ミサイル発射準備態勢。米国民が水・食料を求めてスーパーに殺到

1962年10月26日20時,ケネディからフルシチョフへの返答公表

:ミサイル基地建設中止,ミサイル撤去,国連査察受け入れを条件に海上封鎖を解除,またキューバを攻撃しないと約束

1962年10月27日,フルシチョフからの書簡が届く

ソ連からの条件としてトルコのミサイル基地撤去が加わる

1962年10月27日昼,U-2偵察機キューバ上空で撃墜されルドルフ・アンダーソン・ジュニア少佐が死亡

1962年10月27日昼,カリブ海を航行中の核魚雷搭載のソ連潜水艦に対し米海軍が攻撃

:潜水艦副艦長ヴァシーリイ・アルヒーポフが反対したため核魚雷発射は中止された(このことは2002年に公表された)。最も核戦争に近かった瞬間

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1962年10月27日午後,ケネディは27日の書簡(トルコのミサイル撤去要求)には答えず,26日の書簡(キューバに侵攻しない)に答えることに決定

1962年10月27日20時,米国側,キューバのミサイルを撤去すれば海上封鎖を解き,キューバに侵攻しないと公表

:しかし極秘裏にロバート・ケネディがドブルイニン駐米ソ連大使と会って,トルコのジュピターミサイルを撤去する用意もあると伝えたという

1962年10月28日9時,米国首脳はモスクワ放送のラジオニュースでフルシチョフからの返答を知る:キューバに侵攻しないことを条件にミサイルを撤去することに同意

1962年11月1日,キューバのミサイル撤去開始

1962年11月6日,中間選挙民主党は上院4増下院1減。両院とも過半数は変わらず

1962年11月20日海上封鎖解除

1962年,リー・ハーヴェイ・オズワルド,妻・娘と米国に帰国

:1963年には2人目の娘が誕生

1963年春【公民権運動】バーミングハム運動

:人種隔離政策を取る企業のボイコット。シットイン(座り込み)とデモ行進で大量の逮捕者。世界の注目を浴びキング牧師の名声高まる

1963年4月10日,リー・ハーヴェイ・オズワルド,保守・反共主義者エドウィン・ウォーカー将軍の暗殺を企て失敗

:30mの距離から発砲したが外れた。当時はオズワルドの犯行だと分からなかったので逮捕されなかった

1963年4月,トルコに配備されたNATO軍のジュピターミサイル撤去完了

1963年6月10日,ケネディ「平和のための戦略」演説

1963年6月26日,ケネディ西ベルリンを訪問(独首相アーデナウアー,西ベルリン市長ブラント)

1963年8月5日,米英ソ間で部分的核実験禁止条約Partial Test Ban Treaty,PTBT)締結

“この条約で大気圏内,大気圏外,海中における核実験は禁止された”

1963年8月28日【公民権運動】ワシントン大行進(人種差別撤廃を求めるデモ,参加者20万人)

キング牧師I have a dream 演説

1963年10月19日,リー・ハーヴェイ・オズワルド,テキサス教科書倉庫に就職

1963年11月2日,南ベトナム初代大統領ゴ・ディン・ジエムと弟で大統領顧問のゴ・ディン・ヌー,クーデターで殺害される

ケネディ政権と対立していた

1963年11月22日12時30分,ケネディダラスで暗殺される

:オズワルドは職務質問してきたティピット巡査を射殺

:オズワルドが容疑者として逮捕される

1963年11月22日,副大統領リンドン・ジョンソンが自動的に昇格しジョンソン政権発足

1963年11月24日,リー・ハーヴェイ・オズワルド,ジャック・ルビーに暗殺される

1963年11月29日,ケネディ暗殺事件を検証するためのウォーレン委員会設置

カリフォルニア州知事1943-53年。1948年大統領選挙における共和党デューイ候補の伴走候補。民主党トルーマンとバークリーに敗れた。1953年から69年まで,4代の大統領に亘って最高裁判所長官を務めた

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1964年7月2日,公民権法制定

1964年9月3日,ロバート・ケネディ司法長官辞任(上院議員選出馬のため)

1964年11月,ロバート・ケネディ上院議員に当選

:それまで連邦議会議員ではなかった

1967年1月3日,ジャック・ルビー死去

1968年3月16日,ロバート・ケネディ,大統領選への出馬を表明

1968年4月4日,キング牧師暗殺(テネシー州メンフィス)

1968年6月5日,ロバート・ケネディ銃撃され翌日死去(ロサンゼルス)

1968年11月5日,大統領選挙で共和党ニクソン民主党ハンフリーを301選挙人対191選挙人(得票率43.2%対42.7%)で破って勝利

ロバート・ケネディが出馬していたらどうなっていただろうか

1969年7月21日,アポロ11号,月面着陸に成功(アームストロングとオルドリン)

1994年5月19日,ジャクリーン死去

1999年7月16日,JFKジュニア(キャロラインの弟)飛行機事故で死去

2013年11月19日,キャロライン・ケネディオバマ政権下で女性初の駐日米国大使に就任(~2017.1.18)

2022年6月25日,キャロライン・ケネディ,バイデン政権下で駐豪米国大使に就任(~2024.11.28)

2025年2月13日,ロバート・ケネディ・ジュニア,トランプ政権で保健福祉長官に就任

:もと民主党員であったが無所属になり,トランプ支持を表明した

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2025年3月18日,トランプ政権により,ケネディ大統領暗殺事件に関する機密文書が公開

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次回は第36代大統領リンドン・ジョンソンです。

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