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「話し合い」過激派の主張

 

 日頃より急進的な活動や過激な言動は宜しくないと主張している当ブログではありますが、「話し合い」についてだけはそこそこに原理主義的な過激派だったりします。

 

 「話し合い」とは、極めて過酷で、自らを摩耗する茨の道に他なりません。

 そんな「話し合い」を是と主張するならば、覚悟が必要です。

 

「話し合い」の難しさ

 人は千差万別ですので、意見の合う人もいれば、意見の合わない人もいます。

 そして残念ながら「話し合い」は必ずそういった意見の対立がある状況から始まります

 なぜならば、同じ意見を持った人同士が集まった状況ではわざわざ「話し合い」をする必要が無いためです。合意も同意もすでに取れている状態であれば「話し合い」は必要ありません。

 

 つまるところ、「話し合い」とは本質的に苦行です。

「何を言っているんだこいつは」

「何も理解していないのか」

「なんて愚かなんだ」

「あまりにも受け入れられない」

 そう感じる意見にこそ真摯に向き合い、理解をしなければならないのですから

 

 「話し合い」を苦行だと認識していない人は、「話し合い」を一方的な啓蒙や説得だと誤解している節があります。

 しかしそれはただ「話したい」だけです。

 本当に「話し合い」を実践するならば他者の話をしっかりと聞いて理解する必要があります。異なる意見を持った相手と意見を交わし合い、相互理解を深めていくことが「話し合い」であって、一方通行はありえません。

 

「話し合い」過激派

 まったく共感できず同意できない意見を聞き、あまつさえ理解を示すのは当然ながら苦行に他なりませんので、大抵の人はそういったことを拒絶します。

 言葉で「話し合い」が大切だと述べたとしても、本当に苦行を実践したいとは思っていないことがほとんどです。

 

 もちろん同意できる意見、納得できる意見だけをつい見たくなるのは分かります。言葉は悪いですが「水は低きに流れる」ものであり、居心地の良いエコーチェンバーへ閉じこもりたくなるのは自然なことでしょう。ストレスが限界を超えるようであれば、精神衛生を考慮して異なる意見から目を背けたほうが良いことも事実です。

 それは個人の戦略として妥当であり、全面的に否定すべきではなく、誰もが心を砕いて生きるべきとは思いません

 

 ただ、本気で「話し合い」を是と主張するのであれば、覚悟を持って主張すべきだと私は考えます。

 「話し合い」とは自分の意見どころか本能や感情すら捻じ伏せて歯を食いしばって他者と向き合う行為であり、他者に対して暴力を用いて意見を変えようと試みるのではなく自らの認知や本能を暴力的に抑えつけて自身の意見を変える行為であり、「話し合い」とはある意味自傷行為です。気軽で手軽で穏健な手段どころか非人道的ですらあります。

 決して安易に人へ勧めるべきではない苦行、それこそが「話し合い」です。

 

「話し合い」のコツ

 とはいえ「話し合い」自体はやはり推進していきたいので、「話し合い」のコツを考えてみましょう。

 

 コツは簡単です。

 一つは本質を理解すること。

 「話し合い」をする時は、「この意見を持つ人はなぜそう考えるのだろう」とまず相手の公理を考えてみましょう。

 他者は他者なりの思考と情報と論理を持って意見を構築しているのであり、ベースとなる公理は必ず存在します。

 意見に同意できずとも、共感できずとも、もっと本能的で本質的な公理、他者が大切に思っている芯の部分であれば理解することはさほど難しくありません。

 

 もう一つは、自らの信念を変えること。

 「話し合い」のために自分の意見や信念を捻じ曲げなければならないと思うから苦行なのであり、相手の意思を包摂することこそが自らの信念としてしまえば簡単な話です。

 むしろ、相手の意見を理解しようと努めないことが自分への裏切りとなる、それくらいでないと「話し合い」を是とした信念とは言えません。本当の本気で「話し合い」が大切だと思うのならば、それ以外の信念なんて脇に寄せられるはずです。

 それよりも自らの別の信念を重視したいから折れることはできない曲がることはできないと考えるのであれば、それは本音のところで「話し合い」を良しと思っていない証拠に他ならないと、「話し合い」過激派の私は考えます。

 

結言

 過激な言い分にはなりましたが、要するに「話し合い」は大変だということです。

 気軽に選べるお手軽な主張だと思ったら大間違いですので、「話し合い」を是と主張するならば、覚悟が必要です。

 

 

余談

 他者を理解するのは難しいので、まずは自分を理解するところから始めるといいかと思います。マインドフルネス的な感じが良いでしょう。

 例えば、なぜ私は「話し合い」を是と考えるのか。

 それは、暴力よりも良いと考えているためです。

 では、なぜ私は暴力を否定しているのか。

 それは、暴力には公平性が無いと考えているためです。

 では、なぜ私は公平性を求めているのか。

 それは、偶然性と不安定さが前提の世界で人間がまだマシに生きられるための骨子だと考えるためです。

 では、なぜ私は人間がマシに生きられるべきだと考えているのか。

 それは、そうであれば私も納得ができるためです。

 では、なぜ私は納得を求めているのか。

 それは、そうであれば生と死を受け入れられるためです。

 では、なぜ受け入れたいと思っているのか。

 それは、それこそが"我"であり、”自分の物語”の完結に関わるためです。

 

 この辺りまでくると、私の我執・煩悩・公理がはっきりしてくるような気がします。

 このように本質的な欲求を深掘りしていくと「それならば理解できる」領域がきっと現れてくるでしょう。大抵の場合、人は他者の意見に同意できなくとも、本質的な欲求は理解できるかと思います

 




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