月曜の朝、九時半頃。
休日明けの始業後、ようやくエンジンが掛かって業務への集中力が高まっている時間帯、折しも会社で使っているノートパソコンの[S]キーが、するりと取れた。打鍵の勢いに反発して[D]の上へと滑り、我が物顔でそこに鎮座している。
挙動が怪しくなっていたことは当然ながら察してはいた。先週辺りからやたらとぐらついていた以上、そろそろ何かしら起こるだろうとは思っていたが、いよいよだ。
しかし、何故[S]が外れたのだろう。打鍵の頻度で言えば[A]や[I]のほうが多いだろうに。私の打鍵に癖があるからだろうか。たしかに運指を面倒くさがって薬指ではなく中指で打ったり、[A]や[E]の後に指を滑らせてそのまま[S]を打ったりと、負荷が掛かりがちな打鍵をしていたかもしれない。
なにはともあれ、[S]のキーキャップが外れたままでは仕事に支障を来たしかねない、速やかに問題解決を図るべきだ。
キーボードは一般的なパンタグラフ。年数もそこまで経っておらず、恐らくは自力で解決可能な範囲だろうと予測する。何より、ノートパソコンのキーボードを取り換えるのは手間が掛かるのでやりたくない。
まずは致命的な損壊が生じていないかをチェックする。樹脂、爪、キャップ、どれも問題ない。やはりただ外れただけだろう。
そうであれば嵌め込むだけだ、さっさと直して仕事へ戻ろう。
1分後、上手く嵌らない。
3分後、分かったつもりでも嵌らない。
5分後、何度やっても嵌らない。
ふむ、なるほど、そうか。
抵抗するのであれば、こちらも専門性の高い人材へ頼まざるを得ないな。
意味も無く脳内対話をした後、ノートパソコンを小脇に抱えてフロアの端から端まで歩く。
そこは情報システム部のエリアであり、恐らく社内で最もパソコンに詳しい方々が揃っている。きっと彼らならば簡単に解決できるだろう。
「あのぉ、本当に、本当に申し訳ないのですが、キーボードが外れちゃってですね、ほら、こんな感じで。それで、どうにも上手く嵌められなくてですね、良い方法などご存じでしたらご教示いただけると大変助かるのですが」
ここ最近では稀に見るほど腰を低くして擦り寄っていく。当たり前の話だが、どれだけパソコンに詳しいとはいえ、情シスに頼むようなことではない。「迷惑なことは重々承知しているが困っているので助けて欲しい」ことを全身で全霊を持って表現していく。
「ああ、こういうの時々起こりますよね、ちょっと貸してください」
神の似姿として創造された外見を持つ、すなわち人間の見た目をした情シス部員が天使のような対応をしてくれた。とてもありがたい。
「先にパンタグラフを外すと嵌め込みやすいですよ」
なるほどそうなんですねと具体的なコツを教えてもらいつつ、作業を観察する。こんな雑務を都度頼むわけにはいかない以上、ここでやり方をマスターして次回以降は自力で直せるようにしなければならない。
1分後、上手く嵌らない。
3分後、手順は合っているらしいのに嵌らない。
5分後、困ったことに嵌らない。
こんな雑務で仕事の手を止めていることへの申し訳なさが頂点へと達しそうになったため、「やり方は分かりましたので後は自力でやってみます、教えていただきありがとうございました」と撤収する。すぐ直せなくて申し訳ないと思われること自体が申し訳ない。
席へ戻った後は、再度観察をする。4Mの観点から、メソッドに問題が無いのであれば、マテリアルを疑うべきだ。
よくよく観察してみると、どうやらパンタグラフに引っ掛ける金属の爪の角度が少しおかしい。一つだけ、やや少し倒れている。樹脂パンタグラフを当ててみると、どうやら上手く引っ掛からないのはこの爪のようだ。
恐らく爪に負荷が掛かったことが原因だろう。
なにはともあれ、ここまでくれば後は簡単な話である。
残念ながら適切な工具類は手元に無かったため、気合とテコの原理で金属の爪が引っ掛かる位置まで押し戻す。折れたり壊れたりしたらコトだが、その辺りはKKD(経験・勘・度胸)で誤魔化していく。技術者の風上にもおけない。
幸い、無事に爪は立ち上がり、パンタグラフを固定する機能を取り戻してくれた。
後は教わった通りに樹脂を嵌めて、キートップを固定する。
これで修理完了。
実に清々しい達成感だ。
時計は10時を指し示しており、まったく仕事は進んでいない。
仕事は進んでいないが、実に満足度の高い朝となった。
直前まで打ち込んでいた午後の打ち合わせ資料も、まだ完成していない。
実に素晴らしい。