大人として素朴に「世界は安定していたほうが望ましい」と思っていますが、そうは問屋が卸さないのが現実です。
感覚的、或いは統計的にも20世紀型の戦後秩序が不安定化しつつあることは、恐らく多くの人が認識しているかと思います。
理由は様々な切り口で語ることが可能ですが、今回は先日の記事で提示した正義の三分類【制度的正義】【理念的正義】【社会的正義】を用いて、世界的に正義が揺らいでいることを語ってみましょう。
長年親しんできた正義が揺らぐこと。
若者には分かり難い感覚ですが、大人にとっては存外に恐怖です。
制度的正義の寿命
戦後秩序は1945年のパワーバランスを前提に設計されました。
秩序がパワーバランスによって担保されることは、国際政治学、国際社会学、法哲学や政治哲学などによって理論化されています。そうではないとする理論も様々ありますが、それらは残念ながら主流ではなく、少なくとも秩序の"維持存続"を説明できる理論はパワーによる説明が独占的です。秩序自体は関係性や利害からも生じますが、維持存続するためには何らかのパワーが不可欠になります。
世界で最も裕福な国々である経済協力開発機構(OECD)は40年前であれば世界のGDPの約80%を占めていましたが、今日ではその割合は約半分にまで低下しているように、現代ではグローバルサウスの台頭や技術による権力構造の変化によって先進国のパワーが相対的に衰退しています。
その結果としてのパワーバランスの変化によって秩序を担保できなくなり、国連・WTO・世界銀行などの制度的正義が調停能力を失いつつあるのが現状です。
これは誰が悪い何が悪いと言うわけではなく、栄枯盛衰は世の常であり、どのような制度による秩序にも必然的に寿命がある、ある意味で自然現象に近いものだと言えます。
理念的正義の揺らぎ
戦後秩序は「自由・民主VS全体」とした明確な理念対立があり、その中で理念的正義としてのリベラルは絶対的・普遍的な価値として定義されてきました。
しかし現在は中国を筆頭に権威主義国家の成功、中東・アフリカでの民主化の挫折、リベラル価値の内部分裂や多様化による細分化など、リベラルそのものが絶対性を失って、競合する価値体系が台頭しています。
また、厳しい現実ですが、リベラルは普遍性を失いました。
「衣食足りて礼節を知る」と言われるように、人々が豊かに過ごせることが社会的正義の根底であり、それが満たされていなければ理念的正義は土台を失って効力を発揮しません。理念的正義は土台ではなく、社会的正義こそが土台です。
社会の好不況も栄枯盛衰であり、必然的に波打ちます。
つまり、普遍的善と思われていたリベラル的な理念的正義も、本質的には社会の景気に依存するものであり普遍的ではなかったことが判明したため、競合する価値体系に対して強固に抵抗できなくなっています。
もちろん絶対的・普遍的でなければ価値がないわけではありませんが、少なくとも代替性のない正義ではなく、あくまで比較され得る相対的な価値にまで収縮しました。
すなわち、理念的正義はその中身を入れ替えることができます。権威主義には権威主義なりの理念的正義が代入されているように。
リベラル的な理念的正義は、今まさに揺らいでいると言えます。
社会的正義の暴走
制度的正義の機能が損なわれ、理念的正義の権威が低下した結果、社会的正義の枷は弱まり、社会的正義の暴走と呼べる状況になっています。
技術革新による速度向上も一役買っていますが、根本的にはやはり栄枯盛衰です。時間による制度的正義と理念的正義の劣化が社会的正義の暴走を必然的に引き起こします。理念的正義の抑制がなければ、手段を問わず大衆の欲望を満たすことが社会的正義として正当化され、そしてそれを調停するための制度的正義が機能していなければ社会的正義は暴走せざるを得ないでしょう。
リベラル的価値の未来
要約すると、戦後秩序は経年劣化によって崩壊の危機にあります。
その原因はとても単純で、ただこの世は諸行無常の栄枯盛衰であるからです。
制度も、理念も、正義も、全ては変化して摩耗していくことを避けられない以上、永遠の秩序は存在しません。豊かな時に定められた理屈は、豊かでなくなれば失われます。
嘆いても仕方がなく、善も悪も無い、ただの理です。
ここまではただの現実です。
しかしリベラル的価値はさらなる試練に直面することになります。
「正義が経年劣化するのは必然だとして、既得権益者である先進国のリベラルは、それに抗うべきなのか、受け入れるべきなのか」
これは単なる政治的立場の問題ではなく、理念的正義の“普遍性”と“利害性”の矛盾に触れる問いになるでしょう。
辛辣な表現となりますが、先進国に住む私たちは既得権益者です。
自由、人権、民主主義、安全、法の支配、市場経済、国際秩序、そういったリベラル的価値の恩恵を最も得ている受益者であり、外部不経済として不利益を押し付けられている第三国からすればリベラル的価値の絶対性や普遍性は自己欺瞞にしか見えません。外部不経済側からすれば「本当に自由や平等を是と信ずるならば、今すぐ持っているその既得権益を吐き出せ」と考えるのは当然のことです。
非現実的な想定ではありますが、真にリベラル的価値を実現するならば、先進国の人間は直ちに様々な利得を手放す必要があります。
リベラル的価値を理念的正義として普遍の価値を持つ立場を固守する場合、価値体系と既得権益は守れますし道徳的一貫性を保つことも可能ですが、これからも世界の多極化との衝突や非西側諸国からの反発は避けられないでしょう。
国内においても昨今の社会的分断を筆頭に、大衆の社会的正義との乖離が深まります。
ポストリベラルとして普遍性を捨て去り相対化を受け入れて適応するのも一つの道です。
もちろんそれは権威主義的価値観の肯定や国際秩序のさらなる不安定化を引き起こしますので、リベラル自身の存在基盤やアイデンティティは崩れることになるでしょう。
どちらの道を選んでも、秩序の劣化は避けられません。
”普遍性”を維持しようとすれば全体が崩壊し、手放せば価値体系自体が崩壊します。
私としては第三の道、役割の変更だけが持続可能な道だと信ずる次第です。
具体的に言えば、リベラル的価値を”絶対的普遍性”のものではなく、”手続き的な指針”にまで弱めることが効果的だと考えます。
現代の多元化した価値体系を前提とし、それぞれの価値を上下に区分したりリベラル的価値を上位に置くのではなく、調停役としてリベラル的価値を運用すること。
肥大化した社会的正義(大衆の正義)との乖離を緩和し、制度的正義に基づく秩序を現実のパワーバランスに合わせて常に再設計すること。
リベラル的価値を“絶対的価値”から“調停のための共通認識”へと置き換えることで理念的正義の地位を保つこと。
要するにロールズの説く政治的な自由主義です。
いつの間にかリベラル的価値は宗教的な『包括的教義』に陥っているような気がしますので、概念自体を再構築して安定化を目指すべきだと考えます。
イメージとしては、リベラル的価値を「善い生き方の定義」として押し出すのではなく、「異なる善が衝突した時に暴力以外で決着を付ける指針」と位置付けることです。この場合、リベラル的価値は「最高善」ではなく、「議論を成立させるための前提条件」となります。
そうすればリベラル的価値の普及にも繋がりますし、より安定的で持続可能な秩序を形成できるでしょう。
リベラル的価値を道徳的優越の立場から管理指針に置き換えるのは一定の反発が生じるとは思いますが、少なからず効果的だと考えます。
結言
難しい、と言うよりはややこしい話になりました。
要するに、多元化する社会において絶対的・普遍的な理念的正義を固持することはできないのが現実です。ありとあらゆる正義は経年劣化します。
そうであれば、リベラル的価値の正義を真に長らえさせるためには、理念的正義と制度的正義の両取りとして、絶対的な道徳性を謳うのではなく、多元化の衝突において白黒を導き出すための灯台として機能するような立場へと変わることが良いのではないでしょうか。
もっとシンプルに言えば、「リベラル的価値は正しい」と押し付けるのではなく、「リベラル的価値に沿うと得である」と寄り添う、そういった立ち位置に変わるのが良いと考えます。