「優しさ」には主に二つの種類があると言われます。
一つは「能動的優しさ」で、もう一つは「受動的優しさ」です。
私としてはどちらも優しさだと考えますが、人によっては「受動的優しさはやっていて当然であり、優しさではない」「受動的優しさは弱さや怠惰である」とした意見もあります。
今回はそんな「優しさ」の概念について考えてみましょう。
パターンの例示
まずは能動的優しさと受動的優しさのパターンをいくつか例示してみます。
【能動的優しさ】
- 困っている人に声をかける
- 荷物を持ってあげる
- 相談に乗る
- ボランティアに参加する
- 悩みを聞いて共感を示す
【受動的優しさ】
- 相手のペースに合わせて歩く
- 相手のプライバシーに踏み込まない
- 相手の選択を尊重し、押し付けない
- 公共の場で騒がない
- 無理に励まさず、落ち着くまで待つ
能動的優しさは介入的で、受動的優しさは非介入的です。
辞書的な意味
「優しい」で辞書を引けば、様々な意味合いを持っていることが分かります。
1 姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。「―・い顔かたち」「声が―・い」
2 他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。「―・く慰める」「―・い言葉をかける」
3 性質がすなおでしとやかである。穏和で、好ましい感じである。「気だての―・い子」
4 悪い影響を与えない。刺激が少ない。「地球に―・い自動車」「肌に―・い化粧水」
5 身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。恥ずかしい。
「なにをして身のいたづらに老いぬらむ年のおもはむ事ぞ―・しき」〈古今・雑体〉
6 控え目に振る舞い、つつましやかである。
「繁樹は百八十に及びてこそさぶらふらめど、―・しく申すなり」〈大鏡・序〉
7 殊勝である。けなげである。りっぱである。
「あな―・し、いかなる人にてましませば、味方の御勢は皆落ち候ふに」〈平家・七〉
2 他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。
これは能動的優しさで、
3 性質がすなおでしとやかである。穏和で、好ましい感じである。
4 悪い影響を与えない。刺激が少ない。
6 控え目に振る舞い、つつましやかである。
これは受動的優しさと言えます。
優しさの定義からすれば介入の有無は無関係で、能動的優しさも、受動的優しさも、どちらも優しさです。辞書的には受動的優しさが優しさから外れる理由はどこにもありません。
受動的優しさが否定される心理
そもそも、「優しい声」「優しい表情」「地球に優しい商品」「肌に優しい化粧品」など、日常でも“害を与えない・負担をかけない”という受動的優しさは自然に理解されているはずであり、受動的優しさは明確に優しさの一種だと言えるでしょう。
にもかかわらず、人間関係となると「当然のことであり優しさではない」「弱さや怠惰である」と受動的優しさを評価しない人が出るのは興味深い現象です。
これはいくつか理由が考えられます。
まず、「助ける」「声をかける」といった介入は優しさの証拠として扱われやすく、意図が比較的明確であり、対して「そっとしておく」「相手に合わせる」ことはそれが意図的なのか無関心なだけなのかが判別しにくいため、証拠として扱われにくいことが理由の一つと思われます。
また、人によっては介入自体を善とする性質の人もいます。放っておかれると不安になる人、たとえ善でなくても他者からの干渉を好む人にとっては、受動的優しさを優しさと認識することは難しいはずです。
SNS文化もある意味で拍車をかけているかもしれません。介入はその結果を形として伝えやすくネット上に公開しやすいですが、非介入的な優しさはそうしたアピールが難しいため評価されにくいと考えられます。
つまり、受動的優しさは人間関係に限って過小評価される、そういった構造的な傾向がありそうです。
道徳的発達理論
人間関係における受動的優しさの過小評価の原因を別の側面から考えてみましょう。
少し古典ですが、コールバーグの道徳発達理論では道徳判断が6段階に分類されています。
1. 前慣習的水準(幼少期~)
第1段階:罰と服従の指向
罰を避けるため、権威に従う。行動の良し悪しは結果(怒られるか)で決まる。
第2段階:自己利益の指向
自分の利益や報酬が基準。等価交換的な「持ちつ持たれつ」の考え方。
2. 慣習的水準(中高生~一般成人)
第3段階:対人的同調・「良い子」の指向
周囲から「良い子」と思われたい、期待に応えたいという心理。
第4段階:法と秩序の維持の指向
社会のルール、法律、秩序を守ることが義務であり、社会を維持すると考える。
3. 脱慣習的水準(より高次の段階)
第5段階:社会契約的遵法
法は絶対的なものではなく、社会契約に基づく修正可能もの。他者の権利や社会全体にとっての合理性を重視する。
第6段階:普遍的な倫理的原則
法律を超えて、人類普遍の良心、人間の尊厳、正義に基づいた判断をする。
第3段階(対人的同調)以前では、受動的優しさはほとんど評価されません。
理由は単純で、「何もしていないように見える」からです。
この段階の道徳は行動の可視性に依存しているため、受動的優しさは「無関心」と誤解されやすくなります。
第4段階(法と秩序)でも、受動的優しさはあまり評価されません。
この段階では「義務」「役割」を重視するため、”積極的に行動すること”が道徳的に正しいと判断されます。
第5段階(社会契約的遵法)で、初めて受動的優しさが道徳的に認知されます。
この段階では個人の権利や自律性、選択の自由やプライバシーなどが道徳の中心になるため、「相手を侵害しない」受動的優しさが道徳的価値を持ちます。
第6段階(普遍的倫理)では、受動的優しさはむしろ高度な道徳性となります。
普遍的な尊厳・自由・自律の尊重を可能とする受動的優しさは成熟した倫理的態度として高く評価されるでしょう。
つまり、受動的優しさを優しさと認識するかどうかは道徳判断の発達段階と深く関係していると私は考えます。
もちろんこれは上下優劣や良し悪しを指摘しているわけではなく、ただの理由付けです。
帰結主義と義務論
もう少し別の側面として、帰結主義と義務論の違いもあると考えます。
帰結主義とは「行為の結果が善ければ正しい」とする考え方です。
対して義務論とは「結果に関わらず、動機が善ければ正しい」とする考え方で、これらは対比的な関係にあります。
当然これらも正誤があるわけではなく、むしろどちらも主流の思想で、ただ人によって違うだけです。
私個人としては帰結主義者のため、行為の価値は「意図」よりも「結果」によって決まると考えています。
どれだけ善意であろうとも、受け手が喜ばないものは「ありがた迷惑」であり、他者の善意は受け手が善意として受け取って初めて善行だと思う次第です。
このような帰結主義に基づけば、「優しさ」とは受け手が気付くかどうかに依ります。
受け手が気付かなければそれは「受け手にとっての優しさ」ではありません。
その点で言えば能動的優しさは前述した道徳発達理論からしても「分かりやすい優しさ」であり、受け手にとっても親切です。逆に受動的優しさは少し不親切な「分かりにくい優しさ」と言えます。
そしてそれは同時に、他者の受動的優しさに気付ける人は優しさを増やせる人と言えます。他者の善意に気付かなかったり「やっていて当然」と否定するよりは多くの「優しさ」を世界に増やす認知であり、そういう人は「優しい人の一つの形」ではないでしょうか。
結言
能動的優しさと受動的優しさはどちらも「優しさ」であり、しかしそれらの道徳的価値判断や感受性には個人差があります。
それらの壁を乗り越えて「優しさ」を最大化できる人とは、送り手としては分かりやすく「能動的優しさ」を示し、受け手としては「受動的優しさ」に気付いてあげられる人です。
私としては、そういう人になりたいものです。