「若者の保守化」
「若者による反権力・反体制の衰退」
時々こういった言説を見かけますが、個人的にはあまり賛同していません。
今の若者も充分に反権力的であり、しかし過去とは権力の対象が変わっただけだと思っています。
現代の権力
反権力・反体制が若者文化として盛んであった昭和の時代は、経済格差が今よりも小さく社会が画一的であり、その代わりに価値観の多様性や情報の双方向性が少なかった時代であり、権力とは国家・企業・学校のような巨大で一枚岩の抑圧的システムというイメージが強かったでしょう。
この構図において、反権力とは「自由」「個性」「知性」の象徴として機能します。
対して現代の若者が感じている抑圧は、ネットを経由した大衆からの同調圧力や炎上、過剰な監視や失敗を許さない世論など、上からではなく横からくるものが主流です。
「そんなものは権力ではない」と考える人もいらっしゃるとは思いますが、権力とは『他人を強制し服従させる力』であり、実際には上下関係以外でも権力は生じます。
それこそ言ってしまえば、学校の先生や大企業、果ては政治家まで指先一本で攻撃できる時代であり、現代の若者にとっては権力=体制ですらありません。
下剋上的な反権力構造はもはや若者にとってのリアルではなく、むしろ「若者の保守化」と言って既存の政治的パラダイムに押し込もうとする言説自体が、若者からすれば自由意志の直接的な否定であり、反発したくなる権力です。
また、"正義"が変わったことも影響が大きいでしょう。
人によっては意外かもしれませんが、現代の学問分野の中でも【哲学】は変化著しいジャンルであり、その中でも”正義”は科学と接続して、この数十年で大きく形を変えています。
かつての正義はシンプルで、国家と市民、企業と労働者など、二項対立で権力と善悪が区分されており、反権力・反体制が正義でした。
現代の権力認識はより複雑で、反権力を単純に正義と定義することができず、むしろ反権力を名乗る側が新たな権力を形成することすらあります。
もっと具体的な例示をすれば、かつての"弱者"は"正義"でした。現代において、"弱者”がその"弱者性"を振りかざして特権的利得を得ようとした場合、必ずしも正義とは定義されません。それだけ現代の正義は多元性を持っています。
規範を定義する側の構造的な権力性
とはいえ、古いパラダイムであっても理解可能な枠組みはあります。
「若者の保守化」は、保守リベラル・右派左派といったイデオロギーではなく、「若者の保守化」の背景にある「若者は保守的であるべきではない」とした規範的言説に対する反発と捉えればいいでしょう。
つまり「若者の保守化」を語る層は、若者からすれば規範を押し付けてくる親や先生のようなものである、そう捉えれば理解しやすくなるのではないでしょうか。
「何が正しいか」
「どう振る舞うべきか」
「何が許されるか」
「何が倫理的と判定されるか」
そういった規範を定義する側は、行動を強制させる効力を持っている以上、構造的な権力性を持っています。
かつてはそれが「上だけからくるもの」でしたが、現代では「横からもくるもの」であり、正しさを説く啓蒙的な言説はたとえ上からの言説でなくともそれだけで現代の若者からすれば「かつての親や先生のような権力」です。
「若者は愚かだ」
「若者はモノを知らない」
「なぜ国家や体制を攻撃しないのか」
そういった言説すら、発信者が親や先生ではなくとも若者からすれば「かつての親や先生のような権力」です。
もっと単純化して言えば、「反権力・反体制は親世代の文化」であり、若者にとってはそれ自体が権力性を持っていますので、反発するのは自然なことです。
正義の独占と人権理解
少し難しい構図も整理しておきましょう。
現代の若者は、基本的に「正しさを独占する語り」「異論を許さない空気」「道徳的優位を前提にした主張」を権力と認識して強い違和感を持ちます。
これは人権教育が醸成した結果と言えるでしょう。
キーワードは人権です。
現代の人権教育を受けてきた若者にとって個人の尊厳と権利は重要なものであり、情報社会によってミクロな権力構造が可視化されたことも相まって、個人の人権を蔑ろにし侵害してくるものこそが権力と認識されます。
そう認識すれば、「現代の若者にとって何が反権力的な言説か」の解像度が高まるかもしれません。
結言
要するに、現代の若者は過去の若者と比べても変わりなく、若者らしく反権力的であり、変わったのは「若者」ではなく「権力の構造」です。