頭が悪い人は頭が良い人に騙されるが、
頭が良い人は頭が良い自分自身に騙される。
頭が良い人は"自らをも騙せてしまう"
人々が誤った信念を抱くのは、「正しい信念を知らないか、真実を理解できていないからだ」と考えることが一般的です。
その推論に基づき、『大衆は愚かである、理性と知性の光によって無知と迷信から人々を導こう』としている啓蒙主義者は各所で見かけられることでしょう。
しかしながら、知性とイデオロギー的バイアスの相関関係は様々な研究によって証明されており、現実には頭が良い人ほどバイアスが強く、誤った信念を疑わないことが示されています。
これは実のところ不思議なことではなく、少し考えれば簡単な話です。
イヤな表現での対比になってしまいますが、
- 知性の低い人は、自らの知性に重きを置いていないので、他者が言うことに感化されたり惑わされたりします。誤った情報に騙されることもありますが、正しい情報も受け入れます。
- 知性のある人は、自らの知性を信頼しているため、他者が言うことを疑い、自らが信じたい事柄を自分自身に納得させることができてしまいます。もしも正しくない情報を信じてしまった場合、そこから抜け出すことは困難です。
統計的な結果として、真贋様々な情報が飛び交う現代社会において、他者に感化されて意見をコロコロ変えられる人よりもそれができない人のほうが信念を堅持してしまうため、頭が良い人は強いイデオロギー的偏見を持つ傾向を示します。
雑に言い換えてしまえば、頭が良い人は思い込みが強く、一度正しいと判断したらそれを疑うことが難しくなります。
頭が良いからこそ自らの信念を強化するための情報を無数に集められますし、頭が良い人は推論能力も高いため自らの信念を合理化することにも長けています。
さらに言ってしまえば、頭が良い人は自分よりも頭が悪い世間の意見を優先的には受け入れませんので、そのために自らのイデオロギー的偏見から抜け出すことがなかなかできません。
それが正しいとされる信念であればまだしも、そうでなかった場合は不幸です。
回避方法
状況に対する改善策も考えてみましょう。
基本的には、認知バイアス・誤謬・詭弁などの技術を学んで自らの信念を疑うように導くことが無難でしょうが、困ったことにそれは失敗することも考えられます。
頭の良い人が自らの知識や推論能力を”自らを騙す道具”として使っている場合、さらなる知識や推論能力を与えたとしても、自分自身を騙すのが上手くなるだけだからです。
結局のところ、知性とは道具的なものだとした認識を持ち、自らの知性をどう用いるかを教育する他ないでしょう。知性の有無ではなく、知性をどう用いるかの方向性を整えることが妥当です。
無知に対する好奇心と謙虚さ、知性を用いる上での目的意識、自らの動機に対する内省、社会性の醸成、そういった"人格の発達"だけが知性の取り扱いを向上させます。
基本のキとして、正誤・人格・知性は連動していません。
頭の良い人格者も居れば、頭の良い非人道的な人もいるように、これらはそれぞれ別個に存在します。そして人格や知性がどうであろうとも人は間違える生き物です。
ちょっとリストにして、組み合わせにそれっぽい名前を付けてみましょう。
| 正誤 | 人格 | 知性 | 結果 |
| ○ | ○ | ○ | 調和する賢者 |
| ○ | ○ | × | 無知なる聖者 |
| ○ | × | ○ | 峻厳なる正論家 |
| ○ | × | × | 独善的な正義屋 |
| × | ○ | ○ | 善良なる誤謬家 |
| × | ○ | × | 純朴な迷信家 |
| × | × | ○ | 狡猾な詭弁家 |
| × | × | × | 無害な愚者 |
こんな感じでしょうか。
非現実的ではありますが全部揃った賢者が理想形であり、次点として、「知性」よりも「人格」のほうが重要だと言えそうです。「知性」が×でもまだセーフですが、「人格」が×のパターンは概ね宜しくない感じですので。
結言
この記事の結論は次のようになります。
- 知性を過信してはいけない、頭が良い人は自分自身を騙してしまうことがある
- 知性と人格を混同してはいけない、人の意見を受け入れられないのは知性ではなく人格の問題
- 人格はとても大切、恐らく知性よりも重要
頭が良い人ほど、「自らの頭の良さで自らを騙してしまってはいないか」と内省する人格を備えたほうが望ましいかと思います。