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テクノロジーが発展しても外国語を学ぶ意味は残る

 

 テクノロジーが利便性をもたらしても、平等をもたらすわけではない。

 

言葉が持つ意味

 「テクノロジーの進歩によって翻訳の正確性は増していくのだから外国語を学ぶ必要は無くなる」

 このような言説は時々耳にすることがあるでしょう。

 実際、技術の発展は著しく今や生成AIを用いてほぼ完璧なレベルで翻訳を行うことができるようになりました。まだ微妙なニュアンスの違いや業界ごとに異なる専門用語の意訳などは難しいところですが、それも数年程度で解決されそうなほどテクノロジーは目覚ましく進歩しています。

 

 しかしながら、「テクノロジーの進歩によって翻訳の正確性は増していくのだから外国語を学ぶ必要は無くなる」が正鵠を射ているかと言えばそうとは限りません。前段と後段には必ずしも繋がりは無いためです。

 たしかにテクノロジーの進歩によって翻訳の正確性が増していくことは真です。今やビジネスシーンでも充分使える翻訳ツールが世の中には存在しており、翻訳の正確性は実用的なところまできました。そのような用途を目的に外国語を学ぶのであれば、いずれ不要になることは間違いありません。

 しかし外国語を学ぶ価値は何もコミュニケーションだけにあるわけではありません。ウィトゲンシュタインが述べるように"The limits of my language mean the limits of my world."(私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する)であり、言語を学ぶことには認知の面で大きな意味があります。

 言葉は思考を構築する要素の一つであって、特定の経験や思考を表す言葉や概念がなければ私たちはそれらの表現や理解をすることさえ困難になります。思考を言語で表現できなければそれを完全に理解したとは言えず、私たちの言語能力が理解の範囲を規定しているといっても過言ではありません。
 それはつまり、私たちの現実認識は言語と本質的に結びついていることを示唆しています。異なる言語や語彙を用いることは現実を異なる方法で捉えることに等しいものです。

 さらに敷衍すれば、同言語を用いる集団は同一の現実認識を持つこと、その同一認識こそ文化と呼ぶものであり、私たちは異なる言語を学ぶことで異なる文化を学んでいると言っても過言ではありません。

 

 テクノロジーによる翻訳では言語に依存する思考能力と認知を鍛えることに繋がらず、機械に頼って言語学習を放棄するとそれだけ知性を育む機会を損ねることになります。

 

結言

 重要なのは語彙ですので母語のみを深く学ぶだけでも十分ではありますが、外国語を学ぶ行為はただ意思疎通を図るための技能を身に付けることだけではなく、異文化を理解し自らの現実認識を拡張する点で意味があります。それはテクノロジーで補えるものではなく当人の貴重な知的財産として蓄えられるものです。

 

 要するに、テクノロジーによる発展は多くの人に恩恵をもたらしますが、その結果平等が訪れるわけではありません。実用の面での利便性は高まったとしてもそれ以上の価値を万人にもたらすわけではないのですから。

 誰もが60点を取れるようになるものの、勉強して100点を取る人の価値が低減するわけではない

 よって外国語を学ぶことにはこれからも意味があります。

 

 

余談

 言語に限らず、テクノロジーの発展は概ね全般的にそんな感じのプラスアルファです。

 10点の人が50点増えたら60点で、100点の人が50点増えたら150点です。

 10と100では10倍の差ですが、150と60では2.5倍の差です。

 このようにプラスアルファで格差は減りますが、平等になるわけではありません。

 




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