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権威や権力に対する不服従の違い

 

 本日は祖父の三回忌へ参加してきました。

 三回忌ともなれば故人を偲びつつも、親族の近況確認的な側面が強くなります。そういった場に参加しないと色々と後々の面倒を引き起こしかねませんので、ホームタウンを離れて暮らしている私でもさすがにちゃんと参加します。むしろ故郷を離れているからこそ積極的に参加します。

 

権威・権力に対する反骨心

 とはいえ宗教的儀礼は、保守的な側面を多分に持っている私ですらあまり熱心ではありません。

 もちろんそういった形式の意味は重々承知しています。こういった儀式は人々へ「安心」をもたらすために存在しており、『ちゃんと形式に則って供養をすることによる当人たちの心理的安心』『共同体から後ろ指を指されないことへの社会的安心』『プロトコルを維持することによる死後に対しての本能的安心』、そういった様々な形式の安心がありますので、意味も価値もあると思っています。

 

 ただ、私は原理主義的な理工学の徒でもありますので、宗教的儀礼の存在価値よりもその宗教的儀礼を執り行う宗教者の手法にあまり納得がいっていません。

 歴史を鑑みれば宗教者は”死”を管轄する権威・権力者であり、そのためにも形式ばった豪奢さが必要な時期はあったでしょう。また、現代の形式も長い歴史を積み重ねて洗練されてきた形式であることは間違いありません。保守的な視点で見ればそういった積み重ねには大きな意味と価値があります。

 しかしながら、私としてはどうにも原点を重視していると言いますか、建物や装飾に金を掛けて御立派なお召し物を纏い読経することにあまり意味を見出していません。少なくともお釈迦様はそうせよと命じていないでしょう。

 読経一つ取っても、どのような高さと長さで読み上げるか、もっと言えば音韻にどのような意図を込めているかが不明瞭と言いますか、あまりにも形式ばっています。読経はそもそもが修行のための行為であり、儀礼で用いられるようになったのは後々の世でのことです。

 お坊さんに聞けばきっと色々と歴史や意味を教えてもらえるのでしょうが、そういった独占的な姿勢それ自体が実に権威主義的で、どうにも飲み込みにくいと感じます。

 

 こういった宗教的儀礼に限らず、私の世代の人間は実のところ権威・権力に対して懐疑的です。

 かつての学生運動を筆頭に、若者が権威・権力に対して反抗していた時代に比べればそれ以降の世代はそういった姿勢を行動では示しませんが、それは権威・権力に従順であることを必ずしも意味しません。

 かつての若者の反発は支配からの脱却であり、権威・権力に囚われていた社会集団のしがらみを振り解くことが目的でした。

 対して、私やその下の世代はそもそも権威・権力にしがらみを感じていません

 これは社会全体が都会化したと言えます。現代の若者は村社会的風習に端から縛られておらず、都会的であり、そもそも懐疑的であり、まったくもって不服従であり、阿る価値を認めていないため、そのような社会的支配からの脱却を必要としていません。

 社会的な権威・権力に対して攻撃的な抵抗を示すのではなく端からそれに価値を見出していないことは、形式の異なる反発だと言えます。

 

結言

 これはかつて反発してきた当時の若者たちの成果と帰結であり、よって今時の若者に反骨心が無いとは思わないで欲しいと思っています。

 少なくとも今時の若者は権威・権力に諂わないといった点で、充分に反骨的です。

 かつての村社会的風習が人々の意思と反発によって崩壊した結果、その表し方や対象が変化しただけです。

 




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