文化の日は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことが趣旨のようです。
道徳の教科書にあるような綺麗な言葉ですが、意外と難しいことを要求されているような気がします。
自由の幅
まずそもそも「自由と平和を愛し」の部分は案外難しいものです。何故ならば人は時に自由のことを「好き勝手気まま」だと誤解しがちなためです。
もちろん言葉の定義通りに言えば自由とは「他からの強制や拘束、支配などを受けないで自らの意思や本性に従っている」状態を意味します。自らの意に従った思うままの状態が”自由”です。
ただし、その自由は平和をもたらしません。
それは単純に個々人が無制限に自由なふるまいをすれば自由同士の衝突が起こるためです。
誰かの自由を掣肘すれば別の誰かに自分の自由を掣肘されることも許容しなければダブルスタンダードになる以上、個々人が完全に自由な社会では数多の衝突、無自覚に振り回した腕同士のぶつかりが生じることは避けられないでしょう。
そして人々が衝突し合いそれぞれの自由の幅を奪い合っている社会は”平和”ではありません。平和とは争いが無い状態のことだからです。
「自由と平和を愛し」は普遍的に価値ある考えですが、その両立は意外と難しいということです。
無制限の自由は無く、無拘束の平和も無いと理解し、私たちは互いの平穏を阻害しない範囲、すなわち自由の幅を理解して適切な自由の檻の中でのみ自儘に振る舞うことで初めて自由と平和を共存させることができます。
文化の意味
このように自由と平和の両立について考えると、この言葉を文化の日の趣旨として設定した人の考えも少し分かったような気がします。
文化とは端的に言ってしまえば「人々の振る舞い」です。思想や理想、技術や習慣など様々な人間の精神活動によって形作られた様式や表現を意味する言葉が文化であり、つまり文化とは社会の発展そのものだと言えます。
過度な自由からの脱却、すなわち万人の万人に対する闘争のような自然状態を抜け出すこと。
過度な束縛からの解放、すなわち争いを避けるために人々へ強制するような仕草は避けること。
極端へ走るのではなく、平和をもたらす範囲での自由を自覚することこそが「自由と平和を愛する」ことであり、そういった振る舞いを社会の構成員それぞれが自然と身に着けた状態が文化的かつ発展した社会で、そういった成熟した社会を希求することが「文化をすすめる」ことなのではないか、私はそう思います。
結言
なんとなく文化の日について考えてみました。
こういった妄想・・・思索も、ある意味で文化的活動ではないかと思ったり、思わなかったり。