個人とシステムのズレ。
属人性に関する前提の共有
属人とは、「人に属する」「人を基準とする」ことを意味している言葉です。
「属人性が高い」とは「余人をもって代えがたい」状態であり、物事をそのような状態にすることを「属人化」と言います。
属人性の高低は技量の優劣に依存するように思えますが、実際はそうとも限りません。
たしかに他者と隔絶した技能を有する人や仕事はそれだけで余人をもって代えがたいため属人性が高いと言えます。アスリートや芸術家、研究者や俳優などは属人性が高い仕事の筆頭格です。
しかし例えばお医者さんや飛行機のパイロットは高度な技能を習得していますが、これらは属人性が低い仕事です。ほとんどの場合で特定の個人が居なくとも別の誰かが代わりに仕事をこなすことができます。
対して低技能労働であっても誰かが仕事を抱え込んでいて周囲が一切情報を入手できていなければその誰かが居ないだけで仕事が回らなくなりますので属人生が高い状態です。
つまり属人性の高低に関しては技能の優劣ではなく代替性の度合いで決まります。
本能的な属人性への欲求
社会や組織は本能的に恒常性を希求するため、高度な技術を要する仕事であればあるほど人材育成に時間が掛かることを考慮して属人性を下げる努力をしています。
よってマクロな観点からすれば属人性は悪だとすら言えます。
対して人間個人は必ず衰えて没する存在であり、社会や組織の恒常性は個人からすればプライオリティが高い事柄ではありません。それよりも「自分でなければできない」、「自分が居なければならない」、そういった余人をもって代えがたい状態は自尊心を育むことから個人からすれば優先されます。
よってミクロな観点からすれば属人性は善ですらあります。
つまるところ、自尊心と属人性は疑似的な二律背反の関係です。
属人性を悪とする集団は個人の自尊心を育成することが難しくなり、その代替として国家や宗教といった異なる規律が不可欠となります。
属人性を善とする集団は集団の恒常性が損なわれるため、長期的に存在することができません。
もちろんどちらかを決め打ちする必要はなく、恒常性が優先される大集団においては属人性を削減し、属人性を優先できる小集団であればそうすればいいだけのことです。例えば大企業は倒産すると社会的損失や従業員の生活に支障を来たすことから恒常性に重点が置かれて、ベンチャー企業はそうではないことから個人の自尊心を優先した経営戦略を取る、そういった具合の違いに過ぎません。
個人的な信条
以上より、人間は個人であれば属人性の高さを好みます。
人は他者からの承認を得られないことに苦痛を覚えるものですし、余人をもって代えがたいような属人性の高い状態は個人の自尊心を育むのに十分な役割を果たすでしょう。
しかし私は属人性が高い状態をあまり好みません。
属人性が全く無い社会を理想とするわけではありませんが、システムの恒久性を考慮すれば多くは交換・代替が可能なほうが望ましいでしょう。サステナブル(持続可能)なシステムとは一切傷が付かない静的な構造ではなく、傷が付いてもそれを修理して改善できる動的な構造だと信じています。
かといって自尊感情を軽視しているわけでもありません。
個人が自律し自らを確立するためには自尊心が不可欠であるとすら思っています。
属人性を否定しつつも自尊心を重視するこの考えについて、個人的な理屈を述べてみましょう。
まず、己以外のところにアイデンティティを依存していない状態こそが真の自尊感情だと私は考えています。
属人的な状況はたしかに個人の自尊心を育みます。しかしそれは麻薬のようなもので、属人性そのものに自らのアイデンティティを委託している状態に過ぎず、”それ”を失っては自尊心を支えられなくなるような状態を自立しているとは言えません。
”それ”が無くとも己は己である状態、たとえ腕を失い仕事ができなくなっても、たとえ脚を失いどこへも行けなくなっても、己は己であると断ずる信念こそが自尊心の根底だと私は思います。
次に、私は個人の代替性を本質的には存在しないと考えています。
それこそ個人の仕事や言動は著しく卓絶していない限りほとんどの場合で他者が模倣可能です。現実とは極めて属人性が低いものであり、一握りの人間以外はマクロな視点からすれば容易に置き換えることができます。
しかしミクロな視点からすれば個人の代替性はありません。仕事を例にすれば、その仕事は個人そのものではないためです。たとえ他者ができるようになったとしても人間個人を代替したとは言えないでしょう。
そう考えるからこそ私は仕事の属人性をできる限り排除しますし、そのために持っている知見はなんでもかんでも形式知へと置き換えるようにしています。このブログだって私の考えを残す場であるのと同時に偶然でも誰かの役に立つのであればいいと思って無料で運営しています。私の知見を他の誰かが模倣したとしても、私は私であることに変わりはないのですから。
さらに言えば、他者からの承認は後から付いてくるものだと考えています。
自尊心・自己肯定感の育成には他者からの承認が必要であることは過去の記事でも述べたように現実です。
しかし、これは普通に考えれば当たり前のことですが、何もしない大人を承認する大人はいません。他者からの承認は後からであり、まずは確立した自己からの出力を他者に提示することが先です。
もちろん子どものうちは自らを確立することなどできませんので両親や先生の承認が背中を押してあげる必要があります。しかし大人であれば他者からの承認に押されて駆動するのではなく、自ら動き、その結果に対して承認を受け取ることを自然としなければならないと考えます。
根拠に依存しない自尊心
つまるところ自尊感情とは、まず何はさておき自ら構築し、その結果に対して他者からの評価を受けることで補強されるものだと考えます。
結果は他者からの評価対象ではありますが、結果にアイデンティティを置くとそれが出せなくなった時に己の自尊感情を支えることができません。
重要なのはアウトプットした結果そのものではなくアウトプットするための機能であり、つまりは己自身にアイデンティティを置くことです。他者からの承認も同様に、それによって自己を確立するのではなく、確立した自己を補強するための材料として用いることが妥当です。
その入り口として、まずは根拠も無しに自らへの自尊感情を持つ必要があります。
そういった人間は恐らく特殊であり、言ってしまえば異常者の側ではないかと個人的には思っていますが、まあ私はそんな自覚的な異常者なのかもしれません。
結言
ややこしい話なので、何か適当なたとえ話を考えてみましょう。
とりあえず芸術家を例としてみます。
公開した芸術品への評価を自尊心の土台とした場合、他者に評価される芸術品を作れなかった場合や事故などで芸術品を作れなくなってしまった場合、そもそも他者に評価される前の駆け出しでは自尊心を保つことができなくなります。
対して「今は人から認められていないが自分は凄い芸術家だ」と信じ込んでいる人は確固たる自尊心を持っていると言えるでしょう。
「芸術品を作る自らの機能」にアイデンティティを置くのではなく、それが無い己であっても価値を認めるためには根拠も無く己自身の価値を信じる信仰心が不可欠です。
つまりはある意味で狂信者的な思想だとすら言えます。
まあ、気が狂わない程度にバランスを保ち、両取りすることが無難な気はします。自らの自尊心を一本で支える必要はなく、己自身の評価と他者からの承認、その二本で支えることが健全かと。